第四章 隣国からの招待
婚約破棄から、二週間が過ぎていた。
あれほど騒がしかった王城からは遠ざかり、私は屋敷でひっそりと日々を過ごしている。
最初の数日は、どう過ごせばいいのかさえ分からなかった。
毎朝早くから資料と向き合う生活が当たり前だったのに、今は何をすればいいのか分からず、ただ時間だけが過ぎていく。
社交界からも、私はほとんど姿を消していた。
婚約を破棄された令嬢として好奇の目に晒されるくらいなら、屋敷に籠っている方がずっと気楽だった。
時間と共に、少しずつ静かな暮らしにも慣れ始めていた。
庭の手入れをしたり、書庫にこもって本を読んだりする時間が、今の私にとって数少ない救いになっている。
そんなある日、父の友人である宰相付きの文官が、屋敷を訪ねてきた。
応接間に通されたその人は、疲れた様子を隠しきれないまま、父に王城の近況を語り始める。
私は部屋の隅で控えていたけれど、聞こえてくる内容に思わず耳を疑った。
「実は、予算編成がまるで進んでおりません」
「商会との契約更新も、軒並み滞っておりまして」
父が眉をひそめながら尋ねる。
「一体、何が原因なのだ」
「それが、はっきりとしないのです」
「地方領主からの苦情も、日に日に増えております」
その話を聞きながら、私は静かに胸の内で答えを見つけていた。
予算編成の細かな調整も、商会との契約の取りまとめも、これまでずっと私が陰で担ってきたものだった。
会議で発言することは確かにあったけれど、それ以上に、表に出ない実務の大半を引き受けていたのは私だった。
誰かに気づかれることを望んでいたわけではない。
けれど、まさかここまで滞ってしまうとは、想像していなかった。
文官はさらに言葉を続けた。
「災害対策の見直しも、途中で止まったままになっております」
「魔導インフラの整備計画についても、担当者が困り果てている様子でして」
聞けば聞くほど、心当たりのある案件ばかりだった。
どれも、私が細部まで目を通し、進捗を管理していたものだ。
それが今、担当者を失ったまま、宙に浮いてしまっているのだという。
父はため息をつきながら、文官に労いの言葉をかけていた。
「殿下は、この件についてどうお考えなのだ」
文官は言いにくそうに言葉を濁す。
「殿下は、いずれ何とかなるとお考えのようで」
「今のところ、対応策を出す様子はございません」
その返答に、父は小さく首を振った。
私はその様子を、複雑な思いで見つめていた。
文官が帰った後、父は静かに私を見つめた。
「セラフィーナ、お前がいなくなって、初めて分かったのだろうな」
「あの城は、お前の働きに随分と支えられていたのだ」
その言葉に、複雑な気持ちが込み上げてくる。
誇らしさよりも、むしろ虚しさの方が大きかった。
今更そのことに気づいたところで、私にはもう関わりのないことだ。
そう自分に言い聞かせながら、私は静かに頷くことしかできなかった。
数日後の朝、執事長が一通の書簡を手に、慌ただしく私の部屋を訪れた。
「お嬢様、隣国より書簡が届いております」
「差出人は、皇太子カイウス・アズールレイン殿下とのことです」
隣国の皇太子という、聞き覚えのある名前に、私は思わず手を止めた。
これまで社交の場で名前だけは何度か耳にしていたが、直接の面識はない。
確か、王国最強クラスの魔法剣士としても名高い方だったはずだ。
一体何の用件だろうかと訝しみながら、私は封を丁寧に開いた。
書簡には、丁寧な文字でこう記されていた。
「貴殿の卓越した経済手腕については、方々より伺っております」
「もしよろしければ、我が国の経済顧問として、力をお貸しいただけないでしょうか」
思いもよらない内容に、私はしばらくの間、言葉を失っていた。
婚約破棄という出来事があったばかりだというのに、こうして正式な招聘を受けるとは、想像もしていなかった。
書簡には、待遇や役割についても丁寧に記されている。
決して軽い気持ちで書かれたものではないことが、文面から伝わってきた。
何より、私の噂ではなく、実績を見て声をかけてくれているということが、素直に嬉しかった。
書簡の最後には、こう締めくくられていた。
「貴殿の意思を、何よりも尊重いたします」
「もし少しでも興味をお持ちいただけましたら、ぜひご返答をお待ちしております」
一方的な命令ではなく、あくまで私自身の意思を尋ねてくれている。
その姿勢だけでも、これまで出会ってきたどんな人とも違うように感じられた。
私は何度もその一文を読み返し、静かに書簡を胸に抱いた。
