第37話:雲上の湖底駅
食堂車での優雅な昼食を終え、自分たちのコンパートメントに戻ってから
しばらくした頃だった。窓の外を支配していた、あの吸い込まれそうなほど
深い「真っ黒な闇」が、音もなくパッと弾けた。次の瞬間、視界のすべてが
眩しいほどの「真っ白な世界」へと一変した。雪景色なのか、
それとも深い霧の中に突っ込んだのか。私は思わず、窓に顔を寄せた。
「……うわっ、急に明るくなった! 櫂さん、これ何? 雪なの?
さっきまで真っ暗だったのに、急に世界が白銀に変わっちゃったよ!」
櫂さんは窓の外の白銀の世界を静かに見つめ、不敵に口角を上げた。
「いいえ、雪ではありませんよ。紬さん、少し立ち上がって、
窓のすぐ下を覗き込んでごらんなさい。この光景の正体が、きっと
あなたにも分かりますよ。……さあ、勇気を出して」
私は言われるがまま、座席から身を乗り出して窓の下を覗き込んだ。
その瞬間、あまりの光景に思考が停止し、思わず息を呑んだ。
眼下には、遥か数千メートルも遠くに、緑の山々や曲がりくねった川が、
まるで精巧なミニチュア模型のように小さく広がっている。
そうか、この白い景色は……地面ではなく、すべて雲の上なんだ。
「えっ……!? ちょっと待って! 私たち、雲の上を走ってるの!?
これ、飛行機なの!? だって、ガタンゴトンって、さっきまで
普通に線路を走る振動と音がしてたのに! 線路はどこにあるの!?」
「魔法使いの道は、必ずしも地面の上にあるとは限りませんからね。
……さて、そろそろ高度を下げますよ。急激な気圧の変化で、
耳がツンとするかもしれないから、唾を飲み込んで気をつけて」
列車は大きな弧を描くように、緩やかに、けれど確実に降下を始めた。
分厚い白い雲の層を突き抜け、下界の景色がぐんぐんと迫ってくる。
けれど、その前方の景色を捉えた瞬間、私は今度こそ座席から飛び上がって、
喉が張り裂けんばかりの叫び声を上げた。
「……ちょっと、櫂さん! 前を見て! 湖だよ! 巨大な湖!
このままの速度で突っ込んだら、バラバラになっちゃうよ!
ブレーキ! ブレーキをかけてよ、死んじゃう!」
眼下に広がる青い水面が、飛沫を上げる勢いで、恐ろしい
速度で迫ってくる。けれど、櫂さんは微塵も動じることなく、
「大丈夫ですよ、私を信じて」と、いつものように穏やかに微笑んだ。
次の瞬間、ドォォォンという腹に響くような重厚な音と共に、
列車は真正面から湖面へと、豪快に突き刺さった。
……けれど、不思議なことに、車内に水は一滴も入ってこない。
それどころか、窓の外に広がっていた空の青は、そのまま深い深い
紺碧の水の色へと変わり、列車は滑るように水中を進み始めた。
窓の外には、色とりどりの熱帯魚のような魚たちや、自ら光を放つ
幻想的な水草が揺れる、言葉を失うほど美しい世界が広がっていた。
「……すごい。……本当に水の中なんだね。まるで巨大な水族館の中を、
私たちが移動しているみたい。……あ、見て! クジラみたいな
あんなに大きな魚が、窓のすぐ横をゆっくり泳いでる! 綺麗……」
「水圧と結界の調律が、この列車の最も得意とする魔法ですからね。
どんな深海であっても、乗客のティーカップの紅茶すら揺らしませんよ。
……さあ、見えてきましたよ。あそこが、今回の目的地の入り口です」
湖の底、深い闇の中に、青白く、まるで月の光を閉じ込めたように光る
巨大なドーム状の施設が現れた。列車は生き物のようにゆっくりと減速し、
そのドームの中心にある、驚くほど静かな湖底の駅へと滑り込んでいく。
中途半端な街を離れて三時間。私たちが辿り着いた「空白地帯」は、
深い深い水の底に隠された、魔法使いのための秘密の場所だった。
私は、これから始まる未知の「出張」への期待と、少しの不安を胸に、
止まっていた息を大きく吐き出した。




