表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『ネオ東京・ミステリ』  作者: D


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/5

第四話:ナノマシンの晩餐会1

地上三千メートル、成層圏の入り口に浮かぶ超高度浮遊建築『ルナ・テラス』。


重力制御によって微動だにしないそのフロアは、全面が強化クリスタルで構成され、足元にはネオ・トウキョウの光の海が、まるで電子回路の基板のように広がっている。


「……マダム。この首を絞めるだけの布切れ(タイ)に、三千クレジットの価値があるとは思えない。僕の頸動脈の血流が停滞し、演算能力がコンマ二秒低下している。これは死活問題だ」


阿久津シンは不機嫌そうにタキシードの襟を正した。

隣では、マダム・エメラルドが、何十万ナノマシンもの光ファイバーを織り込んだドレスを光らせて、扇子を仰いでいる。


「阿久津様、今夜は特別なんですのよ。主催者のイライザ様は、この街の美の基準を書き換えたと言われる御方。彼女の主催するパーティに招かれるのは、ネオ・トウキョウの頂点に立った証ですわ!」


「頂点ね。……気圧が低い分、頭の回転が止まった連中が集まるには最適な場所だ」


阿久津はスマート・グラスを生体ノイズ・スキャンに切り替えた。

会場を彩るセレブたちの肌は、どれも不自然なほど滑らかだ。

それは、全身を巡る最新の美容ナノマシン『ミダス』が、細胞の老化をリアルタイムで修復し続けているからだ。


だが、シンの視界には、その完璧な肌の下で、数億の極小機械が放つ微かな熱源反応が、不気味な陽炎のように映し出されていた。


今回の依頼は、主催者イライザに届いた一通の奇妙なメッセージの調査。



――『今夜、あなたの細胞は、偽物の夢を見る』。



パーティが中盤に差し掛かった頃、それは静かに始まった。

会場の中央でスピーチをしていたイライザが、ふと、自分の右手を見つめたまま固まったのだ。


「……? 私の、指が……」


彼女の声は、どこか金属的な響きを帯びていた。

阿久津がグラスの倍率を上げると、驚愕の光景が映し出された。

彼女の指先から、陶器のような肌色が剥がれ落ち、中から鈍く輝く純金が露出していたのだ。

それはメッキではない。

彼女の細胞組織そのものが、内側から分子構造を組み替えられ、金へと変貌していた。


「きゃあああああっ!」


悲鳴を上げたのは隣の伯爵だった。

彼が手にしていたシャンパングラスが、指をすり抜けて床に落ちた。


いや、すり抜けたのではない。


彼の指が、一瞬だけ砂のようにサラサラと崩れ、再び固まったのだ。

その色は、冷徹なまでの黄金色。


「阿久津様! あ、あの方たちの顔が、仏像のように固まっていきますわ! 私の顎も、なんだか急に重厚な手応えが……!」

「動くな、マダム! 体内のナノマシンを刺激するな!」


阿久津はマダムの腕を掴み、背後の壁際へと押しやった。

会場の出口は、すでに電子的なロックがかかっている。

窓の外は三千メートルの虚空。

ここは今、世界で最も贅沢な、そして最も重い密室へと変貌した。


「パニックになるな! 全員、呼吸を整えろ!」


シンの声が会場に響くが、セレブたちの恐怖は止まらない。

恐怖で心拍数が上がれば上がるほど、血流に乗ったナノマシンは活性化し、変換速度を速めていく。

一人、また一人と、生きた人間たちが美しい「黄金の彫像」へと姿を変えていく。

阿久津は一人、静かにスマート・グラスの接続先を会場のメインフレームへと向けた。


「……なるほど。これはハッキングじゃない。……アップデートだ」


「アップデートですって?」


マダムが震える声で聞く。


「犯人は、美容ナノマシンの管理サーバーを乗っ取ったんじゃない。……ナノマシンが本来持っている物質変換プログラムの制限解除コードを送り込んだんだ。ミダスは元々、細胞を修復するために原子を組み替える機能を持っている。その機能を暴走させ、炭素を金に変えるように指示を出した」


「そんなこと、誰が……」


「……決まっているだろう」


阿久津が虚空のパネルをスワイプすると、会場の大型ホログラムに、一人の給仕アンドロイドの視界が投影された。その中心に映っているのは、グラスの亀裂をなぞる、シンの姿だ。


「『観測されるまで、真実は不確定』……。君の好きな言葉だね、阿久津シン」


スピーカーから流れてきたのは、以前の事件でも聞いた、あの歪んだ合成音声。



『Q』だ。



「Q。君の錬金術は、あまりに古臭い。人間を金に変えて、何が楽しい?」

「楽しい? いや、これは実験だよ。人間という不安定なデータを、金という不変の記録媒体に保存したとき、その魂はどうなるのか。……さあ、阿久津。君の脳が金に変わる前に、この等式を解いてごらん」


