19話 巨人を超えて
マハトが、解人の脇腹を肘でつついた。
「……乗れ」
「乗れって、何にだよ」
「その鳥の言う『上の者』にだ。偉そうにしていろ」
偉そうに、と言われても、生まれてこのかた偉い立場になった記憶がない。解人は咳払いを一つして、背筋を伸ばした。腰布の上で胸を張ると、思っていたより足がすくむ。
「う、うむ。……我らは帰還、する」
「声が裏返っている」
「うるさい、我の言うことを聞くのだ」
鳥の石の目が、解人の顔をじっと見て深く頭を下げた。
「承知。上の者の帰還を、伝令する。コッ」
鳥が首を真上へ伸ばした。嘴が開き、甲高い音が三度、空へ抜けていく。耳の奥がきんと痛むほどの高さで、隣のマハトがわずかに眉を寄せた。
巨人が二度、三度と息をして、腰布の上で鎖がゆっくり揺れる。もう一回叩いた方がいいのか、と解人が考え始めた頃、雲の底で何かが光った。光る点がぱらぱらと雲の下へこぼれ、近づくにつれて、どれも同じ形の鳥だと分かってくる。黒ずんだ鉄の骨組みに石の目を嵌めた鳥が、ざっと十羽はいる。
コッ、コッ、コッ、コッ。
コッ、コッ、コッ、コッ。
一羽ずつの音が重なって、屋根を叩く雨みたいに聞こえた。群れは二人の頭上で輪を描き、一羽、また一羽と腰布の織り目に降りてくる。気づけば、ぐるりと囲まれていた。十本の嘴が、いっせいにこちらを向く。
「……おい、あいつら、なんて言ってる」
訊くと、最初の一羽だけが首をこちらへ回した。
「同胞は、地べたの者を排除すべきと判断している。コッ」
「お前が呼んだんだろ!」
マハトが杖を握り直し、解人の半歩前へ出る。腰布の上では、逃げ場がどこにもない。
最初の一羽が、群れの前へ跳ねていった。翼を広げて、胸を張る。
「控えよ。この者は、上の者である。コッ」
群れが、そろって首をかしげた。頭を下げる者は一羽もいない。それどころか、一羽が輪から抜け出して、真っ直ぐ解人の額めがけて飛んできた。
「っ、またかよ!」
ゴンッ。
考えるより先に、手が出ていた。叩かれた一羽は織り目の上に転がって、石の目をつけたり消したりしている。
「……コッ。再起動。……上の者、再認識」
その一羽が頭を下げると、隣の一羽が首を傾けた。その隣も、さらに隣も。波が広がるように、輪になった群れが端から順に頭を下げていき、最後の一羽が、腰布に嘴がつくほど深く頭を下げると、あれだけ鳴っていた「コッ」が、ぴたりと止んだ。
「……叩けば従うのか、便利な鳥だな」
「上の者って、こんな簡単になれるもんなのかよ」
「上の者、ならびに随行の者。お連れする。コッ」
――マハトは、俺のおまけだ。
「……お前らの大きさで、俺ら二人を運べるのか」
解人は、足元の鳥たちを見回した。どれも両手で抱えられるほどの大きさしかない。一羽にぶら下がったら、鳥ごと落ちるのが目に見えている。
「整列。コッ」
最初の一羽が鳴くと、群れがいっせいに飛び立った。腰布の縁のすぐ外で横一列に並び、翼を広げる。隣の鳥の翼の骨に、自分の翼の骨を互い違いに重ねていくと、金具の噛み合う小さな音が続いて、十羽の翼が一枚につながった。骨組みの隙間から下の空が透けて見える、鉄の筏だ。それが腰布の縁に横付けされ、宙に浮いたまま止まる。
「……乗れ、ということらしいな」
さっきと同じ言葉を、今度は本当の意味で言って、マハトは杖の先で板の端を一度叩いた。鎖の輪を確かめたときと同じやり方だった。それから何でもない顔で、その上へ足を移す。板がわずかに沈み、すぐに持ち直した。
「……お前、怖くないのかよ」
