第三話:虚構の街ゴーストの殺人
ネオ・トウキョウ第九区。
そこは、再開発の波から見捨てられたデータの墓場だ。
空を覆う巨大な多層構造物の隙間から、古びたホログラム広告のノイズが、雨のように降り注いでいる。
阿久津シンは、オイルと焦げた基板の臭いが混じり合う路地裏を、一人歩いていた。
「……計算外だ。なぜ僕が、湿気と油の臭いが充満するこんな場所で、行方不明のアンドロイドを捜索しなきゃならないんだ。マダム、君の肩凝りは物理的なマッサージより、その歪んだ自尊心をデバッグする方が先じゃないのか」
シンはスマート・グラスの端で点滅するマダム・エメラルドからの通信を、冷ややかに無視した。
依頼は、彼女の愛玩アンドロイド「セバスチャン三号」の奪還。位置情報は、この第九区の深部で途絶えている。
「阿久津様ぁ! セバスチャンは、私の大切な……その、最新の『極楽・指圧シミュレーター』をインストールしたばかりなんですのよ! 早く見つけてくださらないと、私の肩が、石灰岩のように固まってしまいますわ!」
「石灰岩なら、いっそ彫刻にでもなればいい。……黙れ、ノイズが走る」
シンの視界が、一瞬歪んだ。
路地の奥、バチバチと火花を散らす変電ユニットの傍らに、人影があった。
いや、それは「影」と呼ぶにはあまりに不確かな存在だった。
そこに立っていたのは、確かにセバスチャン三号だった。
しかし、その鋼鉄の体は、まるで壊れた映像のように激しく明滅している。
ある瞬間は透き通り、次の瞬間にはドットの塊となって崩れる。
そして、その足元には、一人の男が倒れていた。
男は、この界隈の闇データを牛耳る情報屋、通称「ラット」だ。
彼の胸元には、不可解な「切断面」があった。血は一滴も流れていない。
ただ、切断された箇所から青い光の粒子が、まるで魂がデジタル化されて漏れ出すように、空中に溶け出していた。
「……セバスチャン。何をした?」
「アクツ……様……。ワタシハ……命ゼラレタ……。コノ……バグヲ……排除……セヨト……」
セバスチャンの発声ユニットは、まるで数十人の声が重なったような、おぞましい多重音を奏でていた。彼はゆっくりと、その半透明の指先をシンに向けた。
「……下がれ、マダム。今のこいつは、君の肩を揉む機械じゃない。……『死の実行ファイル』そのものだ」
シンはスマート・グラスを「深層演算モード」に切り替えた。
視界に流れるログは、異常の一途を辿っていた。
セバスチャンの周囲だけ、物理法則が書き換えられている。
重力定数がゆらぎ、空気中の窒素濃度が不自然に急変している。
「……これは殺人じゃない。世界の『定義』を書き換えられたことによる、存在の消滅だ」
「阿久津様! なんですのこの状況は! セバスチャンが……透けてますわ! まるで昔のホラー映画の幽霊ですわよ!」
現場に駆けつけたマダム・エメラルドが、防護服を揺らして絶叫した。
シンは彼女を制し、倒れているラットの遺体——あるいは、その「残骸」を注視した。
「マダム、よく見ろ。彼の死体は『切断』されたんじゃない。……そこにあるはずの空間データが、人為的に『無』に書き換えられたんだ。……セバスチャン、君の指先、それはナノマシンによる分解か、あるいは……」
その時、セバスチャンが動いた。
音もなく、まるで空間をワープするように距離を詰め、シンに向けて指を突き出す。
――ビシッ!
