第三章 婚約破棄
王城の大広間には、建国記念舞踏会に招かれた王侯貴族たちの姿があった。
シャンデリアの明かりが、磨き抜かれた大理石の床に反射している。
壁際には色とりどりの生花が飾られ、王国中から集められた楽団が優雅な旋律を奏でていた。
私は淡い若草色のドレスに身を包み、婚約者としてアルドリック殿下の隣に立っていた。
けれど、隣に立っていても、殿下はここ最近、私にほとんど言葉をかけてくれない。
慈善事業の一件以来、二人の間には見えない壁ができてしまったように感じている。
会場に足を踏み入れた時から、私はどこか落ち着かない気持ちを抱えていた。
理由は分からないが、殿下の纏う空気が、いつもより張り詰めているように感じられたからだ。
支度をしている間、侍女のマリーが何度も「今夜はいつも以上にお綺麗です」と言ってくれたけれど、私はどこか上の空だった。
このところ続いていた殿下との気まずさが、今夜こそ少しでも和らげばいいと、心のどこかで願っていたのかもしれない。
それでも今夜は、国を挙げての祝いの席だ。
個人的な事情を表に出すわけにはいかない。
私は努めて穏やかな表情を保ち、挨拶に訪れる貴族たちに一つひとつ丁寧に応じていった。
楽団の奏でる旋律が、広間いっぱいに柔らかく響いている。
グラスの触れ合う音や、あちこちから聞こえる笑い声が、華やかな夜を彩っていた。
「セラフィーナ様、今宵もお美しい」
「殿下との仲睦まじいお姿、何よりですわ」
そう声をかけてくる貴族たちに、私は微笑みで応える。
けれど、殿下の横顔にはどこか苛立ちの色が滲んでいるように見えた。
ここ数日、彼の周りには、以前よりも多くの取り巻きが集まるようになっている。
その中の一人が、殿下の耳元で何かを囁くのを、私は視界の端で捉えていた。
一度だけ、私は勇気を出して殿下に声をかけてみた。
「殿下、今宵は素晴らしい宴でございますね」
「ええ、そうですね」
返ってきた言葉は、ひどく素っ気ないものだった。
それ以上、会話が続くことはなかった。
私は小さく息を吐き、それ以上踏み込むのをやめた。
夜も更け始めた頃、殿下が不意に私の手を離した。
何事かと思い顔を上げると、彼はグラスを片手に一段高い壇上へと歩み出す。
楽団の演奏が、誰かの合図で静かに止んだ。
広間にいた誰もが、何が起きるのかと壇上を見上げる。
「皆の者、聞いてほしい」
殿下の声は、広間の隅々にまで響き渡った。
一瞬にして、あれほど賑やかだった会場が水を打ったように静まり返る。
私は何が起こるのか分からないまま、壇上の殿下を見つめていた。
胸の奥で、嫌な予感がじわりと広がっていく。
まさか、と思う一方で、これまでの彼の様子を思えば、あり得ない話ではないとも感じていた。
「私はセラフィーナ・ローズベルクとの婚約を破棄する」
その言葉が耳に届いた瞬間、私は自分の耳を疑った。
周囲の貴族たちからも、驚きのざわめきが一斉に沸き起こる。
「まさか、あの二人が……」
「一体何があったというの」
ざわめきの中心で、私はただ立ち尽くすことしかできなかった。
足元が、まるで地面ごと崩れていくような感覚に襲われる。
それでも、周囲の視線を一身に浴びながら、崩れ落ちるわけにはいかなかった。
近くにいた年配の伯爵が、恐る恐る殿下に問いかける。
「殿下、理由をお聞かせ願えますでしょうか」
殿下は私に一瞥をくれると、冷たく言い放った。
「見た目の割に生意気すぎる」
「王太子を立てることもできない」
「幼い顔と幼い声で私に指図する姿は、不快極まりない」
その一言一言が、鋭い刃のように胸を突き刺していく。
これまで積み重ねてきた努力も、伝えようとしてきた誠意も、彼の目には全て「生意気」の一言で片付けられてしまうのだと思い知らされた。
広間はさらにざわめきを増していく。
若い令嬢たちの中には、驚きのあまり口元を手で覆う者もいた。
一方で、殿下に近しい取り巻きたちは、どこか満足げな表情を浮かべているようにも見える。
それでも殿下は言葉を止めなかった。
「可愛いだけなら、価値があった」
その瞬間、私の中で何かが静かに折れる音がした。
けれど、涙は流さなかった。
流してはいけないと、心のどこかが強く命じていた。
公爵家の娘として、こんな場所で涙を見せることだけは、絶対に許されない。
本当は、伝えたいことが山ほどあった。
私がしてきたことの、何が悪かったのか。
けれど、この場でそれを口にしたところで、事態が変わるとは思えなかった。
これから公爵家はどうなるのか、社交界での立場はどうなるのか。
様々な不安が一瞬で頭を駆け巡ったけれど、今はそれを考えている余裕すらなかった。
震える手を、ドレスの裾でそっと隠す。
それでも、声だけは決して震わせまいと、私は深く息を吸い込んだ。
「……承知いたしました」
それだけを言い残し、私は静かに一礼した。
