第43話:歪みの縫合(ほうごう)
「最果ての庭」と呼ばれるその荒野に、突如として吹き荒れたのは、
物理的な風じゃなかった。それは空間そのものが悲鳴を上げている
ような、不気味で重厚な、心臓を直接掴まれるような振動。
荒野の真ん中で蠢く、どろりとした黒い裂け目。
それはまるで、美しい絵画の上に悪意を込めてナイフを突き立て、
そのまま無慈悲に引き裂いたかのような、不自然な「穴」だった。
そこから漏れ出す冷気は、周囲に咲き乱れていた幻想的な草花を、
一瞬で灰色の塵へと変えていく。空気そのものが鋭い刃のように
凍りついていくのを見て、私は激しく息を呑んだ。
櫂さんは出現させた黒塗りのトランクの前に静かに跪き、
その細く長い指先で、一振りの「針」を取り出した。
それは繊細なガラス細工のようにも見えるけど、内側には銀色の
星屑のような光が脈動している、透き通った水晶の針だった。
「……針? 櫂さん、それで裁縫でもするつもりなの?
あんなに恐ろしい化け物みたいな裂け目に向かって、
そんなに小さなもので立ち向かうつもりなの?」
私は震える声で問いを投げた。櫂さんは穏やかな表情で答える。
「ええ。世界の綻びを縫い合わせるんですよ、紬さん。
本来、この世界の『場所』は一定の法則で保たれていますが、
稀にこうして歪みが生じ、穴が開く。放置すれば荒野を飲み込み、
やがては地上の世界にまで干渉し始めてしまうんです。
それを正しい形へと繋ぎ直すのが、私の仕事なんですよ」
櫂さんの瞳は、一切の妥協を許さない真剣な光を宿していた。
「紬さん、危ないですから、もっと下がっていてください。
ここから先は、あなたの知っている物理法則も常識も、
一切通用しない現象が起き始めます。……いいですね、
決して、そこから動かないようにしてくださいね」
櫂さんが地面を軽く叩くと、私の足元に黄金の紋様が浮かび上がり、
光の壁となって私を包み込んだ。店主が私に貸してくれた、
自分を守るための特別な「結界魔法」だ。私はその円陣の中で、
震える肩を抱き、固唾を呑んだ。櫂さんは裂け目へと歩み寄り、
水晶の針を、天高く、真っ直ぐに掲げた。
「……場所の調律、開始。……縫合を始めます」
彼が水晶の針を突き立てた瞬間、荒野に激しい雷鳴が轟いた。
黒い歪みから濁流のような「力の奔流」が狂ったように噴き出し、
周囲の空間が、ガラスが砕けるような異音を立てて歪み始める。
あまりの重圧に、結界の中にいるはずの私でさえ、
肺の空気をすべて絞り出されるような感覚に襲われた。
櫂さんの背中が、魔力の嵐に煽られて激しく揺れる。
けれど、彼の掲げた腕は、決して揺らぐことはなかった。
櫂さんは暴れ狂う魔力の渦の中で、見えない糸を操る人形師のように、
優雅に、そして力強く水晶の針を振るった。
針が空を裂くたびに、白銀の光の糸が空間に張り巡らされ、
あの不気味な黒い裂け目が、一針ずつ丁寧に縫い合わされていく。
やがて、荒野を震わせていた不快な振動が収まり、
平和な静寂が少しずつ戻っていった。魔法使いが、
誰に知られることもなく世界の崩壊を食い止めている。
その壮絶で美しい「仕事」の姿。私は瞬きすることさえ忘れ、
その神々しい儀式の光景を、ただじっと見つめ続けていた。




