18話 コッ、コッ、コッ。
「クソっ、油断した!」
「マハト、その杖でどうにかならないのか!?」
「無理だ。遠すぎる……」
杖を握るマハトの手に、白く力がこもった。
鳥のビートが雲の向こうへ消えると、花畑は急に静かになった。風が一度吹いて、倒れた花がゆっくり起き上がってくる。鳥が立っていた場所だけが、丸く潰れたまま残っている。
トルガが落ちた花を拾い、根の土を払おうとして、うまくいかずにいる。指が震えているのは、エマを止められなかったからだろう。
「トルガ、その草を持って、ここで待て」
マハトはもう、次のことを決めていた。
「……は?」
「聞こえなかったか。ここで待てと言った。エマは、私と解人で取り返しに行く」
「ふざけんな!一緒にここまで来ただろ!今更ここで待ってろってのかよ」
トルガが立ち上がる。花が、拳の中で潰れかけた。
「エマが取ったんだ。直接エマが母親に渡すんだ!俺だけ下で待ってて、エマに何かあったら、リナに何て言えってんだよ!」
言ってから、トルガは口をつぐんだ。リナの名前を出すと、こいつはいつもこうなる。
「これ以上、村の人間を危険に晒すわけにはいかん。あの山を越えて来られただけで、十分だ」
「俺もエマを助けに行く!あいつは俺の大事な仲間だ」
「だから、だ」
マハトの声は、低いままだった。
「それに、その草をなくせば、エマが山を越えてきた意味がなくなる。あの子が自分の手で掘った根だ。三人で登って誰かが落ちれば、草も一緒に落ちる。誰かが、下で守っていなければならん」
「じゃあ、エマはどうすんだよ……」
「あの鳥は、上と下を行き来している。上で取り逃がしても、また降りてくるかもしれん。そのとき下に誰もいなければ、それで終わりだ」
トルガの声から、勢いが抜けていく。言い返す言葉を探して、見つからない顔をしている。
「エマは、俺たちが必ず連れて戻る。そしたら、四人で村に帰る」
自分でも驚くほど、大きな声が出た。マハトがあんなに熱くなるとは思わなかった。つられたのかもしれない。
「あいつをその気にさせたのは、俺たちだろ。山の向こうに薬草があるって話に、最初に乗ったのは俺だ。だから、俺たちが行く」
トルガは手の中の花に目を落としたまま、長いこと黙っていた。透けた花弁の向こうに、自分の指が見えている。
「……わかった」
それだけ言って背を向け、花を掻き分けて踵の陰まで歩いていく。一度も振り返らないまま、トルガはそこに座り込んだ。丸まった背中が花の中に沈むのを、解人はしばらく目で追っていた。
「……あれで、よかったんだよな」
「お前が言わなければ、あいつは残らなかった。私が言っても、聞かなかっただろう。これが今の最善策だ」
「それ、褒めてんのか」
「事実を言っているだけだ」
こいつの事実は、たまに優しい。
この世界へ来る前に、母さんへ『必ず帰る』と送った。帰らなきゃいけない約束が、これで二つになる。
「……で、どうやって登るんだよ」
マハトは答えず、顎で上を示した。腰の布の裾から垂れた鎖が、エマを見上げていたときと同じように、ゆっくり揺れている。
「あれを掴んで登る。あれなら、上まで行けるだろう」
一番下の輪は、解人の胸の高さにあった。近くで見ると、輪の太さは腕ほどもある。赤茶けた錆が浮いて、触ると手のひらにざらりと残った。巨人が息を吸うと鎖がわずかに前へ出て、吐くとまた戻ってくる。
「掴む前に、輪を一度叩け。錆の深い輪は、音が鈍い。鈍い音がしたら、その輪に体重を預けるな」
「なんでそんなこと知ってんだよ」
「古い鎖は、見た目より先に中から腐る。……どこの世界でも、それは変わらん」
「わかったよ。さすが番人さんだな」
「・・・・、ふんっ」
マハトが先に登り、解人が続く。輪に手を掛け、叩いて、澄んだ音を確かめてから、体を持ち上げる。足を掛けて、次の輪へ。叩く。掴む。その繰り返しで、花の匂いが少しずつ遠くなっていく。
すぐ横には、巨人の腿が壁になって続いている。皺の一本一本が溝のように深く、そこに花の根が食い込んで、細い髭みたいに垂れていた。錆と汗が混ざった手のひらは熱く、輪を握るたびにぬるりと滑る。
「下を見るな。見るなら、次の輪だけを見ろ」
「見てないって。見ないようにしてるとこだ…」
見たら、たぶん手が止まる。梯子なら学校の避難訓練で登ったことがあるけど、あれは二階までだった。
ここは、何階建てなんだ。落ちたら、ひとたまりもない。