夕食の席で、私は父に書簡のことを打ち明けた。
父はしばらく黙って書簡に目を通していたが、やがて静かに顔を上げる。
「どうしたい」
その一言に、私は少し戸惑ってしまう。
「私が、決めてよろしいのですか」
父は穏やかに微笑んだ。
「お前の人生だ」
「お前が決めることだ」
その言葉を聞いて、胸の奥に小さな灯りがともるのを感じた。
これまでの人生では、私の意思よりも、公爵家の娘としての立場が優先されることが多かった。
けれど今、初めて自分の意思だけで選べる機会が目の前にある。
とはいえ、簡単に答えを出せる話ではなかった。
生まれ育ったこの国を離れることには、当然ながら不安も伴う。
言葉や習慣の違う土地で、うまくやっていけるのだろうか。
父や、この屋敷で長年仕えてくれた使用人たちと離れて暮らすことにも、寂しさを感じずにはいられない。
「不安か」
父が静かに問いかけてくる。
「正直に申し上げますと、少し」
「けれど、それ以上に……」
言葉を続けようとして、私は一度言葉を止めた。
自分の中にある本当の気持ちを、確かめるように。
「能力を、正当に見ていただけることが、何よりも嬉しいのです」
その言葉に、父は目を細めて頷いた。
「そうか」
「それなら、答えは決まっているようなものだな」
この国に残っても、私にできることはもう限られている。
一方で、隣国で新たに力を発揮できるとしたら、それは決して悪い話ではない。
何より、能力を正当に評価してくれる相手がいるという事実が、今の私には何よりも心強く感じられた。
公爵令嬢としての身分は、隣国へ渡ったところで失われるわけではない。
むしろ、経済顧問という立場で正式に迎え入れられることは、私にとって大きな一歩になるはずだった。
これまでのように、誰かの婚約者としてではなく、一人の人間として評価される場所へ。
そう考えると、不思議と心が軽くなっていくのを感じた。
しばらく考えた末、私は静かに口を開いた。
「……行ってみたいです」
その言葉を口にした瞬間、不思議と迷いは消えていた。
父は満足そうに頷く。
「よし、それなら準備を進めよう」
「お前ならきっと、隣国でも立派にやっていけるはずだ」
夕食を終えた後、自室に戻ると、侍女のマリーが荷造りの準備を始めていた。
彼女は事情を知ると、少し寂しそうな顔をしながらも、明るく笑ってくれた。
「お嬢様が新しい場所で活躍されるお話、私も嬉しいです」
「向こうでも、お側にいさせていただけますか」
その申し出に、胸が温かくなる。
「ええ、ぜひお願いしたいわ」
「マリーがいてくれると、心強いもの」
マリーは嬉しそうに微笑み、手際よく衣装箱を整え始めた。
一人ではないという事実が、これから始まる新しい生活への不安を、少しだけ和らげてくれる。
その夜、自室に戻った私は、窓の外に広がる夜空を見上げた。
これまで生きてきた王国を離れることに、寂しさがないと言えば嘘になる。
それでも、新しい場所で、新しい自分として生きていけるかもしれない。
そんな小さな期待が、胸の中に静かに芽生え始めていた。
出発までの数日間、私は屋敷の庭を何度も歩いた。
幼い頃、母が大切にしていた薔薇園は、今も変わらず美しい花を咲かせている。
早くに亡くなった母のことを、私はあまり覚えていない。
それでも、この庭に来ると、なぜか温かい気持ちに包まれる気がした。
「行ってらっしゃい、セラフィーナ」
そう言ってくれているような気がして、私は薔薇の一輪にそっと触れた。
生まれ育ったこの場所を離れることは、簡単な決断ではなかった。
けれど、前に進むためには、時には慣れ親しんだ場所を離れる勇気も必要なのだと、今は思える。
出発を数日後に控えたある日、老宰相からも短い手紙が届いた。
「セラフィーナ嬢の新天地でのご活躍を、心よりお祈り申し上げます」
「王国は、あなたのような方を手放したことを、いずれ深く悔やむことになるでしょう」
その言葉に、目頭が熱くなる。
最後まで自分を評価してくれる人がいたことが、これから旅立つ私の背中を、そっと押してくれるようだった。
婚約破棄という出来事は、確かに私の心を深く傷つけた。
けれど、それは同時に、これまで踏み出せなかった新しい一歩を踏み出す、きっかけにもなったのかもしれない。
荷造りを始めながら、私はそんなことを考えていた。
明日からは、隣国へ向けての準備が始まる。
まだ見ぬ土地での日々に、不安がないわけではなかったけれど、それ以上に、確かな期待が胸を満たしていた。




