26話 積年の慟哭
巨人の顔が、上へ振り上がった。
髭に覆われた顎が、解人の頭の上を通り過ぎていく。目も口も、もう解人を通り越して、そのずっと上、雲の切れ間に浮かぶグロリアへ向いている。
ォオオ……ォオオオオオオオ――ン!!!!
音より先に、胸にずしんと来た。しがみついている肌の下から震えが這い上がってきて、歯の根がカチカチと勝手に鳴る。吠え声は、寺の鐘みたいに長く尾を引いて、少しずつ高く掠れていく。吠えているはずなのに、どこか悲しい声だった。
雲が、ぶわりと押し返された。ずっと上で、グロリアの縁から、石の粒のようなものがぱらぱらとこぼれ落ちていく。
耳の奥がキーンと鳴りっぱなしの中、解人は自分の右手を見た。
白く光る欠片は、まだ手のひらに貼りついている。腕を焼いていた痛みは、いつの間にか引いていた。ケーブルの金具が打ち込まれていたのは、ちょうどこの真上だ。何百年も、ここから吸い上げられていた。
――これが……理の欠片、か。
持って帰れば、マハトも少しは褒めるかもしれない。あの仏頂面が、ちょっとくらい崩れるところを見てみたい。
……いや、「そうか」の一言で終わりだな、たぶん。
頭の上で、吠え声が途切れた。
ゆっくりと、顔が下りてくる。さっきと同じ、濁った大きな目。ただ、今度はその目が細くなっていた。
「……ん?」
低い声に、空気ごと体を押される。
「人間?……そこで、何をしている」
答える前に、空が二本の指で塞がれた。
指の腹が背中と胸を挟み込み、ぐん、と体が引き剥がされる。手のひらから、何かがするりと抜けた気がしたが、それどころではない……。足の下から巨人の胸が遠ざかり、ビュオオオッと風が耳を叩いて、内臓が一つ遅れてついてくる。
止まったときには、目の前が顔だった。
視界の端から端まで、灰褐色の肌と、髭と、目。瞼が一度下りて、また上がるだけで、湿った風が頬を撫でていく。生ぬるい息に、土と、何かが腐ったような臭いが混じっていた。
ついさっき、こいつの記憶の中で見たばかりだ。足もとを走り回る人間をつまんで、手のひらに乗せて、飽きたら口へ運ぶ。
――次は、俺の番か。
喉が、ひゅっと鳴った。口だけがぱくぱくと動いて、声が出てこない。
「た……た、食べても、おいしくないです……!」
やっと出た声は、見事に裏返っていた。巨人の目は、少しも動かない。
「お前……丸い眼鏡の男を、知らないか」
ゴウ、と言葉のたびに風が来る。
「鉄の鳥に乗ってきた男だ。俺は、あいつに話がある」
ヴィクターのことだ…。たぶん、もう生きてはいないだろうな。
――死んでる、なんて言ったら……俺、用済みじゃん。
「い、いや……知らないな。ヴィクターなんて、全然……ハハ」
言ってから、口を押さえたくなった。押さえる手は、指に挟まれて動かない。
巨人の目が、すうっと細くなる。
「……ヴィクター」
確かめるように、ゆっくりと繰り返した。
「それが、あいつの名か。……今、名を言ったな」
「あ、いや、今のは、その……」
「嘘は、もう聞き飽きた。一週間だと言われて、この有様だ」
指に、ほんの少しだけ力がこもった。それだけで、肋がみしりと鳴る。
ドオォォーーーーーン――……。
ずっと上で、腹に響く音が弾けた。巨人の肩越しに、グロリアの奥から火柱が上がるのが見える。白い塔が並んでいたあたりだ。黒い煙がもくもくと膨らみ、遅れて、熱を含んだ風がここまで降りてきた。
あそこには、マハトたちがいたはずだ。