途中で一度、マハトが止まって、下を見た。自分には見るなと言っておいて、と口を開きかけたとき、マハトの方が先に言った。
「……まだ、座っている」
踵の陰のことだと、すぐに分かった。
「そっか」
それ以上は、どちらも何も言わなかった。
何十本目かの輪に手を掛けたとき、鎖の揺れが止まった。
鎖は前へも後ろへも動かず、ただぶら下がっている。トンネルの中で床が倒れる直前と、同じ静けさだった。
「マハト、これ――」
「掴まれ」
次の瞬間、巨人が息を吸った。深く、長く。鎖が前へ振り出され、解人の体が宙に浮く。錆の浮いた輪の上で、手のひらが滑った。
ズルッ。
指が輪から外れる。空が、真上にある。
「解人!」
声と一緒に、泣き鳥を止めたときと同じ白い光が、頭の上から降ってきた。曼荼羅の輪が体の周りに広がり、空気が急に粘りつく。落ちる勢いが鈍って、水の底へ沈んでいくような速さになった。
見上げると、マハトが片手で輪にぶら下がり、もう片方の手で杖をこちらへ突き出している。
「掴め!」
目の前を、輪が一つ、ゆっくり流れていく。解人は両手でしがみついた。途端に光がほどけて、体の重さが全部、腕に戻ってくる。
輪に額を押しつけたまま、しばらく動けなかった。腕の震えが、まだ止まらない。
「……はぁ〜、助かった…。悪い」
「礼はいい。次の輪を叩け」
顔を上げると、マハトの手首に赤いものが一筋、伝っていた。手袋のない手で錆びた輪を握りしめたまま、片手で杖を振ったせいだ。
「お前、手……」
「血が出ているだけだ。お前が落ちるよりは、ずっと安い」
「……次から、もうちょっと早く言ってくれ。掴まれ、だけじゃなくて」
「言う前に、お前が落ちた」
「・・・、そうだな」
*
腰布の裾に辿り着いたのは、日が傾き始めた頃だった。
近くで見る布は、布というより、編んだ縄の壁に近い。一本一本が、握っても指が回らない太さで、粗く織られている。その織り目に太い鎖が横向きに絡まっていて、二人並んで腰を下ろしても、まだ余る幅があった。
座った途端、脚が笑い出す。
下を見ると、花畑は、指で隠せるほど小さくなっていた。あれだけ大きかった踵が、遠くで丸い影になっている。
踵の陰は、もう小さすぎて、トルガがまだそこにいるのかどうかも分からない。
「……エマ、怖がってないかな」
「あの子は、初めてあれを見たときも怯えていなかった。誰よりも先に、まっすぐ見上げていたな」
「……そうだな」
おいしく、たべるね。あの、腹が立つほど明るい声が、まだ耳の奥に残っている。解人が振り払おうとしたとき、マハトが口を開いた。
「あの鳥は、食べると言っていた。だが、どこで食べるとは言っていない。わざわざ雲の上まで運んだものを、すぐに捨てる理屈はない。……向こうにも、手間をかけた分の使い道がある。だから…」
「……それ、慰めてんのか」
「どう聞こえた」
「……ちょっとだけ、慰めに聞こえた」
「なら、それでいい」
マハトに慰められる日が来るとは、思わなかった。
頭の上で、コッ、コッ、コッ、と小刻みな音がした。見上げると、腰布の織り目に小さな鳥がとまっている。両手で抱えられるほどの大きさで、黒ずんだ鉄の骨組みも、目に嵌まった石も、さっきの鳥をそのまま縮めたようだった。首をかしげて、二人を順に見ている。
「……また鳥かよ」
マハトが杖を握り直す。鳥の首が、ぴたりと止まった。
コッ。
コッ?
次の瞬間、鳥は解人の顔めがけて飛んできた。嘴が額を、二度、三度と突いてくる。
「いて、いて!なんで俺なんだよ!あっちいけ!バカ鳥!!」
ゴンッ。
考えるより先に、手が出ていた。平手が、鳥の頭を真上から叩いている。鳥は織り目の上に落ちて、そのまま固まった。石の目が、ついたり消えたりを繰り返している。
「……コッ。再起動」
喋った。
「……地べたの者、二。報告――コッ」
「ここより上は、上の者の場所である。下がれ。コッ」
「お前、さっきまでコッコッしか言ってなかっただろ」
鳥が、解人の方を向いた。石の目が、解人の手と、自分の頭を、交互に見ている。叩かれた場所を確かめているらしい。
「……伝令を叩けるのは、上の者のみ」
首が、ゆっくり傾いていく。
「上の者、確認。……コッ」
さっきまでの偉そうな声が、一段低くなった。鳥は織り目の上で翼を畳み、解人に向かって、深く頭を下げる。
「上の者。帰還されますか。コッ」
解人とマハトは、顔を見合わせた。
「……こいつ、ポンコツだ」
「ああ。都合のいい壊れ方をしている」




