第25話:忘却の甘い罠
店内の空気が、シンと凍てつくように冷え切った。櫂さんは何も言わ
ず、ただ優雅に温かなカップを口に運び、私に「聞き取り」の続きを促
している。私は逃げ出したい衝動を必死に抑え、唇を白くなるまで強く
噛みしめて、目の前のクラスメイトへ、無慈悲な宣告を突きつけた。
「……瀬戸くん。愛実には、もうずっと前から付き合ってい
る、他校の彼氏がいるんだよ。……だから、魔法なんかで、そんな……」
その瞬間、瀬戸くんの身体が、まるで見えない衝撃波を受けたかのよ
うに、ピクリと硬直した。彼はスローモーションのような動きで、ゆっ
くりと私を振り返る。その瞳からは一瞬で光が失われ、深い絶望の色が、
泥のようにじわじわと滲み出していった。
「……彼氏? ……佐々木さんに、彼氏がいるのか? 嘘だろ、白石」
「嘘じゃないよ。中学生の頃からずっと。昨日も愛実、幸せそうにノロ
ケてたよ。……だから、魔法で無理やり彼女の心を変えるなんて、そん
なこと、絶対にしちゃダメだよ。そんなの、本当の恋じゃないもん」
私の言葉は震えていたけれど、止めることはできなかった。瀬戸くん
は力なく乾いた笑い声を漏らし、そのまま床に膝をつきそうになった。
そんな彼を、カウンターの奥から櫂さんが絶対零度の瞳で見つめ、静か
に、そして抗いがたいほど甘く、死神のような誘惑を告げた。
「……おや。そんなに苦しくて、消えてしまいたいほど辛いのなら、良
い魔法がありますよ。魔法名『忘却の霧』。彼女
への募る恋心を丸ごと霧のように消し去り、この地獄のような苦しみか
ら、今すぐ、あなたの精神を解放してあげましょう」
「……消せるのか? この、胸を掻き毟るような想いを、なかったこと
に、俺が彼女を好きだったという事実を、綺麗さっぱり消せるのか」
「ええ。自分自身に掛ける魔法ですから、三千円でお安くしておきま
しょう。ただし、記憶を消すという性質上、術後に請求することはでき
ません。また、指輪にセットして自分で発動させると、発動した瞬間に
『なぜこの指輪を嵌めているのか』すら忘れてしまい、無意味です」
櫂さんは淡々と、合理的な理由を述べながら手を伸ばした。
「ですから料金は前払いで、私が直接術を掛けます。……いいですね?」
櫂さんは、瀬戸くんが震える手で差し出した三千円を無造作に受け取
り、引き出しへ入れた。そしてカウンター越しにスッと人差し指を彼の
額へ向けた。その指先が、淡く、けれど抗いがたい魔力の光を宿し始め
た。瀬戸くんは救いを求めるように、その光を見つめて呟いた。
「……頼む。消してくれ。人を好きになるのが、こんなに苦しいなんて、
俺は……知らなかったんだよ……」
櫂さんの指が、引き金を引き絞るように微かに動いた。その瞬間、私
は叫びながら二人の間に、自分の身を投げ出すようにして割って入った。
「待って! やめて、櫂さん! その魔法、絶対に掛けちゃダメだよ!」
私は瀬戸くんの肩を、折れそうなほど強く掴み、櫂さんの放とうとす
る魔力の光を遮った。私自身、以前に安易な気持ちでこの魔法を使い、
その後の空虚さにどれほど後悔したか。嘘で塗り潰した過去の跡に、ど
れほど不快な穴が開くかを私は知っている。
「瀬戸くん、お願い、自分を捨てないで。……確かに今は、死ぬほど辛
くて、息もできないくらい苦しいかもしれない。でも、愛実を本気で好
きだった、その大切な気持ちまで、汚いものみたいに無かったことにし
ちゃダメ! それは、瀬戸くん自身を消すのと同じだよ!」
私の必死の叫びに、櫂さんは指を止め、面白そうに目を細めた。瀬戸
くんは私の腕の中で、子供のように激しく震えながら、それまで無理や
り堰き止めていた涙を、一気に溢れ出させた。