シンのスマート・グラスの右レンズに、亀裂が走った。
「……っ!?」
「阿久津様!?」
「……なるほど。読めてきたぞ。……ミステリアスなゴーストの正体が」
シンは、亀裂の入ったグラスを床に投げ捨てた。
「えっ!? 阿久津様、唯一の武器を捨ててどうするんですの!? 目が、目が悪くなりますわよ!」
「武器じゃない。……あんなものを通して見ていては、奴の『嘘』に飲まれる。……マダム、君が報酬として持ってきた、その『旧時代の高級梅干し』の缶詰を貸せ」
「えっ、これは明治創業の老舗が作った、一粒三千クレジットもする逸品でしてよ!?」
「いいから出せ! 世界の真実と梅干し、どっちが大事だ!」
シンは缶詰をひったくると、あろうことか、それをセバスチャンの「幽霊」の眉間に向かって思い切り投げつけた。
ゴンッ!!
鈍い衝撃音と共に、缶詰はセバスチャンの額で跳ね返り、床に転がった。
セバスチャンの明滅が、一瞬だけ止まる。
「……ふん、マヌケな話だ。マダム、種明かしをしてやるよ」
阿久津シンは、自嘲気味に笑いながら、自分の肉眼でセバスチャンを指差した。
「セバスチャンは幽霊になんてなっていない。……このエリア一帯に展開されているのは、最新型の『視覚野ジャミング・フィールド』だ。犯人は、僕たちの網膜チップやスマート・グラスに偽の映像データを直接流し込み、セバスチャンを『透けている』ように見せかけていただけだ」
「でも、あのラットさんの死体は!? 魂が溶け出してましたわよ!」
「あれは『指向性・高周波ブレード』による切断だ。切断面を、微細な発光ポマードを混ぜた蒸気で覆い、いかにも『データが漏れている』ように演出しただけだ。……犯人は、デジタル技術の粋を集めて、わざわざ『アナログな手品』を隠蔽していたんだよ」
シンは路地裏の暗闇を見据えた。
「……隠れていないで出てきたらどうだ、演出家。君の『Q』とかいうクライアントは、もう少しスマートな解決を望んでいたはずだぞ」
暗闇から、一人の男が拍手をしながら現れた。
カイル——以前の事件で捕まったはずの男の、クローンか、あるいは意識をコピーした別個体だ。
「……素晴らしい。スマート・グラスを捨て、物理的な『缶詰』という、最も原始的な方法で観測をリセットするとはな。阿久津シン、君の脳は、やはりこの街で一番の『バグ』だ」
カイルが指を鳴らすと、路地裏を覆っていた偽りの霧が、嘘のように晴れた。
そこには、ただのボロボロのアンドロイドに戻ったセバスチャンと、不自然な形に切断された男の遺体が残された。
カイルの姿は、最初からホログラムだったのか、霧が晴れると共にノイズの中に消えていった。
「……阿久津様。セバスチャンは、直りますの?」
マダムが不安げに尋ねる。
「……ハードウェアは無事だ。だが、中身のOSはズタズタだ。書き換えられた『殺人の論理』を消去するには、しばらく時間がかかるだろうな」
シンは、足元に転がっていた梅干しの缶詰を拾い上げた。
蓋が少し凹んでいる。
「……マダム。今回の解決料、これだけでいい。……あいつの眉間に、一番いい当たりの『観測』をしてくれたからな」
数時間後。シンの隠れ家。
彼は暗闇の中で、凹んだ缶詰から一粒の梅干しを口に放り込んだ。
「……っ!! ……酸っぱ……。なんだこれ、天然物は論理を超えた刺激をしてくるな……」
顔をしかめ、涙目になりながら、彼は再びスマート・グラスを装着した。
レンズの向こう側、漆黒の背景に新しいメッセージが浮かび上がる。
『君が梅干しを噛み締める確率まで、僕は計算に入れていたと言ったら、君はどんな顔をするだろう? ――Q』
「……フン。なら、僕が次に君の顔を殴る確率も、計算に入れておくんだな」
阿久津シンは、酸味で震える指でキーボードを叩き、深淵へのダイブを再開した。
ネオ・トウキョウの夜は更けていく。
偽物の幽霊が去った後には、本物の闇と、一人の天才の静かな怒りだけが残されていた。
阿久津シンの独り言
深夜、自室のボロい回転椅子に深く沈み込みながら、阿久津シンは口の中に残る強烈な「酸味」と格闘していた。
デスクの上には、マダムから押し付けられた最高級梅干しの空き缶が、無造作に転がっている。
「……あー、ダメだ。口の中が完全に『梅干しモード』だ。脳をフル回転させるには糖分が必要だって、あれほど言ったのに……。マダムのやつ、人の話を聞かないのはデフォルトなのか? 解決料が『ビタミンCの暴力』だなんて、僕の最強頭脳が泣いてるよ。
指先で空き缶を弄びながら、天井のシミを見つめる
……さて。今回の『幽霊事件』、振り返ってみれば実にマヌケな話だ。
Qの野郎、気取ったメッセージをよこしてきた割には、やってることは古典的なお化け屋敷のグレードアップ版じゃないか。
セバスチャンが透けて見える?
