最終章 可愛いだけじゃない
あれから一年が過ぎた。
私は皇太子妃として、忙しくも充実した日々を送っている。
経済改革はさらに進み、皇国はここ数十年で最も豊かな時代を迎えていた。
商業都市の発展はもちろん、地方の村々にも、着実に恩恵が行き渡っている。
かつて訪れた織物屋も、今ではすっかり繁盛していると聞いた。
南部の農地も、干ばつ対策のおかげで、安定した収穫を続けているという。
振り返れば、様々な出来事があった一年だった。
今日も、私は執務室で書類に向かっていた。
積み上げられた資料に目を通し、次々と決裁の判を押していく。
新しい交易路の整備計画、来年度の予算案、各地からの陳情書。
妃としての務めも増え、一人で抱える仕事は以前よりも多くなっていた。
気づけば、日はすっかり傾いていた。
「少し、休んでください」
不意に声をかけられ、顔を上げると、殿下が紅茶を運んできてくれていた。
「あと少しだけです」
そう言って書類に手を伸ばそうとする私に、殿下は静かに首を振る。
「駄目です」
そう言うと、殿下は私の手から、そっと書類を取り上げて閉じてしまった。
有無を言わせないその仕草に、私は思わず苦笑してしまう。
「殿下……」
「仕事も、大切です」
「でも」
「君自身は、もっと大切です」
そう言って、殿下は優しく私の額に口づけを落とす。
一年経った今でも、こうした不意打ちには、いまだに慣れることができない。
「君は、頑張り過ぎるから」
その言葉に、私は思わず笑ってしまった。
けれど同時に、これまでの日々が、次々と胸の中を巡っていく。
「昔は」
「可愛いだけと言われるのが、嫌でした」
殿下は静かに耳を傾けてくれる。
王国にいた頃の記憶、婚約破棄されたあの夜、隣国へ渡ってからの日々。
様々な出来事が、走馬灯のように蘇っていった。
「今は?」
その問いに、私はしばらく考えてから、素直な思いを言葉にした。
「可愛いと言われるのも、嬉しいです」
「能力を認めていただけるのも、嬉しいです」
「全部ひっくるめて、私なんだと思えるようになりました」
殿下は柔らかく目を細め、優しく頷いた。
「その通りです」
窓の外では、夕日に照らされた街並みが、穏やかな輝きを放っていた。
行き交う人々の顔には、笑顔が絶えない。
その光景を眺めながら、私は静かに、これまでの日々を振り返っていた。
あの日、婚約破棄されたことは、確かに辛かった。
「可愛いだけなら価値があった」という言葉は、今でも時折、胸の奥に小さく疼くことがある。
けれど、あの日があったからこそ、今この場所に辿り着けたのだと思う。
王国を離れ、見知らぬ土地で一から始めた日々。
市場での視察、経済会議での挑戦、そして庭園で流した救われた涙。
そのどれもが、今の私を形作ってくれた大切な記憶だった。
私は、本当の意味で自分を大切にしてくれる人と、出会うことができた。
可愛らしさも、努力も、弱さも、全てをそのまま受け止めてくれる人と。
殿下が、そっと私の手を握ってくれる。
「帰りましょう」
「はい」
私たちは寄り添いながら、静かに執務室を後にした。
廊下の窓からも、同じ夕日が差し込んでくる。
これから先も、きっと忙しい日々は続くのだろう。
それでも、隣に殿下がいてくれるのなら、どんな困難も乗り越えていける。
そんな確かな安心感を胸に抱きながら、私は一歩ずつ、彼と歩調を合わせて歩いていった。
夕日が、二人の背中を優しく照らしていた。




