25話 出会いと、嘘
『汝らは、罪を負いし神の子なり』
*
ザアアアッ。
雨は、もう降るというより、空ごと落ちてきていた。足もとの地面が水に変わり、その水が膝を越え、腰を越え、胸までせり上がってくる。踏ん張ったはずの足が、ずるりと浮い――
ゴオオオッ。
水の中を、ごろごろと転がされる。上も下も分からない。根ごと引き抜かれた大木が、小枝みたいにくるくる回りながら、指のあいだをすり抜けていく。やっと顔を出しても、見渡すかぎりの洪水で、陸はどこにもなかった。遠くの山の頂が、ひとつ、またひとつと水の下へ沈んでい――
まばゆい光。
黒い雲の裂け目の、そのずっと上だ。雨も風も、そこまでは届かない。光はただ静かに、こちらを見下ろしていた。
握っていた手が、ぐいと引っ張られた。水の向こうに、同じ大きさの顔がある。斜めに傾いだ女の顔だ。長い髪が濁流に広がり、開いた口に泥水が流れ込む。握り合った指が、一本、また一本とほどけていく。
『ノアムーーー!!』
最後の指が離れた。叫び声も顔も、渦に呑まれて遠ざか――
――ノアム……?待てよ、木が指のあいだを……俺、あの巨人の中なのか?!
目も手も、解人の思うようには動かない。そのまま、何も見えなくなった。
――静かだ。
目を開けると、雨は止んでいた。灰色の空の下、平らな泥が地平線まで続いている。あの顔も、ほかの誰の姿もない。
それでも、歩いた。踏み出すたびに足が泥に沈み、振り返ると足跡が池になっている。地平線をいくつ越えても、景色は何も変わらなかった。
何度目かの朝、足が前に出なくなった。空っぽの腹が、遠い雷みたいに鳴った。
その音につられて、昔のことが浮かんできた。
――腹が減ったら、つまめばよかった。
足もとを走り回る、小さなもの。指でつまんで手のひらに乗せると、きいきい鳴きながら縁へ逃げだした。
――人……?あれ、人間じゃねぇか!
落ちる寸前で指先に引っかけて真ん中へ戻し、走りだしたらまた戻して、それを何度でも繰り返す。足の速いものは、脚を一本つまんでから放してやった。そうすれば、もう速くは走れない。
飽きたら、つまんだまま口へ運ぶ。唇のあいだで、小さな脚がばたばたともがいた。舌の上に落として噛むと、ぷち、と潰れる手応えがあって、それきり鳴き声は聞こえなくなった。いくつ喰っても、腹は少しも満ちなかった。
――うっ……。
解人の喉が、ひきつった。吐きたいのに、吐き出す口がない。
それなのに、この喉は、ごくりと鳴る。今ここに一つでもいれば、迷わずつまむ。
記憶の手のひらに、二つ並んだ小さなものがいた。片方が、もう片方の手を握っている。指で引き剥がそうとして、少し力を入れすぎた。握られていた方が、くたりと動かなくなる。それでも、握っている方は手を離さなかった。
――やめろ……やめろーーっ!
解人の叫びは、どこにも届かなかった。離れないなら、それでいい。二つまとめて、口に入れる。奥歯で噛むと、ぱきり、と小枝の折れるような音がした。きいきいという声が、口の中でぷつりと途切れた。
――あの声が、耳から離れない。
自分の手を見下ろした。泥にまみれて、何も握っていない手だ。濁流の中で、指が一本ずつほどけていった感触が、まだ指先に残っている。あの小さな二つは、最後まで離さなかった。
目から、何かがこぼれた。泥に落ちて、ぼたり、と小さな池になる。それが何なのか分からないまま、喉の奥から声がせり上がってきた。泣き方など知らない声は、獣が吠えるように空へ向かい、何にもぶつからないまま消えた。
――なぜ、俺は生まれてきた。喰っても喰っても満たされない、こんな体で。
答える者は、どこにもいない。気づけば、解人の喉まで同じように震えていた。
――もう、だめだ。ここで、俺は死ぬ。
何日そうしていたのか分からなくなった頃、空のはるか上で、光が花火のように大きく咲いた。少し遅れて、ドォン、と腹の底に響く音が降ってくる。光はばらばらの火になって、雲の向こうへ落ちていった。
――迎えが、来たのか。それとも、何もかもなくした者への、最後の土産か。
きれいだった。泣くのも忘れて、火がすっかり消えるまで見上げていた。
火の夜から数えて七度目の夕暮れ、目の前の空に、鉄でできた脚の太い鳥が一羽浮かんでいた。手のひらに乗るほどの大きさで、その背中に、もっと小さな人間が立っている。
その顔が、目の高さにあった。人間はいつも足もとで、逃げ回るばかりだった。この男は逃げない。丸い眼鏡の奥で目を細め、微笑んでいる。
――ヴィクター……!
