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何故なろう小説は読まれそして書かれるのか/価値観

 「なろう小説」を敢えて読むという場合、そこには読者(肯定型)の選好がある。では、その選好は何を意味するのか。「なろう小説」とそうではない小説、この二つの間にある違いは、特定の反道徳性であり、肯定型からして見れば、それは強い個、力による揺るぎない上下関係、利己主義、不公平な世界と言った価値観である。選好の基準がそこにあるとなれば、肯定型の読者は、「なろう小説」からそうした価値観念を読んでいると言ってよいだろう。それでは、それは、なんのために? ここから、「なろう小説」読者と現実の関係を考えていく必要がある。


 ある価値観念を読むといった場合、そしてそれが読者の積極的な選択である場合、その時に想定される現実は如何なる状況であるか。


 価値観念は、人間の全ての思考と行動の判断基準であり、生理に由来する行動も含め、当人の価値観念の影響を受けない行動や思考はない。故にこそ、当人の思考と行動の土台となっている価値観念にそぐわない他人の思考や行動、その他の出来事は、当人にとって解決すべき問題として感覚される。その感覚は、嫌悪感や不快感、違和感、瞋恚、等の、一般に負の感情と呼ばれるものとして認識される。逆に、当人の思考と行動の土台となっている価値観念に沿う他人の言動、出来事は、当人にとってはなんの問題とも意識されず、感情的には楽や喜びといったものが生じる。

 という事は、現実が上手くいっている人物は、小説を読まない。何故なら、完璧な価値観を持っていれば、その価値観以外の価値観を知る必要などないのだからだ。そこには喜びだけがある。しかし、現実には完璧な価値観を持っている人物などそうはいないであろう。だから、価値観念を読もうとする時の前提には、上手く行かない、少なくとも完璧ではない現実がある。そしてそのうえに、二種類の読書がある。一つは、自らの価値観念に反する価値観念を読まされて苛立ち不快感を覚える読書と、自らの価値観に合う価値観念を読んで慰み愉快になる読書。


 以上の事を踏まえれば、価値観念を読むという行為の意味も、自ずと明らかである。即ち、第一に価値観念の再確認、第二に価値観念の学習、である。後者の価値観念の学習は、否定型にあり得る読書の形式である。自らの価値観念と相反する価値観を、どう消化するか、受け容れるか、或いは克服、打倒するかと言った、積極的な形で現前する問題に立ち向かう時、どうしても相手の価値観念を理解する必要が出てくる。それは愉快ではないが、自己研鑽のために必要な事であるため、欠かす事の出来ない作業である。そして今回、問題になるのは前者、価値観念の再確認という読書形式であり、こちらが肯定型の読書形式である。


 現実との関りにおいて、自らの価値観念を再確認しなければならない状況とは、如何なる状況であろうか。ここで短絡的に、自らの価値観念を否定された状況、などと考えてはいけない。何故ならばその状況とは、「なろう小説」に対する否定型の置かれた状況と同じであるからだ。その時に生じる感情的な反応は苦しみとか怒りとかであり、行動としてあり得るのは価値観念の吟味、読書形式としては価値観念の学習になるのである。つまり、肯定型が現実で自身の価値観念を否定されたとしても、「なろう小説」を読むという行為には繋がらない。そして、この時点で、巷に度々言われるような、「なろう小説」が人気の理由は否定される。即ち、「なろう小説」は現実逃避ではない(・・・・・・・・)。そこには逃避すべき現実(相容れない価値観)がないからだ。むしろ肯定型からして見れば、「なろう小説」を現実逃避であると言い得る価値観を持っている者、そして実際にそう宣う事をする者の方こそ、現実逃避的であるとさえ言える。


 さてそれでは、価値観念の再確認という読書形式が発生し得る、現実での状況とは、如何なる状況であろうか。それは、自身の価値観が自身を苦しめる、自身の価値観が自身を苦しめる事を肯定するような状況である。つまりこういう事だ。ある人物が、能力主義的な価値観を持っていたとする。そしてある時、その人物よりも優秀な人物が大勢現れて、その人物は組織の最下層に位置する事になってしまったとする。この時、その人物は、自らのそれまでの価値観を否定して、いきなり年功序列の方が良いと言い出すだろうか? それは有り得ない。何故なら価値観とは、その人物のそれまで全ての思考と行動を司ってきたものであり、価値観を変化させる事は、それまでの自分の認識、自己の意味を変容させる事だからだ。言ってみれば、人生を無意味化する事なのだ。仮にそんな事が容易くできるなら、彼は容易く自害するだろう。生きていても無意味なのだから。だから実際には、価値観を変えるにしても、相当の時間を要する。今までの人生を否定するのではなく、今までの人生がこれからの糧となり得る価値観が醸成されるまで、その人物の価値観は捨て去られる事がない。そして、ここに肯定型を「なろう小説」に向かわせる理由がある。つまり肯定型は、現実に自分の価値を否定されて、自分の価値を信じ守る為に「なろう小説」を読むのではなく、自分の価値観によって自分の価値が否定された時、自分ではなく価値観の方を守る為に「なろう小説」を読むのである。

