第十一章 失ってから気付いても
隣国で経済顧問となってから、半年が過ぎようとしていた。
振り返れば、あっという間の日々だったように思う。
南部の干ばつ対策は無事に完了し、商業都市の税収は二割ほど増加した。
貴族と商人の間で燻っていた不和も、少しずつ和らぎつつある。
流通制度の改革も軌道に乗り、各地の商会から感謝の声が届くことも珍しくなくなっていた。
先日視察した織物屋の店主からは、わざわざ礼状まで届いたほどだ。
自分の提案が形になり、実際に人々の暮らしを支えていることを実感できる毎日は、何にも代えがたいものだった。
王国にいた頃には想像もできなかった充実感が、今の私を支えている。
そんなある日、廊下で擦れ違った文官たちの会話が、ふと耳に入ってきた。
「蒼の皇国を支える、桃色の才女様がお通りだ」
「本当に、皆がそう呼んでいますね」
思いがけない呼び名に、私は驚いて足を止めてしまう。
どうやら、この半年の働きが評判となり、いつの間にかそんな呼び名がついていたらしい。
気恥ずかしさを感じつつも、悪い気はしなかった。
王国にいた頃には、決して得られなかった評価だ。
その話を耳にした殿下は、後になって嬉しそうに教えてくれた。
「その呼び名、なかなか的を射ていると思いませんか」
「私は、とても気に入っています」
からかうような口調に、私は思わず頬を赤らめてしまう。
「殿下まで、そのようなことを仰らないでください」
殿下は楽しそうに笑うだけで、それ以上は何も言わなかった。
その日の夕方、王国の父から久しぶりに手紙が届いた。
「セラフィーナへ」
「こちらでは、いよいよ事態が動き出しそうだ」
手紙には、王国内の様子が詳しく綴られている。
地方の領主たちの間で、アルドリック殿下への不満が、公然と語られるようになっているという。
「セラフィーナ様を追い出したのは、一体誰なのだ」
「あの方がおられた頃の方が、よほど政治は安定していた」
「今の殿下では、到底任せられぬ」
そうした声が、あちこちの領地から国王陛下のもとへ届いているらしい。
父の手紙からは、王国内の空気が、これまで以上に張り詰めていることが伝わってきた。
「ついに陛下も、決断を下されたそうだ」
「隣国へ、正式な使者を送ることになったらしい」
その一文を読み、私は少し身を乗り出した。
外交上の使者であれば、珍しいことではない。
けれど、父の手紙はさらに続いていた。
「表向きは外交とのことだが、本当の狙いは別にあるようだ」
「お前を、王国へ呼び戻すことが目的らしい」
その言葉に、私は思わず息を呑んだ。
今の私には、もうこの国での役割がある。
簡単に戻れるはずもないと分かっていながらも、胸の奥がざわつくのを抑えられなかった。
手紙の最後には、使者の名が記されていた。
「その使者に選ばれたのは、皮肉にも」
「アルドリック殿下、本人だそうだ」
その一文を読んだ瞬間、私の手は小さく震えた。
まさか、彼自身がこの国を訪れることになるとは、想像もしていなかった。
婚約破棄されたあの夜以来、一度も顔を合わせていない相手だ。
どんな顔で会えばいいのか、正直なところ見当もつかなかった。
あの舞踏会での出来事は、今でも鮮明に覚えている。
「可愛いだけなら価値があった」という言葉は、いまだに胸のどこかに小さな傷として残っていた。
それでも今の私は、あの頃とは違う場所で、違う自分として生きている。
彼と再び顔を合わせたところで、もう昔のように傷つくことはないはずだ。
そう自分に言い聞かせながらも、心のどこかには、まだ整理しきれない感情が渦巻いていた。
手紙を静かに封筒へ戻し、私は椅子に深く腰掛ける。
その様子を見ていたのか、夕食の席で殿下がそっと声をかけてきた。
「何か、気がかりなことでも」
私は少し迷いながらも、正直に打ち明けることにした。
「王国から、使者が訪れることになったそうです」
「その使者が、かつての婚約者だと知り、少し動揺してしまって」
殿下は静かに耳を傾けた後、穏やかな声で答えてくれた。
「あなたが望まないのであれば、面会を断ることもできます」
「無理をする必要は、どこにもありません」
その気遣いに、胸の奥が温かくなる。
「ありがとうございます」
「けれど、いつかは向き合わなければならないことだと思います」
「今の自分を、きちんと見せておきたいという気持ちもあるのです」
殿下は少し驚いた様子を見せた後、優しく微笑んだ。
「その強さこそ、あなたらしいですね」
「何かあれば、いつでも側にいます」
その言葉に背中を押されるように、私は静かに頷いた。
窓の外に目を向けると、いつもと変わらない隣国の空が広がっている。
それでも、心の中だけは、これまでとは違う小さな波が立ち始めていた。
使者としてこの国を訪れる彼が、一体どんな言葉を携えてくるのか。
その答えは、まだ誰にも分からなかった。




