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第九章 初めての安らぎ

皇国経済会議から数日が経った。

南部の干ばつ対策を実行に移すため、私は連日、細かな調整に追われている。

資金の配分、関係者との折衝、進捗の確認。

どれも一つとして疎かにできない、重要な仕事ばかりだった。

やるべきことは尽きることなく、気づけば毎日、夜遅くまで執務室に残る日々が続いていた。

王国にいた頃から染みついた癖なのか、根を詰めすぎてしまう自分の性分は、なかなか直らないままだった。

その日も、窓の外はすっかり暗くなっている。

資料に向き合いながら、私は目頭を軽く押さえた。

気づけば、夕食を摂ることすら忘れていたことに、今更ながら思い至る。

少し休めば大丈夫だろうと思いながら、椅子から立ち上がった瞬間、視界がぐらりと揺れる。

思わずよろめいた私の身体を、誰かの腕がしっかりと支えてくれた。

 

「大丈夫ですか」

 

顔を上げると、殿下が心配そうな表情で私を見つめている。

いつの間に部屋に入ってきたのか、まったく気づかなかった。

支えてくれる腕の温かさに、私は少しだけ安堵の息をついた。

 

「申し訳ございません、少し立ちくらみが……」

「もう大丈夫です」

 

そう言って体勢を立て直そうとする私に、殿下は静かに首を振った。

その眼差しには、有無を言わせない強さがあった。

 

「今日は終わりです」

 

その言葉に、私は慌てて資料に手を伸ばす。

まだ確認しなければならない項目が、いくつも残っていた。

 

「ですが、資料がまだ……」

「明日でも構いません」

「でも……」

 

殿下は私の手から、そっと書類を取り上げてしまう。

 

「あなたが倒れる方が困ります」

 

有無を言わせないその声に、私はそれ以上何も言えなくなってしまった。

思えば、王国にいた頃は、誰かにこうして気遣われることなど、ほとんどなかった。

体調を崩しても、無理を押して働き続けるのが当たり前だと思っていた。

けれど今、目の前の人は、私の身体を何よりも優先してくれている。

その違いに、胸の奥が静かに震えた。

殿下は半ば強引に、私の手を引いて執務室を後にする。

案内された先は、月明かりに照らされた静かな庭園だった。

夜風が、火照った頬を心地よく撫でていく。

昼間の喧騒が嘘のように、庭園には穏やかな静けさが広がっていた。

噴水の水音だけが、規則正しく響いている。

殿下と並んで歩きながら、私は少しずつ、張り詰めていた気持ちがほどけていくのを感じる。

 

「こうして立ち止まる時間も、時には必要です」

 

殿下がそう呟くように言った。

私は小さく頷きながら、夜空を見上げる。

無数の星が、静かに瞬いていた。

王国にいた頃は、こうしてゆっくり夜空を眺める余裕すら、あまり持てなかったように思う。

常に何かに追われるようにして、日々を過ごしてきた気がした。

しばらく無言のまま歩いていたけれど、ふと、胸の奥にしまい込んでいた思いが、自然と言葉になって溢れ出す。

 

「昔から、どれほど努力しても……」

「最後には、可愛いね、としか言われませんでした」

「能力を認められたことは、ほとんどありません」

 

言ってしまってから、少し驚いた。

こんな弱音を、誰かに漏らしたことは、これまでほとんどなかったからだ。

幼い頃、父に褒められた時の記憶が、ふと脳裏をよぎる。

あの時感じた誇らしさを、もう一度味わいたくて、私はずっと走り続けてきたのかもしれない。

けれど、周囲から返ってくるのはいつも、外見についての言葉ばかりだった。

殿下は、ふと足を止めた。

振り返った彼の表情は、真剣そのものだった。

 

「では、私は世界一幸運ですね」

「え……?」

 

思いがけない言葉に、私は思わず聞き返してしまう。

殿下は柔らかく微笑みながら、ゆっくりと言葉を重ねていった。

 

「可愛くて」

「優秀で」

「誠実で」

「努力家」

「そんな女性に出会えたのですから」

 

その一言一言が、胸の奥にじんわりと染み込んでいく。

これまで、誰かにこんな風にまっすぐな言葉を向けられたことは、一度もなかった。

可愛いという言葉も、優秀だという言葉も、いつもどちらか一方でしかもらえなかった。

けれど今、目の前の人は、その両方を、当たり前のように認めてくれている。

気づけば、殿下は自然な仕草で、私の手をそっと取っていた。

 

「どうか、自分を卑下しないでください」

 

その言葉を聞いた瞬間、堪えていたはずの涙が、ふいに溢れ出す。

慌てて目元を拭おうとしたけれど、うまくいかなかった。

婚約破棄されたあの夜以来、私は一度も涙を流していなかった。

悲しみを見せてはいけないと、ずっと自分に言い聞かせてきたからだ。

けれど今、頬を伝うこの涙は、あの夜の涙とはまるで違う。

これは、悲しみの涙ではなく、救われた涙だった。

殿下は驚いた様子を見せながらも、慌てることなく、静かに私の背中にそっと手を添えてくれた。

 

「泣きたい時は、泣いていいのですよ」

 

その優しさに、私はさらに涙が止まらなくなってしまう。

声を殺して泣く私の隣で、殿下はただ静かに寄り添い続けてくれた。

急かすことも、慰めの言葉を重ねることもせず、ただそこにいてくれる。

その静かな優しさが、これまで張り詰めていた心を、少しずつ解きほぐしていくようだった。

けれど不思議と、その涙は、少しも辛いものではなかった。

むしろ、長い間、どこかに押し込めていた感情が、ようやく外へ出ていくような感覚だった。

王国での日々、婚約破棄の夜、隣国へ渡ってからの慌ただしい毎日。

様々な記憶が、涙とともに静かに流れていく気がした。

やがて涙が落ち着いてくると、殿下は懐から取り出した布をそっと差し出してくれる。

 

「これを」

「ありがとうございます」

 

受け取った布で目元を拭いながら、私は小さく笑った。

 

「情けないところを、お見せしてしまいました」

 

殿下は柔らかく首を振る。

 

「そんなことはありません」

「こうして本音を話してくれたことが、私には何より嬉しいのです」

 

月明かりの下、私はしばらくの間、殿下に寄り添うようにして、静かに夜風を感じていた。

これほど穏やかな気持ちで誰かの側にいられるのは、いつ以来だろうか。

胸の奥に、これまで感じたことのない温かな安らぎが、ゆっくりと広がっていくのを感じていた。

この人になら、これまで誰にも見せられなかった弱さを見せても、きっと大丈夫だ。

そんな確信にも似た思いが、静かに芽生え始めていた。

星空の下、二人だけの静かな時間は、いつまでも続いてほしいと思うほど、穏やかなものだった。











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