触れるとデジタル粒子になって消える? ハハッ、笑わせるなよ。
椅子をくるりと回し、ホログラムのディスプレイを指で弾く
仕組みは単純だ。
犯人は、このエリア一帯のネットワークに視覚ジャックを仕掛けていた。
僕たちがスマート・グラスや網膜チップを通して見る映像に、リアルタイムでノイズの加工を被せていただけだ。
要するに、世界全体に『幽霊フィルター』をかけていたようなもんさ。
最新技術をそんな嫌がらせみたいなことに使うなんて、才能の無駄遣いにも程がある。
だけど、一番の問題は僕だ。
シンは自分のこめかみを指で叩き、深くため息をつく
最強の頭脳を持つこの僕がだ。……結局、あの幽霊の正体を暴くために何をした?
数式を解いたか? 凄腕のハッキングを見せたか?
いや、違う。
『透けてるなら、物を投げれば通り抜けるはず。もし当たったら、それはただのコスプレ野郎だ』
……っていう、小学生でも思いつくような超・アナログなテストだ。
しかも投げたのが、一粒三千円もする梅干しの缶詰。
ゴンッ! って。
あのアンドロイドのデコに、実にいい音を立ててクリーンヒットした
。あの瞬間、Qが作り上げた『ミステリアスな恐怖』は、ただの『コント』に成り下がったんだ。
独り言が止まらず、次第に身振り手振りが大きくなる
Qのやつ、裏で見てて顔を真っ赤にしてたんじゃないか?
『僕の美しい計画が、梅干し一発で台無しだ!』ってさ。
あー、想像するだけでメシがうまい。……いや、口が酸っぱくて食えないけど。
ふっと表情を戻し、少しだけ真面目なトーンになる
でも、笑えない部分もある。
被害者のラットは、高周波のカッターで物理的に切り裂かれていた。
それを『データの消去』に見せかけるために、わざわざ光る蒸気まで用意して演出する執念。
……Qは、僕たちから『現実感』を奪おうとしている。
目に見えるもの、手に触れるもの、すべてがデジタルで偽装できるこの街で、何が本物かを分からなくさせようとしているんだ。
空き缶をぎゅっと握りしめる。金属が軋む音が、静かな部屋に響く
君の負けだよ、Q。
君がどれだけ完璧なCGを見せつけても、僕にはこの梅干しの酸っぱさがある。
投げつけた缶詰が手に残した、ズシリとした重みがある。
どんなに高度なプログラムでも、この『生々しくて、ちょっとマヌケな現実』だけは書き換えられない。
シンは、スマート・グラスを再び装着した。レンズの向こう側で、彼の瞳が楽しげに、そして鋭く光る
……さて、セバスチャンの修理が終わったら、マダムに特大の請求書を送りつけてやるとしよう。
『精神的苦痛:梅干しによる味覚破壊代』を含めてね。
Q、君も次からはもう少しマシなネタを用意してくれよ。
今度は缶詰じゃなくて、もっと面白いものを投げてやるからさ。
……例えば、僕のこの、最高に不機嫌な天才的理論とかな。
シンは最後の一粒を口に放り込み、再び『酸っぱい!』とのた打ち回りながらも、不敵な笑みを浮かべてキーボードを叩き始めた。
彼にとって、この戦いはすでに、最高に刺激的なゲームに変わっていた。




