第六章 君はそのままで美しい
翌朝、私は殿下自らの案内で、皇都の視察へ出かけることになった。
馬車ではなく、あえて徒歩で市井の様子を見て回るのだという。
「経済を知るには、まず人々の暮らしを知ることからです」
朝食の席で、殿下はそう語っていた。
その考え方に、私は素直に感心してしまう。
王国にいた頃、私も似たようなことを考えていたけれど、実際に足を運ぶ機会はそう多くはなかった。
書類の上の数字だけでは見えてこないものが、きっとこの街にはあるはずだ。
そんな期待を抱きながら、私は身支度を整えた。
市場に足を踏み入れると、活気ある声があちこちから響いてきた。
色とりどりの野菜や布地が並ぶ通りを、殿下と並んで歩く。
すれ違う商人たちは、殿下の姿を見つけると丁寧に頭を下げるけれど、隣にいる私を見ると、決まって不思議そうな顔をした。
「皇太子殿下のお連れか」
「あんな小さなお嬢様が、経済顧問だなんて」
囁くような声が、あちこちから聞こえてくる。
慣れた反応ではあったけれど、殿下の隣でそう言われると、少しだけ肩身が狭く感じられた。
それでも、私は表情を変えずに歩き続けた。
王国での日々を思えば、こうした視線には慣れているつもりだった。
それでも、新しい土地で最初に向けられる目が同じだと分かると、少しばかり心が沈む。
殿下はそんな私の様子に気づいていたのか、歩きながら静かに口を開いた。
「気にすることはありません」
「見る目のない者たちの声など、放っておけばいいのです」
その言葉に、少しだけ気持ちが軽くなる。
これまで、誰かにそんな風に言ってもらえたことは、あまりなかった。
一軒の織物屋の前で、殿下が足を止める。
店主らしき初老の男性が、困ったような表情で在庫の山を見つめていた。
「どうかされましたか」
殿下が声をかけると、店主は深いため息をつく。
「実は、山向こうの村からの仕入れが、ここのところ滞っておりまして」
「荷馬車が一日に一往復しかできず、注文をさばき切れないのです」
その話を聞いた瞬間、私は思わず口を挟んでいた。
「恐れながら、その街道の様子を伺ってもよろしいでしょうか」
店主は戸惑いながらも、詳しい状況を話してくれる。
山越えの区間が長く、荷馬車が一日に一往復するのが限界であること。
雨が続くとさらに遅れが生じること。
話を聞きながら、私の頭の中には自然と改善策が浮かんでいた。
「この街道は山越えが多く、荒天時は荷馬車が一日に一往復しかできません」
「川の方の道を使えば、天候に左右されにくくなる利点もございます」
店主は目を丸くして、私を見つめた。
「そこまで考えていたのか……」
「まさか、そのような案が出てくるとは」
驚きを隠せない様子の店主に、周りにいた他の商人たちも集まってくる。
私は簡単な図を地面に描きながら、荒天時のルートについて説明を続けた。
話し終える頃には、店主の表情はすっかり明るくなっている。
「早速、仲間内で相談してみます」
「本当に、ありがとうございました」
深々と頭を下げる店主に、私も丁寧に礼を返した。
先ほどまでの疑わしげな空気は、すっかり消えていた。
隣に立つ殿下を見上げると、彼は嬉しそうに目を細めていた。
その表情に、私は少しだけ照れくさい気持ちになる。
市場を歩き終える頃には、先ほどまで疑わしげだった商人たちの視線も、いつの間にか感心したものへと変わっていた。
帰り道、殿下は満足そうに何度も頷いていた。
「今日は、いい報告ができそうです」
「あなたのおかげです」
その言葉に、私は小さく首を振る。
「私はただ、見聞きしたことをお伝えしただけです」
殿下は柔らかく笑うだけで、それ以上は何も言わなかった。
皇城へ戻った私は、夕方から始まる歓迎会の支度に追われることになった。
その夜、皇城では私の歓迎会が開かれた。
豪華な深紅のドレスに身を包み、私は会場の中央へと足を踏み入れる。
見慣れない華やかな装いに、私自身も少し戸惑っていた。
王国にいた頃は、こうした場でも控えめな色合いのドレスを選ぶことが多かった。