「怖いかどうかは関係ない。エマを助けるなら、早いに越したことはない。それに、あの大きな鳥とこいつらは同じ仲間のはずだ。こいつらについて行くのが、エマへの一番の近道だろう」
片足を板に乗せる。ぎしり、と鉄が鳴って、心臓が一つ跳ねた。もう片方も乗せる。そこまではできたのに、腰布を掴んだ両手が、どうしても開かなかった。
「指を一本ずつ離せ」
「分かってる、分かってるって」
最後の指が離れた途端、板がふわりと持ち上がった。解人はとっさに膝をつき、足元の鳥の骨組みを両手で掴む。掴まれた一羽が、コッ、と短く鳴いた。抗議されたらしい。
足の下で腰布が遠ざかり、さっきまでしがみついていた鎖が細い糸になっていく。十羽ぶんの羽音と骨組みの軋む音が、膝の下で鳴り続けていた。
「下を見るな。お前は暴れそうだからな」
「言われなくても見ない!絶対に見ない!」
見ないと言った端から、踵の陰を探しそうになって、やめた。トルガは、まだあそこに座っているはずだ。
巨人の腹の高さを過ぎると、皺の溝のあちこちから、小さな花が咲いていた。土もないのに、肌から直に茎が伸びて、白い花弁がかすかに光っている。足元の花畑と同じものが、巨人の体にまで生えているらしい。
鳥たちはケーブルに沿って、ぐるりと回りながら上っていく。あの鳥が、エマを掴んで上っていった道だ。あの子は、こんな板もなしに、鳥の脚にぶら下げられていった。――怖くなかったか。そう思うと、自分の膝の震えが少しだけ恥ずかしくなった。
「なあ。エマ……小さい女の子が、さっき連れていかれただろ。どこにいる」
「運搬物の所在は、伝令の管轄外である。コッ」
「お前、役所かよ」
「役所とは何か。コッ」
巨人の胸の高さまで来たとき、右腕が疼いた。
袖の内側を、爪で引っ掻かれるような痛み。昨日の岩壁の前ほど強くはないが、ケーブルに近づくほど、はっきりしてくる。
「マハト、腕が……」
「近いのか」
「多分……あれに寄るほど、痛みが強くなる」
マハトの目が、ケーブルの刺さっている先へ向いた。
「巨人の足元では、黙っていた腕だ。巨人ではなく、あれの方に疼くのか」
答えようとして、解人の口が途中で止まる。
ケーブルの先は、近くで見ると、何本もの太い管を束ねたものだった。束の端では、爪のような金具がいくつも開いて、胸の肉を抉るように食い込んでいる。巨人が息をするたび、その金具が肉の中でわずかに動いた。縁の肌が引きつれて、塞がりかけていた傷口がまた少し裂け、血とも樹液ともつかない濁ったものが、じわりと溢れてくる。白く固まった肌と赤黒く腫れた肌がまだらに混ざり、塞がっては裂けた跡が、年輪みたいに何重にも残っていた。気づくと、解人は自分の胸の同じ場所を、服の上から押さえていた。
巨人が、息を吸った。
その胸から、淡い光が滲み出す。光は金具の隙間へ吸い込まれ、管の中を上へ、上へと流れていった。吐く息のときには、何も戻ってこない。吸うたびに、少しずつ持っていかれている。
指に棘が刺さったときと同じだ、と思ったのは、ほんの少し前のことだ。あれは、棘なんかじゃない。
ケーブルの前を過ぎると、腕の疼きはゆっくり引いていく。肩の高さで、雲の底が迫ってきた。下から見上げていたときは帯のように細かった雲が、ここでは空いっぱいの天井になっている。鳥たちは速さを緩めずに、その中へ突っ込んでいった。途端に、何もかもが白くなる。頬に当たる空気が冷たく湿って、羽音さえ綿にくるまれたように遠い。
その白の中から、顔が浮かび上がってきた。
