第24話:一千万の境界線
櫂さんは優雅な動作でカウンターの奥へ戻ると、流れるような手つきで
新しい紅茶を淹れ始めた。先ほどまでの重苦しく、肌を刺すような
緊迫した空気を、華やかで甘い茶葉の香りが一瞬で塗り替えていく。
彼は怯える瀬戸くんに対し、まるでお天気の世間話でもするかのような、
極めてさわやかで、そして残酷なまでに温度のない微笑みを向けた。
「事情は紬さんから聞きました。……『他人の心を動かす魔法』、ですね。
通常、そういった他人の因果を無理やり捻じ曲げるような術式には、
最低でも数億円の対価を頂戴しております。……ですが、瀬戸さんは
うちの貴重な従業員である紬さんのご友人とお見受けします」
櫂さんはスッと細長い指を立て、悪戯っぽく片目を細めてみせた。
その仕草は一見すれば親しみやすいけれど、その瞳の奥の深い闇には、
決して揺らぐことのない冷徹な商売人の計算が透けて見えている。
私はその視線の鋭さに、蛇に睨まれた蛙のように動けなくなった。
「今回は従業員の紹介ということで、特別に『お手頃なプラン』を
提案しましょう。魔法名『一時の残像』。
対象の意識の端に、あなたの好印象を薄く植え付けるだけの、
ささやかな術式です。……いかがですか? お値段は、今回に限り
特別価格ということで、一千万円に負けておきますよ」
「……い、いっせんまん……っ!? 百万じゃなくて、一千万かよ!」
瀬戸くんの口から、魂が抜けるような情けない悲鳴が漏れた。
一千万。高校生にとって、それは火星に家を建てるのと同じくらい、
およそ現実味のない、あまりにも天文学的な数字だったのだ。
彼は膝を震わせ、椅子からずり落ちそうになりながら絶叫した。
「……無理だ。そんなの、絶対に無理だよ! どこにそんな金が
あるんだよ! 俺の貯金を全部はたいても、数万円しかないんだぞ!」
「おや、残念ですね。一千万なら、この店に並ぶ感情干渉系の
魔法の中でも、最も安価で、副作用のリスクも少ない、極めて
良心的な価格設定なのですが。……これ以上の効果を望むなら、
それこそ人生を丸ごと差し出す覚悟が必要になりますよ」
櫂さんは、がっくりと肩を落として絶望の淵に沈む瀬戸くんを、
まるで壊れたアンティーク人形でも眺めるような、薄い同情を
含んだ無機質な目で見つめた。私はその光景を横で見ながら、
胸の奥がキリキリと、万力で締め付けられるような痛みを感じた。
瀬戸くんの抱く想いは、本物だ。学校のグラウンドで見せる、
あの真っ直ぐな情熱と同じくらい、純粋で、眩しいものだ。
けれど、魔法のレンタル屋の店主にとっては、その重みも、
積み重ねた想いも、ただの「対価」を測るための天秤の錘
に過ぎない。一千万という壁に阻まれ、打ちひしがれる姿。
私は、自分の指に嵌まった二スロットの指輪を、無意識に
強く握りしめた。櫂さんが言っていた『幸せのプロデュース』。
今の状況は、その言葉とは程遠い、ただの残酷な商談だった。
「(……愛実には、もう彼氏がいる。でも、瀬戸くんはそれを
まだ知らない。一千万を払えないという絶望のすぐ背後に、
もっと残酷で、決定的な真実が隠れているなんて……)」
私は櫂さんを仰ぎ見た。彼は、私の心の葛藤など全てお見通しだと
いうように、静かに紅茶を啜り、次の言葉を待っている。
魔法で心を奪うことができないのなら、彼はこのまま、
何も知らずに、何も得られずに、この店を去るしかないのか。
「……瀬戸くん。……あのね、ちょっと聞いて」
私は、震える声で呼びかけた。店員として、そして『あの子』の
一番の親友として。魔法という嘘で塗り固めた幸せを、
無理やり彼に売るのではなく。彼が本当に向き合うべき
現実の『場所』へ、私は彼を連れて行かなければならない。
「その魔法、借りなくて正解だよ。……だって、もし一千万
払ったとしても、瀬戸くん、絶対に後悔することになるから」
私の言葉に、瀬戸くんが力なく顔を上げた。その目は赤く
充血しており、今にも涙が溢れ出しそうだった。私は一呼吸おき、
親友の秘密を、彼の胸に突き刺す覚悟を決めた。




