20話 栄光都市グロリア
板の縁が石畳に触れると、噛み合っていた翼が端から順に外れていった。足場がそのまま羽音に変わり、解人とマハトは、ほとんど放り出される形で地面へ転がった。
顔を上げたときには、群れはもう散っていた。黒い点が白い空にばらばらに散らばって、街の縁を越えるたびに、一羽、また一羽と下へ沈んでいく。最初に頭を叩いた一羽だけが少しのあいだ頭上を回っていたが、それも「上の者、ご帰還を確認。コッ」と言い残して、縁の向こうへ消えた。
「……帰りの便、なくなったな」
「元から片道だ。エマを探しに行くぞ」
マハトは杖を拾い、服の裾を払った。それきり、二人とも黙った。
転がり出たのは街の外れの小さな広場で、塔のあいだを抜ける風の音と、どこかで水の流れる音のほかに、耳に届くものが何もない。
見上げると、白く細い塔が何本も立っていた。燭台の蝋燭みたいに、どの先端にも人の頭ほどの宝石が一つずつ灯っている。緑、赤、青。日を受けるたびに色が石畳へ滴り、足元の模様を塗り替えていく。光だけがにぎやかで、人の影はどこにもなかった。
足元に目を落とすと、石畳の一枚一枚に小さな宝石が花の形に嵌め込まれていた。塔から降る光を受けて、足の下の花まで光っている。その上で、泥をつけたままの自分の靴だけが暗い。
――きれいなのに、生きてる感じがしない。
広場の隅で、石畳が丸く途切れていた。覗き込むと、暗がりの底から、あのケーブルが街の中へ這い上がってきている。黒ずんだ金具が、街の土台に何重にも噛みついていた。
解人は思わず右腕を押さえた。けれど、袖の内側は静かなままだった。巨人の胸の前ではあれほど引っ掻かれた腕が、同じケーブルを前にして、何も言わない。
「……疼かない。胸のとこでは、あんなに痛かったのに」
「なら、私の読み違いだな」
マハトは、ケーブルが沈んでいく暗がりを見下ろした。
広場から延びる小道に入ると、両側に白い石の家が肩を寄せ合って並んでいた。どの窓枠にも色石が嵌まり、扉の取っ手まで顔が映るほど磨かれている。窓から覗く部屋の中にも、棚や卓の上に、小さな宝石が当たり前のように置かれていた。村なら一家に一つ、家族の証にするような石が、ここではどの家にも転がっている。
「すみませーーーーん!誰かい〜ま〜すーーか〜〜〜?」
手近な扉を叩いたが、返事はない。二軒目、三軒目と叩いても同じだった。四軒目は、叩いた拍子に扉が内側へ開いた。
開いた扉の表で、花輪が揺れていた。花はとうに抜け落ちて、枝を編んだ輪と、白茶けた布の帯だけが残っている。見回すと、どの扉にも同じものが掛かっていた。磨き上げられた街で、それだけが古びている。
「全部の家に、同じのが掛かってる。……お祝いでもあったのか」
「布の色の抜け方からして、何十年も前のものだ」
「何十年も、誰も外さなかったのかよ」
マハトが、布の帯に指先で触れた。帯の端が、音もなく粉になってこぼれる。石畳に落ちたその粉は、目を離した隙に、跡形もなく消えていた。
通りを三本抜けても、人には会わなかった。それなのに、どこを見ても汚れがない。
「こんなに誰もいないのに、なんでこんなにきれいなんだよ」
角を曲がった先で、答えがしゃがみ込んでいた。
手のひらほどの機械が、石畳に張りついて小さな円を描いている。腹の柔らかそうな部分で石を擦り、一枚磨き終えると隣の一枚へ移る。少し先にもう一台、その先にも一台。家の壁を這い上がっているものもいた。
家にあったロボット掃除機を思い出した。あれは壁にぶつかるたびに向きを変える間抜けなやつだったが、こっちは仕事が恐ろしく丁寧だ。
ふと振り返ると、歩いてきた道に、泥の足跡が点々と続いていた。山から連れてきた土だ。その一つひとつに機械が取りついて、後ろから順に消していく。解人が残した跡は、この街では汚れとして片付けられていくらしかった。
