第七章 王国の歪み
隣国での暮らしが始まって、ひと月が過ぎようとしていた。
経済顧問としての仕事にも少しずつ慣れ、日々の忙しさに追われながらも、私は充実した時間を過ごしている。
殿下をはじめ、周囲の人々も温かく接してくれるおかげで、この国での居場所も少しずつ見つかりつつあった。
侍女のマリーも、すっかりこの土地に馴染んだ様子で、毎朝明るく声をかけてくれる。
故郷の王国のことを思い出す機会も、以前に比べれば随分と減っていた。
それでも、時折届く手紙が、私と王国とを繋ぐ細い糸のように残っている。
その日の午後、執務室に一通の手紙が届いた。
仕事の合間、書類を整理していた私の手を、執事が静かに止める。
「お嬢様、王国よりお手紙が届いております」
差出人は、王国の老宰相だった。
婚約破棄の夜、複雑な表情で私を見送ってくれたあの方だ。
その後も何度か、近況を伝える手紙をやり取りしていた。
封を開けると、几帳面な筆跡が便箋いっぱいに綴られている。
「セラフィーナ嬢、隣国でのご活躍、大変嬉しく思っております」
「さて、こちらでは少々厄介なことになっておりまして」
その書き出しに、私は思わず眉をひそめた。
続きを読み進めると、王国の状況が詳しく記されている。
地方の商会が、次々と契約更新を拒否し始めているのだという。
理由を尋ねても、はっきりとした返答は得られないまま、時間だけが過ぎているらしい。
私の記憶が正しければ、契約更新の時期には、必ず細かな条件のすり合わせが必要だったはずだ。
商会側の事情に配慮しながら交渉を進めるのは、決して簡単な仕事ではない。
税収も、予測をさらに下回る勢いで落ち込んでいる。
会議では大臣たちが頭を抱えるばかりで、誰も有効な対策を打ち出せずにいるらしい。
手紙の文面からは、宰相自身の疲労も滲み出ているようだった。
「先日の会議で、私は思わず申し上げてしまいました」
「以前ならセラフィーナ嬢が、と」
その一文を読んだ瞬間、私の胸には複雑な思いが広がった。
懐かしさと、そしてどこか申し訳ないような気持ち。
自分が去ったことで、誰かに迷惑をかけているのではないかという思いも、少なからずあった。
手紙は、さらに続いていた。
「その途端、殿下が机を叩いて叫ばれたのです」
「もうその名を出すな、と」
その言葉を思い浮かべると、胸の奥がちくりと痛んだ。
名前を出されることさえ、彼にとっては耐え難いのだろうか。
それとも、別の感情が隠れているのだろうか。
どちらとも判断がつかないまま、私は先を読み進めた。
かつて婚約者だった頃、あれほど私の意見を疎ましく思っていた人が、今はその名前にすら過敏になっている。
その変化を、どう受け止めればいいのか分からなかった。
「けれど殿下は、内心では相当に焦っておられる様子でした」
「その後、独りで書庫にこもられたと聞いております」
手紙は、さらに驚くべき内容を伝えていた。
「殿下は、過去数年分の書類を全て取り寄せられたそうです」
「予算案の修正、外交文書、商会との契約、災害対策」
「そのほとんど全てに、あなたの署名があったことに、ようやく気づかれたようです」
その一節を読み、私はしばらく手を止めた。
これまで、誰にも気づかれることのなかった仕事の数々。
夜遅くまで一人で向き合っていた書類の山が、脳裏に蘇る。
特に、昨年の水害対策の資料は、幾晩も徹夜して仕上げたものだった。
誰かに褒められたくてやっていたわけではないけれど、それが今になって、こんな形で明るみに出るとは思ってもみなかった。
「殿下は、書類を前にして呟かれたそうです」
「……全部、あいつだったのか、と」
その一言を読んだ瞬間、なぜか涙腺が緩みそうになった。
悔しさなのか、それとも安堵なのか、自分でもよく分からない感情だった。
ただ、これまでの努力が、決して無駄ではなかったのだと、少しだけ証明されたような気がした。
手紙の最後は、こう締めくくられていた。
「今更ながら、あなたの存在の大きさに、皆が気づき始めております」
「けれど、それは全て手遅れのことなのでしょう」
読み終えた後、私はしばらくの間、便箋を手にしたまま動けずにいた。
胸の中に去来するのは、単純な喜びではなかった。
確かに、ようやく自分の働きが認められたことには、複雑な安堵もある。
けれど同時に、あの国の人々が今も苦しんでいるのだと思うと、素直に喜べない自分もいた。
かつて自分が守ろうとしていた人々の暮らしが、今も揺らぎ続けている。
その事実だけは、どれだけ距離が離れても、簡単には割り切れなかった。
アルドリック殿下のことを、今更どう思えばいいのかも分からない。
憎しみとまでは言えないけれど、素直に同情する気持ちにもなれなかった。
ただ、あれほど強く拒絶していた名前を、ようやく口にせざるを得なくなった彼の胸中を思うと、複雑な気持ちにならざるを得ない。
窓の外に目を向けると、隣国の穏やかな空が広がっている。
あの国での日々は、もう私の帰る場所ではない。
今の私には、この国で果たすべき役割がある。
そう自分に言い聞かせながら、私は静かに手紙を封筒にしまった。
「セラフィーナ、少し顔色が優れないようですが」
執務室に顔を出した殿下が、心配そうに声をかけてくる。
私は小さく首を振った。
「故郷から届いた手紙に、少し驚いてしまっただけです」
「もう大丈夫です」
殿下は静かに私の隣に腰を下ろすと、穏やかな声で尋ねた。
「話してくれる気になったら、いつでも聞きます」
「無理に話す必要はありませんが」
その優しさに、私は少しだけ心が軽くなるのを感じた。
迷った末、私は手紙の内容を、かいつまんで殿下に伝えることにした。
話しているうちに、自分でも驚くほど素直に、胸の内を言葉にできている自分に気づく。
黙って耳を傾けていた殿下は、話を聞き終えると静かに口を開いた。
「あなたの働きが認められたことは、喜ばしいことだと思います」
「けれど、それ以上に、今のあなたがここにいてくれることが、私には何よりも嬉しいのです」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
過去に囚われて悲しむよりも、この温かさを大切にしたい。
そう素直に思えたことが、少し前の自分からは考えられないほどの変化だった。
殿下はそれ以上深くは尋ねず、ただ静かに私の側に立っていてくれた。
その気遣いに、私は改めて救われる思いがした。
過去の出来事に囚われるよりも、今この場所で、自分にできることを続けていく。
それが今の私にできる、精一杯の答えのように思えた。
その夜、私は机に向かい、宰相への返事をしたためた。
かつての国の人々の暮らしを思うと、何もせずにはいられなかった。
書けることは限られているけれど、せめて過去の資料の在り処だけでも伝えておきたい。
そう思いながら、私はペンを走らせた。
「商会との交渉には、過去三年分の取引記録が参考になるはずです」
「詳細は、公爵家の書庫にある帳簿をご確認ください」
これが、今の私にできる、ささやかな手助けだった。
王国のためにできることは、もうそれくらいしか残されていない。
それでも、少しでも誰かの役に立てるのなら、意味のあることだと思えた。
封をした手紙を眺めながら、私は静かに、この一件に区切りをつけることにした。