下からは雲に隠れて見えなかった顔が、今は手を伸ばせば届きそうな所にある。髭が顎を覆い、男にしては長い髪が首の横へ流れていた。思っていたより、ずっと若い。三十を少し過ぎたくらいの顔が、目を閉じたまま、少し斜め上を向いている。長い息が鼻から出ていくと、周りの霧が押し流されて、運ばれている体まで、わずかに押し戻された。
「これは、生まれながらに罪を負う者である。コッコッ」
板の先頭の一羽が、案内でもするように言った。
「罪?こいつが何したんだよ」
「以上。コッ」
「罪だけ言って終わりかよ。そこからが気になるんだって!」
マハトは、巨人の顔から目を離さずにいる。
「これほどの生き物は、私も見たことがない。いくつ世界を渡っても、こんなものには一度も会わなかった」
「番人でも分かんなきゃ、お手上げだな」
「ああ。……昔、似た話を聞かされたことがある。どれも、いい終わり方はしていなかった」
「誰のことだよ。……てか、お前にも番人の知り合いなんているのか」
「・・・・」
マハトは答えず、霧の向こうへ目を戻した。
怖くて当然の状況だ。膝の下は鉄の骨組み一枚で、その隙間から見えるのは空だけ。エマは攫われたままで、ケーブルの先では、命を吸い上げている何かが待っている。
なのに、胸の奥が熱い。
海の音が消えた町から始まって、山を越えて、こんなところまで来た。目の前で、巨人が眠っている。不謹慎にも口の端が勝手に上がっていく。こんなもの、エマにも見せてやりたい。そう思ってから、そのエマを取り返しに来たんだと思い出して、自分で自分に腹が立った。それでも、胸の熱さは引かない。
――やばい、これ。
気づいたら、腹の底まで息を吸い込んでいた。
「ウォーーーーーーーッ!」
声は白い霧に吸われて、すぐに聞こえなくなった。閉じた瞼は、ぴくりとも動かない。代わりに、板の端の一羽が驚いて翼を外しかけ、慌てて噛み合わせ直した。板ががくんと傾いて、心臓が喉まで跳ね上がる。
「上の者、静粛に。コッ」
「……何をしている」
「挨拶だよ。せっかくこいつに会えたんだから。何者かわかんないけど!」
マハトは何も言わなかった。呆れているのか、少しだけ口の端を上げたのか、横顔からは分からない。
巨人の頭を越えても、雲はまだ終わらなかった。見渡すかぎり真っ白で、上も下も分からない。巨人の顔も、すぐに霧の向こうへ溶けていく。膝の下で骨組みが軋むたびに、見たこともない場所へ運ばれている途中なのだと分かる。
雲が裂け、光が、目に飛び込んでくる。
まぶたの裏まで真っ白に焼けて、涙が勝手に滲んだ。指の隙間から少しずつ目を開けると、何百、何千という光が、あちこちから跳ね返ってきている。花畑で目を刺したあの光の出どころが、ここだったと分かる。
目が慣れるにつれて、光の向こうに形が浮かび上がってくる。
白い石で組まれた街が、雲の上に浮かんでいた。高く積み上げられた塔の壁には、緑や赤や青の石が隙間なく嵌め込まれ、日を受けるたびに色が入れ替わる。道にも、階段にも、細かな石を並べた模様が敷き詰められている。街の縁からは、水が溢れ落ちていた。落ちるうちに細かな霧へほどけて、足元の雲に混ざっていく。さっき抜けてきた冷たい雲は、どうやらこの街からこぼれた水でできているらしい。どこを見ても、汚れ一つない。
「やばい……こんなの、見たことない。マハト、他の層にもあったか、こんなの」
「ない。……ここまで飾り立てた豪華な街は、初めてだ」
「ここが、栄光都市グロリアである。コッ」
名前に、少しも負けていない街だった。少なくとも、雲の上から見るかぎりは。