マハトが屈んで、足元の一台を拾い上げた。裏返された機械は、宙に浮いたまま律儀に円を描き続けている。マハトはそれを、何も言わずに解人の靴底へ押し当てた。
「おい、何してんだよ」
「汚れているからな、きれいにしておかなければ」
「そんなのいらないって、どうせまた汚れるし」
「いいからきれいにしておけ、汚いのは見てられん…」
野球部にいた頃は、練習の終わりに毎日、トンボでグラウンドをならしていた。どうせ明日また荒れると分かっていても、明日使うから、ならした。
靴底をくすぐられながら、解人はもう一度、通りを見渡した。磨かれた石、磨かれた扉、磨かれた水。宝石の光が、少しだけ冷たく見えた。
そのとき、風の音に混じって、小道の奥からシクシクと泣く声が聞こえた。
「……まさか!エマーーー!」
「待て。誰もいない街で、泣き声だけがするのはおかしい」
「だから、エマしかいねぇだろ!行くぞ」
「焦るな」
マハトの声を背中で聞き流して、走り出した。小道を曲がり、水路を跳び越え、狭い階段を二段飛ばしで駆け下りる。泣き声が近くなる。
建物の隙間を抜けた途端、視界がひらけた。
円い広場の真ん中に、噴水があった。白い石の水盤が三段に重なり、いちばん上から澄んだ水が噴き上がっている。その噴き上がる水の真上に、像が一つ立っていた。
宝石の街で、その像だけが銅の色をしていた。足元で砕けた噴水の水が、銅の膝を濡らし続けている。いつからそうしているのか、膝から下だけが、ほかよりも少し黒い。
追いついてきたマハトが、台座の文字に目を留めた。
「……ヴィクター、と刻まれているな」
「ヴィクター……」
「街の真ん中に立たせるくらいだ。王か、英雄かのどちらかだろう。……だが、どちらにも見えんな」
言われて見上げると、像は白衣のような上着の袖をまくった、五十か六十くらいの男だった。丸い眼鏡に、左右へぴょんと跳ねた髭。少し曲がった背中で船の模型を抱え、顔だけを空へ向けている。王様というより、理科室の先生だ。
噴水の向こうには、まっすぐな大通りが延びていた。白い石畳が一本の線になって遠ざかり、その突き当たりに、ひときわ大きな建物が構えている。人の背丈の何倍もある正面の扉が、半分だけ開いたままになっていた。街じゅうが静かなのに、あの建物の周りだけ、静けさが一段深い。誰もいないはずの場所で、息をひそめて待たれている気がした。
マハトも、大通りの先を見たまま動かなかった。杖を握る指に、わずかに力がこもっている。
大通りの入口には、アーチが架かっていた。弧の上に、大きく文字が刻まれている。
「選ばれし民の都。栄光都市グロリア」
マハトが、献立でも読み上げるような平らな声で言った。
「選ばれた民、さっきから一人も見てないけどな」
「選ばれて、どこかへ行ったのかもしれん」
軽口のつもりで言ったのに、返ってきた声は少しも笑っていなかった。
泣き声は、噴水の手前から聞こえていた。水盤の陰に、籠が置かれている。大人が一人しゃがんで入れるほどの大きさで、上から赤い布がすっぽりとかぶせてある。白と宝石しかない広場で、その赤だけが傷口みたいに浮いていた。
鳥籠だ、と思った。赤い布の下で、泣き声だけがこもっている。
考えるより先に、手が布を掴んで引き剥がしていた。
細い金属を編んだ籠の中で、エマは膝を抱えていた。泣き腫らした目がこちらを見上げ、焦点が合わないまま何度か揺れて、それから、唇が動いた。
「……解人、兄ちゃん。きてくれた・・・」
「エマ!怪我は?どこか痛くないか」
「大丈夫。……お花は?」
「トルガが持ってる。下で待ってるよ」
「……よかった。お母さん助かる」
自分が籠の中にいるのに、最初に訊くのがそれか。解人は、喉の奥が詰まるのを咳払いでごまかした。