 そして、「なろう小説」の価値観(それは即ち肯定型の価値観)とは、大きな括りで言えば、支配者と被支配者という記号の絶対視である。注意して欲しいのは、支配と被支配という関係性を絶対視するのではなく、支配する者とされる者という、記号性、或いはキャラクター性を絶対視しているということである。「なろう小説」においては、支配する(される)者という記号が付与されている限り、誰が、とか、どういう者が、という事は問題にされない。問題になるのは、「支配者」の記号を付与された者が、矛盾なくそれを遂行し得るかどうかであり、変則としては、「支配者」の記号を付与されていない者が支配者の側に回ろうとしても痛い目に遭うだけという、「なろう小説」特有の因果応報の展開である。通常(従来的な価値観)であれば、支配者が支配者たるのは、その資質によってであり、決して、そういう役割を負っているからではない。「ご都合主義」という揶揄は、資質とは関係なしに、「そういうものだから」物事が解決してしまう時に為されるものである。ここで支配者というのは無論の事、強力な個の事であり、大体において主人公の事になる。「なろう小説」において強さは、当の人物の資質や努力に与えられるのではなく、強いという記号を持った者に与えられる。「主人公最強」という要素が「なろう小説」のものとして認識される事、この最強である事への拘り、最強の存在が最強のままでいる事への執着が、この記号の絶対視的傾向を証してくれているだろう。――因みに、こうした記号への執着的な構成が小説に生ずるのは、正に小説であるが故だと思われる。というのも、肯定型は当然の事、良い記号を求めているのだから、小説の展開は良い記号(最強、主人、好かれる、といった特別性等)を中心にしなければ、人気は出ない。そして、物語はこの記号を中心に展開される訳で、仮にその記号が主人公から別の人物に移ったならば、主人公をその人物に交代するかそれと同等の扱いをしなければ、記号を追えなくなる。つまり、記号は一つ所に納まっていなければならず、そうして執着的な構成が生ずるという訳である。


 さて、そうして、こうした価値観を再確認する状況にあるという事は、言わずもがな、肯定型は、この記号絶対視的な社会に生きているという事である。それだけではなく、正にその価値観によって、肯定型当人が苦しんでいるという事でもある。どのような苦しみかと言えば、それは当然、「被支配者」の記号を付与された(と思っている)苦しみであろう。「被支配者」の記号を持った者は、時間的余裕を奪われ、創造性を奪われ、資産を奪われ、能力を制限され……つまり、強者としてのあらゆる記号を奪われている事になる。そしてこのような価値観を始めに抱くに至るには、当然、そのような価値観を抱かせる周囲の環境があろう。第一に、記号を追い求める事を強いる消費社会があり、第二に、利己的な思考や行動様式を助長する資本主義社会。「なろう小説」は、この二つの社会の複合が生んだ、現代の必然であると言えるだろう。


 纏めると、「なろう小説」とは、個人(肯定型)の価値観を教育するバイブルである(情操教育)と同時に、世の理不尽に対して世の正当性を説き、社会秩序を保つ教会的装置(倫理道徳)であると言える。若者が堕落して「なろう小説」を読むのではなく、社会が若者に「なろう小説」のような「聖典」を読ませるのである。若者(社会の歯車である二十代から三十代)が社会に忠実である限り、「なろう小説」の人気は衰えないだろう。

 尤も、その姿は否定型からして見れば、邪教の宣教師に唆されて改宗する迷える羊か、頑なに自身の神を信じ譲らぬ唾棄すべき邪教の徒として映じるのかも知れないが。その意味では、「なろう小説」を読んで人間が駄目になる、というのは間違いではない。


 ここまでは読まれる理由を考えたわけだが、ここまで解れば、書かれる理由なぞは取るに足らない。即ち、それが社会からの要請だからだ。社会に忠実であるなら、そしてその能力があるなら、書かないではいられないだろう。


 さて、ここに「なろう小説」そのものについての考察は完結する訳だが、総括すると、『「なろう小説」は現在進行形の文学である』と言った所だろうか。その文学の行き着く先がなんであるかは兎も角。

 「なろう小説」が社会への迎合である限り、社会が変わらぬ限り、「なろう小説」が変わる事はない。「なろう小説」のランキングの有り様などは、まるでボードリヤールの言う記号消費社会そのものだ。もし本当にそうなら、「なろう小説」は絶対に変わらないしなくならないということになる。それが良いのか悪いのか、ここでは敢えて触れないものとする。


 ここまで読んで下さった読者諸氏に感謝を。


  筆者


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