「マハトーー!トルガーー!エマーー!」
喉が裂けるほど叫んだ。届くはずがない。分かっていたが、もう一度叫んだ。
巨人の目が、解人から煙へ、煙から解人へ戻った。
「あの街……」
そう口にした途端、吐く息が熱くなった。
「お前、あの街の人間か!?」
叩きつけられた風で、体ごと後ろへ持っていかれそうになる。
「ち、違う違う!住んでるわけじゃないって。下から登ってきたんだよ、みんなで。だから、さっきの爆発で大丈夫かなって……」
「………」
巨人は答えなかった。荒い息が、ふう、ふう、と顔に吹きつけてくる。濁った目は、まばたきもせずに解人を見ていた。
黙って聞いてくれている。もう一押しで、なんとかなるかもしれない。
「そ、そうだ。あそこまで連れてってくれないか?このケーブル外したの、俺なんだぜ。すごいだろ!ははは……。あんたを助けに来たんだよ!心配になってさ……」
「………」
世界が、ぐるりと回った。
指がつまみ直したのは、足首だった。空が足もとへ、地面が頭の上へひっくり返る。逆さまの視界の中で、巨人の口が上に、目が下に並んでいる。
「信用ならんな」
口が動くたびに、髪が真下へ吹き流される。
「俺が知りたいのは、あのヴィクターという嘘つきの居場所だ」
頭に、どくどくと血が集まってくる。こめかみが脈打って、考えがまとまらない。
「わ、分かった!教える、教えるから!俺の仲間が、あの街にいるんだ。あいつらなら、知ってるはずだから!」
言いながら、自分でも分かっていた。苦しい嘘だ。
「・・・・・」
長い間があった。風の音だけが、逆さまの耳の横を流れていく。
「……嘘だな。俺はもう騙されない」
足首を挟んでいた指が、ふっと緩んだ。
「それに、あの爆発だ。生きてはいまい」
指が、弾くように開いた。
ビュオオオオッ――。
下から、風が全身を殴りつけてくる。逆さまのまま、体がくるくると回った。空、巨人の脚、白い花の野原、また空。叫んだはずの声は、口を出た途端に風にちぎられて、自分の耳にも届かなかった。
嘘だろ。あいつらが、死んだ? そんなわけない。あいつらが、そう簡単に死ぬかよ。
回る景色の向こうに、退屈だった毎日がちらついた。……やっぱ、来なきゃよかったな。
なのに、次に浮かんだのは、こっちで会った顔ばかりだった。
――まだ、何も……返してねぇのに。
ふいに、まぶたの裏が白くなった。
回転が一瞬止まった隙に、目を開ける。強い光が、足先のほうから差していた。雲の切れ間から落ちてくる光を、何かが金色に照り返している。それが、みるみる大きくなってくる。
金の、卵だった。
継ぎ目の見えない、つるりとした金色の船体。その背中で、二枚の殻が左右に割れて持ち上がり、薄く透けた翼が何枚も震えていた。ヴウウウウン、と腹に響く唸りが近づいてくる。
カノンの鎖が叩き壊した壁の向こう、暗い格納庫に横たわっていた、あれだ。
「……飛行船?」
飛行船は、まっすぐ勢いよく、解人よりも速く降りてきた。
頭の先の丸いガラスの向こうに、顔が二つ並んでいた。レバーにしがみついたトルガが、口を大きく開けて何か叫んでいる。その横で、エマが顔をくしゃくしゃにして、ガラスを叩いていた。
船は、瞬き一つで追いつき、すぐ横に並んだ。風の中で、金色の頭が少しずつこちらへ寄ってきて、落ちる速さがぴたりと揃った。頭の先が、上下にばくりと開く。中から、平たい板が舌のように伸びてきた。
――ちょ、また食われる!?