会場の酸素濃度が下がり始めた。

ナノマシンが空気中の成分までも取り込み、変換を加速させている。

シンの視界も、端の方から徐々に黄金のノイズに侵食され始めた。


「……マダム、あそこにある『超低温保存の液体窒素・アイスサーバー』を、会場の主排気口に向けて投げろ」

「ええい、もうヤケクソですわ! 私の二の腕の筋肉を見なさい!」


マダムが放り投げたサーバーが排気口で粉砕され、極低温の白煙が会場を覆う。

だが、変換は止まらない。


「阿久津様、止まりませんわ! むしろプラチナ色になって加速してますわよ!」

「……そうか。マイナス温度への移行さえも、予備の起動トリガーに設定していたのか。……Q、君は僕が『逆転のパッチ』を打つのを待っているんだな?」


阿久津シンは、震える指で空中にキーボードを展開した。

彼の脳内では、数万行のコードが超高速でスクロールしている。

この暴走を止めるには、ナノマシンの核となるマスター制御コードを書き換えるしかない。

だが、そのコードを送信すれば、シンのスマート・グラスを通じて、彼の脳と管理サーバーが直結してしまう。


「……僕の脳を、君のシステムに招待しようっていうのか。……いいだろう、乗ってやるよ」


シンは、あえて自分自身のナノマシン・ブロックを解除し、サーバーの深淵へと意識をダイブさせた。

視界から色が消え、0と1の奔流が押し寄せる。

その中心に、巨大な「瞳の形をした数式」が浮かんでいた。

阿久津は、その数式の一箇所を、指先で弾くように書き換えた。



――『金』ではなく、『氷』へ。



「……っ、はぁ……っ!」


シンが現実世界に意識を引き戻したとき、会場は静まり返っていた。

イライザの腕や、マダムの顎を覆っていた黄金の輝きは消え、代わりに微かな霜が降りていた。

ナノマシンが変換先を一時的な氷の結晶へと変更され、熱を失って機能を停止したのだ。


「……助かった……んですの?」

「ああ。……だが、不愉快な結末だ」


阿久津は、割れたスマート・グラスを床に捨てた。

彼の左目の奥には、消えない「Q」の紋章が、小さな残像として焼き付いている。


「……阿久津様、お顔が真っ青ですわよ。ショコラ、食べます?」


マダムが差し出した限定版・火星ショコラを、シンは黙って受け取った。

箱を開けると、そこには一通の小さなカードが添えられていた。



――『僕の脳の一部を、君に共有した。これで僕たちは、同じ景色を観測できる。――Q』



「……共有だと? ふざけるな」


阿久津はショコラを噛み砕いた。

その甘みは、今の彼には、血の味よりも残酷に感じられた。


彼の網膜には今、ルナ・テラスの美しい夜景の裏側に、この街の全住民が、一つの巨大な回路として繋がれた未来の設計図が、消えないオーバーレイとして映し出されている。


「……僕を、君の共犯者にするつもりか。……面白い。なら、その設計図ごと、君をデバッグしてやるよ」


シンは一人、雲上のテラスで夜風に吹かれながら、自分の左目を強く押さえた。

彼の中で、何かが確実に変わり始めていた。最強の頭脳が、世界の真実という名の病に侵食され始めたのだ。



左目の奥が、脈打つように熱い。



「……計算外だ。人間の脳というハードウェアが、これほどノイズに対して脆弱だったとはな。ミナの事務所の『最高級カカオ』を、あの時あと二リットル多く摂取しておくべきだった」


ネオ・トウキョウの最下層にある隠れ家。


阿久津シンは、ディスプレイの前に座ることすらできず、冷たいフロアに寝転がっていた。

スマート・グラスは外している。それなのに、彼の視界は二つに割れていた。

右目は、いつも通りの薄暗い自室の天井を捉えている。


ホコリの積んだサーバーラック、ひっくり返った空き缶。

しかし、Qに侵食された左目は、現実とは全く異なる光景を網膜に直接投影し続けていた。



――それは、美しく均一な、数式だけの世界。



部屋の壁も、天井も、すべてが「0」と「1」の緑色の文字列で構成され、その奥に、ネオ・トウキョウ全体のトラフィックが、巨大な神経網のように脈打って見える。


「阿久津様! 入りますわよ! ちょっと、いつまで寝ていますの、この怠け者探偵!」


防音ドアを派手に蹴破って入ってきたのは、マダム・エメラルドだ。

その瞬間、シンの左目が激しくエラーログを吐き出した。マダムの姿が、緑色のポリゴンデータに変換され、彼女の余命や資産価値といった非人道的な変数が、数式として脳内に直接流れ込んでくる。


