第二章 見た目の割に生意気
王城の一室で、私は慈善事業の予算案に目を通していた。
外はすでに秋も深まり、庭園の木々が色づき始めている。
来月に予定されている、貧困地区への支援活動のためのものだ。
アルドリック殿下自らが作成されたという書類だったが、目を通すほどに違和感が募っていく。
支出の内訳には、豪華な式典費用や、必要以上に贅沢な視察用の馬車代まで含まれている。
その一方で、肝心の食糧支援費は、明らかに少なすぎた。
このままでは、支援対象の地域に十分な食糧が行き渡らない。
私は帳簿を広げ、過去三年分の支援実績と照らし合わせながら計算を進めた。
数字は嘘をつかない。
このままの配分では、支援対象となる村のうち、少なくとも三つが冬を越せなくなる。
特に、東部の農村地帯は昨年の不作の影響がまだ残っている。
そこへの配分が、他の地域と一律に扱われていることも気になった。
何度見直しても、結論は変わらなかった。
先日の会議での殿下の反応が、頭の中に蘇る。
あの日以来、殿下は私と目を合わせることさえ少なくなっていた。
このまま黙っていれば、殿下との関係はさらにぎくしゃくするかもしれない。
けれど、村の人々の暮らしを思えば、それを理由に黙るわけにはいかなかった。
幼い頃、父に連れられて訪れた領地の村で見た光景を、今でも覚えている。
冬を越せずに苦しむ家族の姿を目にした時、まだ幼かった私は何もできなかった。
その悔しさが、今の私を突き動かしている一番の理由なのかもしれない。
だからこそ、この慈善事業だけは、絶対に失敗させたくなかった。
父からは、間違いに気づいた時こそ声を上げるべきだと、繰り返し教えられてきた。
たとえ煙たがられても、伝えるべきことは伝える。
それが、公爵家の娘として学んできた在り方だった。
侍女を通じて、殿下に少しお時間をいただけないかと伝える。
返事は意外にもすぐに届いた。
執務室へ向かう廊下を歩きながら、私は胸の内で何度も言葉を整理する。
どう伝えれば、殿下の気分を害さずに済むだろうか。
けれど、どれほど言葉を選んでも、事実は変わらない。
結局は、誠実に数字を示すしかないのだと、自分に言い聞かせた。
夕刻、人払いをされた執務室で、私はアルドリック殿下と二人きりで向き合うことになった。
窓の外はすでに茜色に染まり、部屋の中には長い影が伸びている。
机の上に積まれた書類の山が、殿下の忙しさを物語っていた。
「殿下、お忙しいところ恐れ入ります」
「少々、お時間をいただけますでしょうか」
殿下は書類から顔を上げ、面倒くさそうな表情を隠しもしなかった。
「何の用だ」
私は静かに予算案を差し出した。
「先ほどの慈善事業の予算案について、いくつか気になる点がございました」
殿下は眉をひそめながら、私が示した書類に目を落とす。
その反応を見ながら、私は言葉を続けた。
「このままでは、来月には食料が不足いたします」
「こちらをご覧ください」
私は持参していた代替案を彼の前に広げた。
式典費用を三割削減し、その分をそのまま食糧支援費に回すという内容だ。
支援を受けられる人数は、現行案のおよそ二倍に増える計算になる。
数字を示しながら、私は淡々と説明を続けた。
「式典の規模を少し抑えれば、これだけの差が生まれます」
「支援を受けられる方の数も、大きく増やすことができます」
誰が見ても、この案の方が優れていることは明らかなはずだった。
けれど、殿下の表情はみるみる険しくなっていく。
資料を握る指先に、力がこもるのが見えた。
「君はいつも、そうやって私のやり方に口を出す」
私は驚いて顔を上げる。
「そんなつもりでは……」
「その見た目で、また私に説教をするのか」
「その幼い顔で私に指図する姿が、どれほど見苦しいか分かるか」
「男に媚びるような甘えた幼い声で説教をされるこちらのことも考えてくれ」
私は言葉を返せなかった。
胸の奥が、すっと冷えていくのが分かる。
それでも、伝えなければならないことがある。
「殿下、私はただ、支援を受ける方々のために……」
「もういい」
殿下は書類を乱暴に机へ放り投げた。
その音に、私の肩が小さく震える。
「女性は男を立てるものだ」
「特にお前のような見た目で口出しをするなど本来許されることではない」
「お前は、いつもそれを忘れる」
その言葉が、胸の奥に鋭く突き刺さる。
私は何も言い返せないまま、ただ立ち尽くしていた。
それでも、支援を待つ人々の顔が頭を過ぎり、私は勇気を振り絞った。
「殿下、これは殿下を否定するためではございません」
「ただ、少しでも多くの方を救いたいだけなのです」
殿下は苛立たしげに前髪をかき上げる。
「そうやって、いつも自分の方が正しいと言いたいのだろう」
「私にはできないとでも思っているのか」
「そのようなことは、決して……」
「東部の三つの村は、昨年の不作からまだ立ち直れておりません」
「このままの配分では、冬を越せない世帯が出てしまいます」
言葉を続けようとした私を、殿下は鋭く遮った。
「もういい」
「可愛いだけだったのなら、良かったものを」
その一言が、これまで積み重ねてきた努力の全てを、否定されたように感じさせた。
私は俯いたまま、震える声を必死に抑える。
「……申し訳ございませんでした」
それだけを言い残し、私は執務室を辞した。
廊下を歩く足取りは、いつもより重く感じられる。
その途中、扉の外で控えていた近衛の会話が、小さく耳に入ってきた。
「また公爵令嬢が、殿下に何か進言されたようだな」
「見た目に似合わず、随分と強気な方だ」