板が背中の下に滑り込み、体がふわりとすくい上げられる。そのまま、開いた中へ転がり込んだ。
パクッ。
背中で光が細くなり、ふっと消えた。次の瞬間、床がぐうっと持ち上がってきて、体が押しつけられる。船が、頭を上げたのだ。ごろごろと床を転がった体が、何かにぶつかって止まった。
「……よくやった」
低い声が降ってきた。
見上げると、黒い襟の上に、見慣れた仏頂面があった。マハトの腕が、転がり込んできた解人の体を、肩ごと抱えている。その手に一度だけ、ぎゅっと力がこもった。
「マハト……お前、生きて……」
言いかけて、喉が詰まった。代わりに、別の言葉が飛び出してくる。
「――っていうか、どうやってこんなの動かしたんだよ!?」
「知らねぇよ!レバー引いたら動いたんだよ!」
答えは、前のほうから返ってきた。
丸窓が並んだ部屋の先、一段高くなった操縦席で、トルガが何本ものレバーをまとめて引っ張っていた。そのたびに船体がガクンと傾き、天井の金の飾りがジャラジャラと揺れた。
「解人兄ちゃん!」
横から、小さな体が飛びついてきた。煤だらけの顔で、解人の袖をぎゅっと握って離さない。
「カノンの野郎がいきなり固まってよ、そしたら塔の奥がドカンだ!床は傾くわ、エマは『解人兄ちゃんが落ちる』って泣くわで……」
「泣いてない」
「泣いてたろ!」
「お前がいなければ、この先が続かん…」
マハトは短くそう言って、解人を床に座らせた。袖を握ったままのエマの手を、ちらりと見る。
「……マハト、トルガ、エマ。……戻ったぞ」
「解人兄ちゃん」
丸窓の向こうに、グロリアが見えた。さっき見上げたときより、少し低い。それに、縁がわずかに傾いていた。
船の高さも、低かった。窓のすぐ下を、白い花の野原が流れていく。トルガがレバーを引くたびに、船は上がるどころか、ふらふらと花の上を這った。船の横には、巨人の脛が、柱のようにそびえていた。
ズゥン――。
船全体が、下から突き上げられたように揺れた。
「――忌まわしい……」
窓の外で、空気が震えた。
「弱くて……嘘つきの……人間どもが……!我らより罪深い」
丸窓が、影で塗り潰された。
前の窓へ駆け寄って見上げると、巨人が片足を高く持ち上げていた。その足の裏が、船の真上から降りてくる。皺の一本一本に土が詰まり、踵には、白い花が根ごとぶら下がっている。
「トルガ!上だ、上げろ!」
「やってる!こいつ、言うこと聞かねぇんだよ!」
ゴゴゴゴゴ……。
地面の奥で、地鳴りが響いた。花の野原の向こう、四人で転がり落ちてきた山の斜面が、ぶるりと震えた。木が倒れ、岩が転がって、斜面に一本の亀裂が走る。
その亀裂から、手が出てきた。
土と岩をまとったまま、指が一本ずつ持ち上がる。さっき自分をつまんだ指と、同じくらい太い。その手が、降りてくる足首を、横からがしりと掴んだ。
足の裏が、窓の目の前で止まった。踵からぶら下がった花が、ぶらりと揺れる。
「……ノアム……」
地の底から、声がした。巨人の声より高い。けれど同じように、空気ごと体を押してくる。
「ノアム……やめろ……」
ノアム。前にエマが、その名前を口にしていた。
「……山が、呼んでる」
エマが、窓に両手をついていた。
山が、立った。
斜面だったものが持ち上がり、木も岩も、ざああっと土砂になって流れ落ちていく。崩れる土の中から肩が出て、背中が出て、泥にまみれた長い髪が垂れ下がった。
足首を掴んでいた手が、押しのけるように離れた。ノアムの足が、船の横へズゥンと落ちる。
「おいおいおい、もう一人いんのかよ!?」
トルガが、レバーを握ったまま叫んだ。
土煙が風に流されて、ようやく全身が見えた。女の巨人だ。ノアムと同じ灰褐色の肌に、まだ土がこびりついている。斜めに傾いだ顔が、ノアムの顔と、ちょうど同じ高さにあった。
洪水の中で別れた顔だ。濁流に髪を広げて、握った指が一本ずつほどけていった、あの女の顔だった。
ァアア……ァアアアアアアア―――――ン!!
女の巨人が、天を仰いで叫んだ。ノアムと同じ、長く尾を引く声だった。ただ、こちらのほうが高く、ひび割れている。丸窓がびりびりと震え、エマが両手で耳を塞いだ。マハトは窓の前に立ったまま、杖を握り直した。
ノアムは、肩で息をしたまま、女の巨人を見つめていた。
叫び声が途切れると、女の巨人は、ぎょろりと目を動かした。空を、山を、自分が埋まっていた土の穴を、何かを探すように見回していく。
その顔が、みるみる歪んだ。
「あいつは……」
握った拳が、ぎしりと軋む。
「あいつは、どこだぁぁああああああ!!」