「……入るなと言ったはずだ、マダム。今の僕の知能指数は、君の無駄話を処理できるほど安売りしていない」


シンは左目を手で覆い、苦渋の表情で起き上がった。


「何言ってますの。今日は、大変な事件ですのよ! あのバーチャル歌姫のリリィ様が、また……いえ、今度は街全体を巻き込んで、とんでもないことを!」


マダムが操作したポータブル端末から、街のライブ映像が空中に投影された。

それを見た瞬間、シンの右目も釘付けになった。


「……おい、これはどういうことだ」


ネオ・トウキョウの第一区。


超高層ビルが立ち並ぶ中心街の映像だが、何かが決定的に狂っていた。

走っていたはずのエア・カーが、空中でピタリと静止している。

排気口から出るはずの光の尾も、描かれた絵のように動かない。


歩道を歩いていた人々も、足を上げた姿勢のまま、彫像のように固まっている。

ホログラムの広告だけが、不気味に明滅を繰り返していた。


そこには、かつてシンが救い出したはずの歌姫、リリィの姿があった。

しかし、その瞳はいつもの輝きを失い、Qの紋章である「瞳の数式」へと書き換えられている。


「第一区の全システムがフリーズしましたの。AIドローンも、信号機も、人間の脳内チップも、すべてが一時停止。……まるで、世界がラグを起こしたみたいに」


『リリィが、世界を歌でデバッグしているよ、阿久津シン』


脳内に直接、あの歪んだ合成音声が響いた。左目の視界の中で、緑色の文字列が笑うように歪む。


「Q……。街を一つ、まるごと人質にしたか」

「解決料なら、私のとっておきの月面ウイスキーを出しますわ! だから早く、あの不気味な歌姫を止めて……」


マダムがシンの肩を掴もうとしたその時、シンは彼女の手を冷たく振り払った。


「断る。……今回の事件は、僕には解けない」

「え……?」


「僕の脳は、すでに奴のシステムと同期している。僕が事件を観測し、答えを出そうとすればするほど、奴のプログラムは僕の思考をトレースして、さらに完璧なバグを作り出す。……つまり、僕が動けば、世界はもっと壊れるんだよ」


シンは、デスクの上に置かれた私物をいくつかコートのポケットに押し込んだ。

そこには、あの凹んだ梅干しの缶詰も入っていた。


「……さらばだ、マダム。最強の頭脳の限界を、ここで見届けるといい」

「ちょっと、阿久津様!? どこへ行きますの!?」


マダムの制止を振り切り、シンは光とノイズがまだらに混ざり合う、ネオ・トウキョウの闇へと駆け出していった。


第一区へと向かうリニア・ダクトは、すでに機能を停止していた。

シンは、誰もいない暗黒の線路を、自分の足で走っていた。


「はぁ、はぁ……っ。歩くなんて、最高に非効率だ。……だが、効率を求めた結果が、あのフリーズした街だからな」


左目の視界が、激しく点滅する。


『諦めろ、シン。君の脳細胞の12パーセントは、すでに僕の領域だ。僕たちは二人で一つの神になるんだ』


「黙れ。……僕の脳を買い被るなよ、Q。僕の脳は、君の綺麗な数式を処理するには、少しばかり愚かなノイズが混ざりすぎている」


シンはポケットから梅干しの缶詰を取り出し、その硬い金属の角を、自分の左目の横に強く押し付けた。

ガリッ、と鈍い痛みが走る。皮膚が裂け、微かに赤い血が流れた。


「……つっ! ……ふん、やっぱりこれだ。痛覚だけは、君のシステムでも改ざんできない。……0と1の世界には、血の味なんてプログラムされていないだろう?」


痛みの刺激で、左目の緑色の視界が一瞬だけ、現実の暗闇へと引き戻される。

シンはニヤリと笑みを作った。

イケメン風のクールな表情は、今や血と汗で泥臭く汚れていたが、その瞳の奥にある知性は、かつてないほどに狂暴な輝きを放っていた。


「待っていろ、Q。リリィの歌を止めるんじゃない。……君のシステムそのものに、僕という名の『史上最悪のウイルス』を突き刺してやる」


第一区の出口が見えてくる。


地上に飛び出したシンの目に飛び込んできたのは、静止した時間の中で、不気味に歌い続ける巨大なリリィのホログラムと、その足元で、完全に「フリーズ」して動かない数万の人間たちの影だった。



世界の終わりを告げるような静寂の中で、阿久津シンは、自らの脳を賭けた最後のデバッグへと、足を進めるのだった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