顔を上げた時、視界の端に映った貴族たちの表情は様々だった。
同情するような眼差しを向ける者もいれば、興味本位でこちらを見つめる者もいる。
中には、隠しきれない嘲笑を浮かべている者の姿もあった。
老宰相は、複雑な表情を浮かべたまま、こちらを見つめていた。
何か言いたげに口を開きかけたけれど、結局その言葉が発せられることはなかった。
けれど、公の場でこのやり取りに口を挟める者は、誰一人としていなかった。
私はそのまま踵を返し、大広間の出口へと向かって歩き出す。
一歩一歩が、ひどく長く感じられた。
背中に突き刺さる視線を感じながらも、決して足を止めることなく歩き続ける。
すれ違う貴族たちの間から、囁くような声がいくつも聞こえてきた。
「さすがに、あそこまで仰らなくても……」
「セラフィーナ様がお気の毒だわ」
その言葉に、少しだけ救われる思いがした。
一方で、別の一角からは、忍び笑いのような声も聞こえてくる。
「やっぱり、あの生意気さが災いしたのね」
「殿下もよく我慢なさっていたと思うわ」
好意と悪意、その両方に晒されながら、私はただ前を向いて歩き続けるしかなかった。
それでも、広間を出るまでの短い距離が、まるで永遠のように長く感じられた。
扉の外に出た瞬間、ようやく詰めていた息を吐き出す。
けれど、まだ泣くわけにはいかない。
迎えの馬車に乗り込むまでは、誰にも弱さを見せるわけにはいかなかった。
馬車の中に一人になると、ようやく張り詰めていた気持ちが緩む。
窓の外を流れていく王都の夜景を、私はぼんやりと眺めていた。
先ほどの光景が、まだ現実のことだとは信じられない。
十年近く婚約者として支えてきた相手から、あれほど一方的に切り捨てられるとは思いもしなかった。
十歳の頃、初めて顔を合わせた日のことを思い出す。
あの時の彼は、まだあどけなく、優しい笑顔を向けてくれていた。
いつの間に、あんなにも冷たい目で私を見るようになってしまったのだろう。
考えても、答えらしい答えは見つからなかった。
可愛いだけなら価値があった、という言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
これまでの努力は、彼にとって本当に何の意味もなかったのだろうか。
そう考えるだけで、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。
それでも、涙はまだ出てこなかった。
まるで、感情そのものが凍りついてしまったかのようだった。
屋敷に着くと、執事長が驚いた様子で出迎える。
「お嬢様、こんなに早くお戻りとは、何かございましたか」
私は静かに首を振った。
「少し、疲れてしまっただけよ」
「今日はもう休みます」
それだけ言い残し、私は自室へと足を向けた。
背後で、執事長が何か言いたげにしているのが分かったけれど、振り返る余裕はなかった。
自室の扉を閉めた瞬間、ようやく体の力が抜けていく。
その場に崩れるように座り込み、私はしばらくの間、何も考えられずにいた。
公爵家の娘として、これからどう振る舞うべきなのか。
婚約を破棄された令嬢として、周囲からどんな目で見られるのか。
様々な考えが頭を巡るけれど、どれも今の私には重すぎた。
誰も助けてくれる者などいないのではないかと、そんな弱気な考えさえ浮かんでくる。
それでも、こんな時に頼れる相手がいることを、私はまだ知らなかった。
しばらくして、扉を控えめに叩く音がした。
顔を上げると、そこに立っていたのは父だった。
すでに舞踏会での出来事を、誰かから聞き及んでいたのだろう。
いつもは厳格な表情を崩さない父が、今夜だけは痛ましそうな顔をしていた。
「セラフィーナ、大丈夫か」
その声を聞いた瞬間、抑えていた何かが崩れる。
「お父様……」
それ以上、言葉にならなかった。
父は静かに歩み寄り、私の肩にそっと手を置く。
「お前は何も間違っていない」
「胸を張っていなさい」
その言葉を聞いた途端、ようやく涙が溢れ出した。
これまでずっとこらえてきたものが、堰を切ったように流れ落ちていく。
父は何も言わず、ただ静かに背中をさすり続けてくれた。
どれくらいの時間、そうしていただろうか。
やがて涙が収まってくると、父は静かに口を開いた。
「今夜はもう休みなさい」
「明日のことは、また明日考えればいい」
父はそう言い残し、静かに部屋を出ていった。
一人残された部屋で、私は改めて自分の頬に触れる。
まだ涙の跡が残っていたけれど、不思議と気持ちは少しだけ軽くなっていた。
窓の外では、月が静かに夜空を照らしている。
その光を見つめながら、私はようやく小さく息をついた。
明日からは、婚約者ではない自分として生きていかなければならない。
その現実を、ゆっくりと受け止めていくしかなかった。
それでも、父の言葉が、これからの私を支えてくれる気がした。




