第28話:報酬と明日へのスロット
瀬戸くんが店を出て行った後、店内には静かな、けれど温かな余韻が漂って
いた。カウンターに残された空のカップからは、彼が葛藤の末に手に入れた
「自分への誠実さ」という、目に見えない香りが立ち昇っている気がした。
私は、右手の薬指に嵌まった二スロットの指輪を、そっと左手で撫でた。
つい数分前まで、そこにあったはずの重苦しい銀色の霧は、もうどこにもない。
「……終わったんだね、櫂さん。結局魔法を使わなかったけど」
櫂さんは、私が洗おうとしたカップをひょいと取り上げると、いつもの
さわやかな、けれどどこか慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。
「いいえ、紬さん。これは魔法のレンタル屋として、最も素晴らしい
『商い』でしたよ。あなたは彼に魔法を売らず、自分を取り戻すための
『時間』を売った。……それは、カタログのどの術式よりも価値がある」
櫂さんの言葉を聞きながら、私は窓の外に広がる藍色の夜空を見つめた。
三日間、学校を休んでまで自分の恋心と戦い抜いた瀬戸くん。
彼があんなにやつれた顔をしてまで守りたかった「好き」という気持ち。
……正直に言えば、今の私には、彼の痛みを本当の意味では理解できていない。
私は、まだ誰かを本気で好きになった経験がない。
誰かの声が聞きたくて夜も眠れなくなったり、その人の幸せを願う一方で
自分だけのものにしたいと、醜い独占欲に駆られたりすることもない。
ましてや、その恋が実らなくて、心を引き裂かれるような絶望を味わい、
記憶を消してしまいたいと願うほどの地獄なんて、想像もつかないのだ。
「(……私にも、いつかあんな日が来るんだろうか)」
もし、いつか私が誰かに恋をして、瀬戸くんと同じようにボロボロになって、
この店の扉を叩くことになったとしたら。その時、私は「魔法」を拒める?
それとも、自分の「不快」を棚に上げて、安易な救いに縋ってしまう?
……分からない。分からないけれど、今日見た彼の、あの凛とした最後の笑顔
だけは、ずっと覚えておきたいと思った。
櫂さんは満足げに頷くと、私の右手の指輪をじっと見つめた。
「期待していますよ。……さて、その空いた二つ目のスロットはどうしますか?
一つ目には私への『転移』が入っていますが、もう一つは今、空っぽです」
「……あ。……そっか。もう『忘却の霧』は入ってないんだね」
私は、自分の指に光る二つの溝を交互に眺めた。
一つは、櫂さんの元へ繋がる、私を守るための絆。
そしてもう一つは、誰かの人生を左右しかけた、重い記憶の跡地。
私はしばらく考え、それから顔を上げて、自分でも驚くほど晴れやかに笑った。
「ううん。次は、自分で決める。……私を助けるための魔法じゃなくて、
誰かの心をちょっとだけ温めるような、そんな魔法を自分で探してみるよ。
もし私が恋をして、地獄を見ることになったとしても。……その時は、
この指輪の魔法じゃなくて、自分の足でこの店まで歩いてくるから」
櫂さんは、少しだけ目を見開いた後、誇らしげに目を細めてお辞儀をした。
「……承知しました、見習い店員さん。あなたの選ぶ『場所』を、
楽しみに待つことにしましょう」
私は意気揚々と、お気に入りの席で分厚いカタログを広げた。
中途半端な街の、小さな魔法のレンタル屋。
私の新しい放課後は、昨日よりも少しだけ、誇らしく、
そして明日への希望という名の、小さな魔法の輝きを増していた。