けれど今夜は、侍女のマリーが張り切って選んでくれた一着だ。
会場中の視線が、一斉にこちらへ集まるのを感じる。
シャンデリアの下で、貴族たちが次々と挨拶に訪れる。
「経済顧問殿のご活躍、殿下から伺っております」
「これからもどうぞよしなに」
好意的な言葉をかけてくれる者も多く、私は少しずつ緊張をほぐしていった。
それでも、視線の全てが、私の話に向けられているわけではないことも、薄々感じ取っていた。
一人の侯爵夫人が、うっとりとした様子で近づいてきた。
「なんて愛らしい方でしょう」
「まるで物語のお姫様のよう」
その言葉に、私は静かに微笑みを返した。
けれど、心の中では小さなため息をついていた。
また、外見のことばかりだ。
今日の昼間、あれほど懸命に説明したことは、誰の記憶にも残っていないのだろうか。
そんな思いが、じわりと胸に広がっていく。
私は自然と、周囲の視線から目を逸らすようになっていた。
その様子に気付いたのは、殿下だった。
彼はさりげなく私に近づき、小さな声で囁く。
「少し、休憩しませんか」
導かれるまま、私は人目の少ないテラスへと足を運んだ。
夜風が心地よく頬を撫でていく。
遠くから、会場の喧騒がかすかに聞こえてくる。
しばらくの沈黙の後、私は思わず本音を漏らしていた。
「皆様、私の見た目ばかりを見ています」
「能力は、見てもらえません」
言ってしまってから、少し後悔する。
それでも、抑えきれない思いが、自然と言葉になっていた。
王国にいた頃から、ずっと抱えてきた思いだった。
どれほど努力を重ねても、最後にはいつも「可愛い」という言葉だけが残る。
今日の昼間、あれほど懸命に説明したことすら、今夜の視線の前では霞んでしまうように感じられた。
殿下は静かに私を見つめ、優しく笑った。
「違います」
「私は最初に君を見た時、確かに可愛いと思いました」
その言葉に、私はますます俯いてしまう。
やはり彼も、同じなのだろうか。
そう思うと、少しだけ胸の奥が冷えていく気がした。
けれど、そう思いかけた時、続く言葉は予想外のものだった。
「でも、会議で話を聞いて確信しました」
「私は、見た目だけでは好きになれません」
「貴方だから、惹かれたのです」
心臓が、大きく跳ねる。
聞き間違いではないかと、私は思わず殿下の顔を見つめ返した。
けれど、彼の眼差しは至って真剣だった。
月明かりに照らされたその横顔には、からかいの色など微塵も感じられない。
殿下はさらに、ゆっくりと言葉を重ねていった。
「可愛い貴方も」
「賢い貴方も」
「責任感の強い貴方も」
「全部好きです」
突然の言葉に、私の顔は瞬く間に熱くなっていく。
「そ、そのようなことを、急に仰らないでください」
殿下は柔らかく微笑んだまま、まっすぐに私を見つめた。
「事実ですから」
その一言に、これ以上何も言えなくなってしまう。
夜風の中、私はしばらくの間、言葉もなく立ち尽くしていた。
けれど、胸の奥に広がる温かさは、決して嫌なものではなかった。
殿下は、それ以上何かを求めるでもなく、ただ穏やかに夜空を見上げていた。
その横顔を盗み見ながら、私は自分の胸の高鳴りをどう扱えばいいのか分からずにいた。
これまで、誰かにこんな風に真っ直ぐな言葉を向けられたことがあっただろうか。
記憶を辿ってみても、思い当たる相手はいなかった。
「少し、風に当たりすぎましたね」
「そろそろ戻りましょうか」
殿下がそう声をかけ、私たちは並んで会場へと戻っていく。
先ほどまでの動揺は、まだ胸の中に残っていた。
それでも、不思議と足取りは軽い。
テラスへの短い道のりが、これまで経験したことのない、穏やかな幸福感で満たされていた。
会場に戻ると、再び視線が集まってくる。
けれど、先ほどまでとは違い、今は少しもそれが気にならなかった。
隣を歩く殿下の存在が、いつの間にか私にとって、大きな支えになり始めていたのかもしれない。
この国での日々が、これからどんな形になっていくのか、まだ分からない。
それでも今は、この温かな気持ちを、静かに大切にしたいと思った。