彼らに悪意はないのかもしれない。
それでも、その言葉は今の私には重く響いた。
涙をこらえながら、何とか屋敷までの馬車に乗り込んだ。
馬車の中で、私は窓の外を眺めながら、今日の出来事を何度も反芻していた。
先日の会議では、あれほど誇らしく感じられたのに、今日はまるで正反対だ。
同じように正しいことを伝えたつもりなのに、結果はこんなにも違う。
その差が何なのか、うまく言葉にできないまま、屋敷への道のりは過ぎていった。
屋敷に着くと、執事長が心配そうな顔で出迎えてくれた。
「お嬢様、何かございましたか」
「顔色が優れないようですが」
私は精一杯、笑顔を作ってみせる。
「少し疲れただけです」
「ご心配なく」
「旦那様をお呼びいたしましょうか」
「いいえ、大丈夫よ。今日はもう休むから」
けれど、執事長の目は誤魔化せなかったのかもしれない。
彼は深くは尋ねず、静かに一礼して下がっていった。
その気遣いが、かえって胸に染みる。
自室に戻り、扉を閉めた瞬間、張り詰めていた何かが崩れていく。
ベッドに腰を下ろすと、こらえていた涙が一気に溢れ出した。
これまで、どれほど心無い言葉を向けられても、涙を見せることはなかった。
けれど今夜だけは、抑えることができなかった。
可愛いだけなら良かった、という言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
努力してきたことは、彼にとって邪魔でしかなかったのだろうか。
正しいことを伝えようとするたびに、なぜこんなにも傷つかなければならないのだろう。
分からないまま、ただ涙だけが頬を伝っていった。
ふと、机の引き出しの奥にしまってある小さな髪飾りが目に留まる。
婚約が決まったばかりの頃、殿下が照れながら贈ってくれたものだった。
あの日、彼はこう言ってくれた。
「これは君に似合うと思って選んだんだ」
「気に入ってもらえると嬉しい」
あの頃はまだ、二人で笑い合える時間があったように思う。
髪飾りを手のひらに乗せ、私はしばらくの間、静かにそれを見つめていた。
いつから、こんなにもすれ違うようになってしまったのだろう。
考えても、答えは出てこなかった。
窓の外には、静かな夜が広がっている。
月明かりが、涙で滲んだ視界の中で揺らめいて見えた。
それでも、朝が来れば、また日常が続いていく。
公爵家の娘としての務めを、投げ出すわけにはいかない。
しばらくして、ようやく涙が収まってくる。
私は袖で目元をぬぐい、深く息を吐いた。
今日のことは、きっと殿下も苛立っていただけなのだと、自分に言い聞かせようとする。
けれど、心のどこかで、その言い聞かせが虚しいことにも気づいていた。
机に向かい、便箋を一枚取り出す。
父に今日の出来事を伝えようかと、ペンを手に取った。
けれど、書き始めてすぐに手が止まる。
心配をかけるだけで、何も解決しないだろう。
私は結局、便箋を静かに引き出しへしまい込んだ。
誰にも頼らず、自分の力で乗り越えるしかない。
そう自分に言い聞かせて、蝋燭の火を吹き消した。
翌朝、目を覚ますと、鏡には少し腫れた目をした自分が映っていた。
それでも、身支度を整え、いつも通りの表情を作る。
弱っている姿を、誰かに見せるわけにはいかない。
たとえ胸の痛みが消えなくても、やるべきことは変わらないのだから。
登城すると、廊下の向こうから殿下が歩いてくるのが見えた。
思わず足が止まりそうになるのを、なんとかこらえる。
すれ違いざま、軽く一礼をしたけれど、殿下は目も合わせず通り過ぎていった。
その背中を見送りながら、昨夜の言葉が再び胸に蘇る。
それでも、私は表情を崩さないまま、与えられた仕事に向き合い続けた。
執務室では、侍女が淹れてくれた紅茶が静かに湯気を立てていた。
「お嬢様、少しはお休みになれましたか」
「ええ、ありがとう。もう大丈夫よ」
心配そうな侍女に、私はできるだけ穏やかな声で答える。
弱さを見せることに慣れていない自分に、今更ながら気づかされた。
それでも、誰かに寄りかかることは、まだ自分に許せそうになかった。
窓辺に立ち、遠くに広がる王都の景色を眺める。
昨日の予算案は、結局そのまま殿下の名で提出されるのだろうか。
それとも、少しは考え直してくださるのだろうか。
答えの出ない問いを抱えながら、私はただ、自分にできることを続けるしかなかった。
その日の午後、廊下で老宰相とすれ違った。
彼は足を止め、私に向かって静かに頭を下げる。
「セラフィーナ嬢、先日の会議での提言、感謝しております」
「あなたのような方が、この国にはもっと必要だ」
思いがけない言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなる。
「もったいないお言葉です」
「私にできることでしたら、これからも力を尽くします」
老宰相は柔らかく微笑み、そのまま去っていった。
その背中を見送りながら、私はふと思う。
誰もが殿下と同じように見ているわけではない。
そう気づけたことだけが、今日の小さな救いだった。
それでも、老宰相の優しさだけでは、殿下との溝を埋めることはできない。
このままいけば、いつか取り返しのつかない亀裂になるかもしれない。
そんな漠然とした不安が、胸の奥に静かに沈んでいく。
それでも今は、目の前の仕事を一つずつこなしていくしかなかった。
それでも、婚約者である殿下との溝は、確かに深まりつつある。
このまま同じことが続けば、いつか本当に立ち行かなくなる。
そんな予感だけが、静かに胸の中に残り続けていた。




