第26話:猶予(モラトリアム)の光
静寂が戻った店内で、瀬戸くんの嗚咽だけが重く響いていた。
私は彼の肩を抱いたまま、必死に言葉を探した。愛実に彼氏が
いるという残酷な真実。そして、それを忘れさせてくれるという三千円の
甘い誘惑。どちらも今の彼には、あまりに重すぎる劇薬だった。
「……瀬戸くん、お願い。今すぐ消したりしないで。ねえ、二、三日だけ
でいい。ちょっとだけ、このままの気持ちで考えてみてくれないかな」
私の震える声に、瀬戸くんは顔を上げないまま、力なく首を振った。
「……考えたって、何も変わらないだろ。……ただ苦しいだけなんだよ」
「そうかもしれない。でも、逃げるように消しちゃうのは、やっぱり違う。
その想いは、瀬戸くんが一生懸命に恋をした証拠なんだから。……ねえ、
三日だけ。三日だけ耐えてみて。……お願い」
無責任な励ましだとは分かっていた。けれど、私は彼が大切な記憶を、
ゴミのように投げ捨てる姿を見たくなかった。瀬戸くんはしばらく沈黙し
た後、零れ落ちる涙を乱暴に拭い、小さく、頷いた。
「……分かった。……三日。三日だけ、耐えてみるよ。……白石」
その言葉を聞いて、私は安堵の溜息を漏らした。それまで静観していた
櫂さんは、パチンと指を鳴らして魔力の光を散らすと、感情の読めない
さわやかな微笑みを浮かべて、私を見た。
「なるほど。……では、この『忘却の霧』は、一旦
保留ということにしましょう。……ですが、瀬戸さん。もし三日待てずに、
どうしても耐えられなくなった時のために、保険を用意しておきます」
櫂さんはカウンター越しに、私の右手をそっと取った。
「紬さんの指輪の空きスロットに、この魔法をセットしておきましょう。
これなら、学校でもどこでも、あなたが望む瞬間に起動できますよ」
「えっ!? 私の指輪に……? 櫂さんがやらなくていいの?」
「ええ。本人の覚悟が決まった瞬間に掛けるのが一番ですからね。三日間
の猶予。その間に、彼がどうしても耐えられないと判断したなら、
紬さん、あなたの手でその魔法を起動してあげなさい」
私の二スロット目に、冷たい銀色の光が吸い込まれていく。一度起動すれ
ば、瀬戸くんの恋心は永久に失われる。その重い引き金を、店主ではな
く、私が預かることになったのだ。瀬戸くんは幽霊のような足取りで店
を出て行った。夜の帳が下りた街路に、彼の背中が消えていく。
「……櫂さん。私、さっき櫂さんの指を止めて、勝手なこと言ったけど。
三日も待たせるなんて、かえって彼に残酷な思いをさせるだけかな。
……すぐに消してあげた方が、彼は楽になれたのかも……」
私の不安げな問いに、櫂さんは淹れたての紅茶を一口すすり、窓の外に
広がる夕焼けを眺めながら、静かに答えた。
「残酷? いいえ、これは慈悲ですよ、紬さん。……魔法は確かに便利
ですが、心を育てることはできません。さっき、あなたが私の指を
止めたのは、彼自身の『場所』を信じたからではないのですか?」
櫂さんはいつもの、少し意地悪でさわやかな微笑みを浮かべた。
「自ら選んだ苦痛を咀嚼する時間は、魔法で塗り潰す一瞬
よりも、遥かに彼を成長させる。……それを見極めるのも、店員の大事
な仕事ですよ。さて、三日後、彼はどちらの道を選ぶでしょうか」
中途半端な街の、小さな魔法のレンタル屋。……あと三日。その時、
彼はどんな答えを持って、この扉を開けるのだろうか。