『ずっと、上から見ていたよ。君の泣き声は、雲の上までよく届く』
『……何をしに来た。喰われに来たのか。まだ、お前一人つまむ力ぐらいは残っているぞ』
『いいや。私は、頼みがあって来たんだ』
男は鳥の背で、胸に手を当てた。
『突然で申し訳ないが、罪なき、大きな人間よ……。私の生涯の研究のため……いや、哀れな人間のために、力を貸してくれないか。……少しだけで、いいんだ』
『……罪なき、か。貸せる力など、どこにある。見れば分かるだろう。このまま、俺はここで死ぬ運命だ』
『どうせ死のうと考えているのであれば、その命を、少しだけ人間のために預けてほしい』
男は、雲の上を指さしているらしかった。指先は、目を凝らしても見えないほど小さい。
『一週間だけ、眠ってくれ。そのあいだ、ほんの少し君の力を分けてもらう。その力で、私の野望を、叶えたいんだ』
『……前に、空に火花が上がっていたやつか』
男の笑みが、ぴたりと止まった。眼鏡の奥の目が一度だけ横へ逸れ、それから、前より大きな笑顔が戻ってくる。
『……ああ、そうだそうだ。でっかい火花を空にまた咲かせたいんだ』
自分の手を、もう一度見下ろした。数えきれないほどの小さなものを、つまんできた手だ。
――どうせ、死ぬ。それで、少しでも人間のためになるのなら。
『……一週間だけだよ、巨人くん』
『本当に、一週間だけか?』
『そうだ、私を信じろ…』
――だめだ、乗るな……!
目を閉じた。立ったまま、体から力が抜けていく。胸の真ん中に、ちくりと何かが刺さる。虫に食われたほどの、小さな痛みだった。
――これも今までの償いのためだ、一週間ぐらい・・・。
そう思ったのを最後に、何もかもが暗く沈んだ。
「――っ、は……!」
右腕の焼ける痛みで、解人は目を開けた。
割れた肌が、すぐ鼻先にあった。白く光る欠片を、まだ握っている。指はほとんど動かないのに、手のひらだけが欠片に貼りついたまま離れない。下から吹き上げるビュオオッという風が、汗で濡れた首筋を冷やしていく。
すぐ横では、花の根が深く食い込み、まわりを瘤のように盛り上げていた。
――一週間、だって?
一週間で、こうはならない。何十年でも、きっと足りない。
握った手のひらから、何かが流れ込んできた。熱い。腹の底がかっとなって、奥歯が勝手に噛み合わさる。誰かの胸ぐらを掴みたいような――自分のものではない何かが、胸の内側を、どん、どんと叩いてくる。
――なんだよ、これ……誰に、こんなに怒ってんだよ……。
どくん。
手のひらの下で鳴った鼓動は、さっき鉄越しに聞いたものとは違った。近くて、強い。次の一回がすぐに来て、どくん、どくん、と間隔が詰まっていく。
ゴゴゴゴ……と、地鳴りが足もとのずっと下から這い上がってきて、しがみついている胸全体が揺れ始めた。
視界の端で、体の横に真っ直ぐ下ろされていた腕が、じわりと持ち上がる。岩壁がそのまま起き上がってくるようで、どこまでが肘で、どこからが肩なのかも分からない。動きは遅いのに、止まる気配がなかった。
胸の上の花が一斉に震え、食い込んでいた根がぶちぶちと千切れた。ケーブルがギシリと軋み、足場が少しずつ傾きだす。解人は割れ目の縁に肘を引っかけ、欠片を握ったまま、体を肌に押しつけた。
「うっ……動いて、る……!」
頭上で、雲が動いた。巨人の肩のあたりに溜まっていた白い帯が裂け、ビュオオッ、と霧が吹き散らされる。その奥から、斜め上を向いたままだった顔が、首ごとこちらへ下りてきた。下りてくる、というより、頭の上の景色がまるごと傾いてくるようだった。
初めて見る顔だった。風化した石のような灰褐色の肌に、細かな皺が刻まれている。肩にかかるほどの髪と、伸び放題の髭。そのわりに、顔は若かった。三十を少し過ぎたくらいの、男の顔だ。
閉じた瞼の下で、何かがごろりと転がった。目玉だ、と分かったのは、それがこちらを探すように、もう一度動いたときだった。瞼が、持ち上がる。濁った大きな目が、胸にしがみついている小さな人間を、まっすぐに見下ろした。
――目が、合った。
巨人の口が開き、髭が上下に割れた。その奥に、空ごと飲み込めそうな暗い穴が広がる。
ゴオオオオオオオオオッ。
周りの風が、ごっそりその口へ吸い込まれる。解人の髪も服の裾も口の方へ引っ張られ、欠片を握る指が震えた。
その風が、ぴたりと止んだ。