エマの髪に、見覚えのないものが光っていた。小さな青い石が、細い髪の束に一粒ずつ編み込まれている。籠の床には、磨き上げられた宝石が敷き詰められていた。泣いているエマのまわりで、石だけが、場違いなほどきれいに光っている。
扉を探して籠の周りを一周した。継ぎ目も、錠も見当たらない。細い金属の編み目は、どこから編み始めてどこで終わったのかも分からなかった。
「マハト、これ、どうやって開けるんだよ」
マハトは編み目に指をかけ、しばらく黙って眺めていた。
「……これは、閉じ込めるための籠ではないな」
「は?」
「飾るための籠のように見える。出すことを、最初から考えていない」
エマが小さく肩をすくめて、膝を抱える腕に力を込めた。
そのとき、足の裏が震えた。
ドン、ドン、と腹に響く低い音。遅れて、軽い打音が細かく刻み始める。音は街の外れの方から、だんだんとこちらへ近づいてきた。
解人は、この拍を覚えていた。
大きな影が広場を横切り、羽の石が一斉に光を撒いた。塔の宝石の光とぶつかって、広場じゅうの色が一瞬で入れ替わる。鳥は噴水の上をひと回りしたが、銅像のそばだけは、羽の先が触れないように大きく避けて通った。そのまま、二人の正面へ降りてくる。太い脚が石畳を掴み、羽が畳まれると、石の光が消えて、目に嵌まった二つだけが残った。肩の箱から流れるビートに合わせて、首が前へ、後ろへ、小刻みに揺れている。
マハトが杖を斜めに構えて、半歩前に出た。解人も膝を軽く落とし、籠を背にかばう位置へ足をずらす。武器なんて何も持っていないが、拳だけは握っていた。
「Yo!Yo!みんな元気か〜い?ア〜イッ!ひとり、ふたり、ちべたのひと〜」
首を揺らしながら、鳥が二人を順に嘴で指した。それから、わざとらしく首をかしげる。
「あれれ?あれれ?たりないね〜。おのの、おにいさん、いない、いない、いない〜。いいね、いいねの、あのひと、どこ〜?」
――今はいねぇんだよ。バカ鳥が。
「わたし、わたし、わたしはね〜。うえは、グロリア。したは、ちべた。ふたつ、まとめて、みはってる〜」
肩の箱のビートが、一段大きくなった。近くで見ると、箱の正面には細かい穴がびっしり並んでいて、震えるたびに音が押し出されてくる。文化祭のとき体育館に運び込んだスピーカーに、形がそっくりだった。
「もうしおくれ〜、もうしわけ〜、もうしあげます、ドロップ〜。わたくし、ドロップと、もうします〜。と、いいますねん」
「なんで関西弁やねん!」
つい、つられてしまった。どうやら、こいつの名前はドロップというらしい。
「おかわり、ほしいの?じゃあ、ひとつ、うたって〜。はい、ひとりめ〜」
首を下げて、待っている。花畑で見たのと、同じ待ち方だ。
「……おい、また始まったぞ!歌えなかったらやばいぞ。どうにかしろよ」
「私に振るな。前回の答えを聞いていただろう」
「知ってるけど、俺も無理だよ」
「私よりはましだった。もう一度、聞かせてもらおうか」
「うるさい」
あの鳥に「いいね」と言わせたのは、トルガだけだ。トルガがいないことは、ドロップにまで見抜かれている。歌えなかったら、どうなるんだ。
「トルガを置いてきたの、今いちばん後悔してる」
「置いてきたのは私だ。……代わりに歌え、とは言うなよ」
「言わないよ。結果は知ってるし、聞いてみたいのは山々だけどな」
「はやく、はやく、はやく〜〜」
ドロップの首の揺れが、速くなる。
背中で、エマの指が編み目越しに服の裾を掴むのが分かった。歌えない。逃げる道もない。それでも、ここから一歩でも退いたらドロップは花畑と同じことをする。隣で、マハトの杖の先がわずかに上がった。
解人は、動かない。
ドロップの頭が、ぴたりと止まった。肩の箱からは、ビートだけが同じ速さで流れ続けている。エマを掴む直前と、同じ止まり方だった。




