第11話:ただのおまじない
静まり返った夜の路地を抜け、
私たちはレンガ造りの店に戻った。
見慣れた看板、温かな光、
そして鼻をくすぐるハーブの香り。
ようやく自分の世界に帰ってこれたと、
肌の表面が弛緩していく。
カウンターの椅子に深く腰掛けると、
全身の力が一気に抜けていった。
「……ねえ、櫂さん。あの人たち、
本当にあのまま虫なの?
もし、誰かに踏まれちゃったら……」
震える声で尋ねた。どれだけ乱暴で、
私をさらった悪人だとしても、
自分のせいで命が消えてしまうのは、
やはり恐ろしいことだ。
櫂さんは手際よくお湯を沸かしながら、
事もなげに、さわやかに微笑んだ。
「安心してください、紬さん。
彼らを殺すつもりはありませんよ。
変生の際、一緒に『硬化』の
防御魔法も掛けておきましたから」
彼は湯気の向こうで、いつもの
涼しげな顔をして続けた。
「たとえ車に踏まれても、石が跳ねる
程度のこと。潰れることはありません。
反省が終わるまでは、どんな衝撃にも
耐える、世界一頑丈な虫ですよ」
櫂さんの「慈悲」の基準は、
やっぱりどこかズレている。
けれど、その呆れるほど平然とした
言葉を聞いて、張り詰めていた糸が、
ぷつりと切れた。
「……あ。……よかった」
急に視界が歪み、熱い涙が
次から次へとあふれ出した。
人質にされた恐怖、倉庫の冷たさ、
服を掴まれた時の絶望。
溜め込んでいた感情が混ざり合い、
私は子供のように声を上げて泣いた。
そんな私を前にして、櫂さんは
少しだけ困ったように眉を下げた。
そしてカウンター越しに手を伸ばすと、
震える私の頭に、そっと掌を乗せた。
大きくて、驚くほど温かな手。
髪を撫で、安らぎを流し込むような、
ゆっくりとした、優しい動き。
触れられている場所から、
凍りついていた心が溶けていく。
不思議と呼吸が整い、
嵐のような涙が静まっていった。
「……これ、も……。
何かの、魔法なの……?」
潤んだ瞳で彼を見上げると、
櫂さんは目を細めた。
そこには契約を口にする時の冷徹さは
微塵もなく、ただ穏やかな光があった。
「いいえ。これは術式もスロットも、
もちろん代金も必要のない、
ただのおまじないですよ。
……少しは、落ち着きましたか?」
しばらくして、私がようやく
鼻をすすり終えると、櫂さんは
真面目な顔で、改まるように切り出した。
「ところで、紬さん。やはり、
ここでバイトをしませんか?
……君がいなかった数時間、
この店がひどく静まり返っていて。
私はそれを、耐え難いほど
『不快』だと感じてしまいました」
櫂さんは少しだけ視線を逸らし、
独り言のように続けた。
「君を店に入れておけば、
私の目の届く範囲に置けますし。
……どうですか、白石 紬さん?」
それは、合理的な彼なりの、
最大限の「守りたい」という意志。
差し出されたその手を、
私は照れ隠しに軽く叩き、
涙を拭いた最高の笑顔で頷いた。
中途半端な街の、小さな店。
魔法のレンタル屋での、
私の新しい放課後が、今始まった。




