第31話:境界を越える跳躍
夏休み初日の昼下がり。櫂さんから「出張」への同行を許された
直後、店内の空気は少しだけ引き締まったものになった。櫂さんはカウン
ター越しに私を真っ直ぐに見据え、穏やかに、けれど大切な約束を求めた。
「同行を許可しましたが、いくつか条件があります。まずは、ご両親の許
可。来月までに、外泊の許可は、きちんと取ってきてくださいね」
「……あ。……うん、分かってる。友達の家にお泊まりに行くって、
ちゃんと親には言っておくよ。……あ、でも、嘘は良くないかな?」
「隠し事はいけませんよ。信頼できる仕事先の人と研修に行くと、
ありのままを話し、納得させてきてください。……それから……」
櫂さんは私の右手を優しく取ると、二スロットの指輪をじっと見つめた。
「最初から『転移』がセットされていますが、一度も
使っていませんね。出発までに、少し慣れておきましょうか」
転移。一瞬で場所を飛び越える、魔法の真髄。私はごくりと唾を飲んだ。
櫂さんは私に、一度店の外へ出るように小さく顎で合図を送った。
「この術式は、発動すれば強制的に私のいる座標へと、
あなたを呼び寄せるよう調整してあります。……いいですね?」
私は頷き、一度レンガ造りの店の外へ出た。真夏の熱気が肌を焼く。
扉を閉め、アスファルトの上で深呼吸を一つ。目を閉じ、銀色の指輪に
意識を集中させた。心臓が激しく脈打ち、指輪が熱を帯びていく。
私は、扉の向こう側にいる櫂さんを想い、魔力を解き放つように言った。
「……転移、起動!」
一瞬、奇妙な浮遊感に包まれた。視界が白く染まり、胃の底が
ひっくり返るような、強烈な不快感が全身を突き抜ける。
……次の瞬間、目を開けると、私は確かに店内に戻っていた。
けれど、足に床の感触がない。
「おっと、失礼。慣れないうちは着地の衝撃で、
無様に転んでしまうかもしれませんからね」
耳元で、櫂さんの穏やかな声がした。気がつくと、私は彼の腕の中に、
いわゆる「お姫様抱っこ」の状態で収まっていた。私の背中と膝の裏を、
彼のしっかりとした、それでいて温かな腕が支えている。
「……えっ!? あ、ちょっと、櫂さん!?」
あまりの密着ぶりに、私の顔は一瞬で沸騰した。
心臓が耳のすぐ横で鳴っているみたいに激しく跳ねる。
恥ずかしさでパニックになり、バタバタと足を動かそうとしたけれど、
櫂さんは涼しい顔で、ゆっくりと、私を床へ降ろしてくれた。
私は顔の火照りを隠すように、俯いてスカートの裾を必死に整える。
「……できた。……本当に、一瞬だった。……でも、今の体勢は反則だよ。
……心臓に悪いし、恥ずかしすぎるもん」
消え入りそうな声で抗議する私を、櫂さんは少しだけ面白そうに見た後、
私の指輪に指を添え、空になったスロットを再び銀色の光で満たした。
「さて、再度チャージしました。これからは、店に来る時も転移で
直接来るようにしてください。出張の日までに、その三半規管を魔法に
慣らしておきましょう。……また抱きかかえてほしいなら、別ですが?」
「もう! そんなこと、一言も言ってないでしょ!」
からかうような彼の言葉に、私は顔を真っ赤にして叫んだ。
けれど、櫂さんの瞳は、すぐにいつもの真剣な色を取り戻した。
私は大きく頷き、自分の指に光る二つのスロットを握りしめた。
親への報告、そして魔法への順応。
私たちの、地図にない夏休みへのカウントダウンが始まった。




