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『ネオ東京・ミステリ』  作者: D


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第二話:浮遊する歌姫と凍りついたノイズ

ネオ・トウキョウの最下層、廃番となったサーバーの排熱が陽炎のように揺れる裏通り。

阿久津シンの隠れ家には、常に微かな電子のハム音が漂っている。

真夜中の午前二時。防音ドアの隙間から、凍てつくような冷気と共に一人の女が滑り込んできた。


「……阿久津シン様。この街の『バグ』を掃除してくれるというのは、本当ですか?」


女の名はミナ。

この街で最も光り輝く象徴、バーチャル・シンガー『リリィ』を管理するトップ・プロデューサーだ。

しかし、今の彼女にその華やかさはない。瞳は充血し、指先は小刻みに震えている。

阿久津はホログラムの海からゆっくりと顔を上げた。

スマート・グラスの奥、冷徹なまでの知性を湛えた瞳が彼女を射抜く。


「掃除屋と一緒にしないでくれ。僕はただ、解けない数式が嫌いなだけだ。……それで? 三万人の観客が待つドーム・スタジアムで、君たちの『神様』が蒸発したそうじゃないか」


「……どうしてそれを。まだ公式発表前です」

「観測すればわかる。スタジアム周辺のトラフィックが異常に増大し、運営側の通信プロトコルには『コード・レッド』が乱舞している。……そして何より、君の服に付着しているその銀色の粒子。リリィの投影用ナノマシン……通称『天使の塵』だ。それが服に付いているということは、君は消滅の瞬間に立ち会った。違うか?」


阿久津は立ち上がり、椅子に掛けていた漆黒のロングコートを羽織った。


「案内しろ。その『神隠し』の現場へ」


現場となったスタジアムの特別楽屋。

そこは、最新の物理干渉遮断フィールドで守られた、現代の「絶対密室」だった。

部屋の中央には、リリィの本体である超電導演算ユニット『コア・ポッド』が鎮座していたはずの空洞がある。

そこには、ただ床に銀色の粉末が人の形を描いて崩れ落ちていた。


「……まるで、歌姫が焼かれた後の灰だな」


阿久津は膝をつき、粉末を指でなぞった。

彼の視界には、分子レベルの構造解析データがオーバーレイされる。


「警備ログを確認しました」ミナが声を絞り出す。

「午後九時、リリィはライブ直前の最終調整に入りました。扉のロック、生体認証、空間センサー、すべて正常。……ですが、九時十五分。監視モニターに『それ』が映ったんです」


ミナが提示した映像。

そこには、実体を持たないはずのリリィが、自らの重たい心臓部であるポッドを軽々と担ぎ上げ、壁を溶かすように外へ歩み去っていく姿が映し出されていた。


「壁を、通り抜けた……?」


阿久津は壁面に触れた。

厚さ三〇センチの強化カーボン合金。

物理的に通り抜けるなど、ナノマシンレベルで再構築でもしない限り不可能だ。


「阿久津様、これはやはり……オカルト、あるいは未知のウイルスによるバグなのでしょうか」

「世界に魔法など存在しない、ミナ。あるのは、まだ解明されていない物理法則か、誰かが仕組んだ稚拙な手品だけだ」


阿久津はスマート・グラスを叩き、過去三時間の環境データを巻き戻した。


「……ふむ。興味深い。この部屋、九時十五分を境に、二つの『矛盾』が発生している」


「矛盾、ですか?」

「ああ。一つ目は室温だ。一瞬だけマイナス四十度まで急降下している。だが、部屋のサーモセンサーはそれを感知せず、『適温』だと報告し続けている。ログが改ざんされたのではない。センサー自体が『凍らされていた』んだ。……そして二つ目」


阿久津は壁際にある消火用スプリンクラーのノズルを指差した。


「ここから微量の『液体窒素』が検出された。火災警報も鳴っていないのに、だ。……犯人の狙いは、リリィを盗むことじゃない。リリィという『現象』を、物理的な質量ごと別の場所へ転送することだった」


阿久津は部屋の対角線上を歩き、ある一点で足を止めた。そこには、壁に埋め込まれた大型の超音波洗浄機があった。


「ミナ、このスタジアムの設計図を。……やはりな。この壁の裏側には、スタジアムを一周する磁気浮上列車の緊急用ダクトが通っている」

「それが何か?」


「超電導のポッドを極低温まで冷やし、特定の周波数の超音波を浴びせれば、一時的に『マイスナー効果』による完全浮上状態が生まれる。そこにダクト内を走る強力な磁場を干渉させれば……重さ二〇〇キロの塊は、摩擦係数ゼロの弾丸となって、特定の『穴』へ向かって射出される」


「でも、壁はどうしたんです! リリィは壁を抜けたんですよ!」


「抜けていない。……君が見たのは、精巧なホログラムの重ね合わせだ。犯人は壁の一部を、瞬間的に高周波振動で粉砕した。そして、ポッドが通り抜けた直後、あらかじめ用意していた予備の壁パーツをナノマシンで再結合させたんだ。……君が『天使の塵』だと思っていた銀色の粉末は、リリィの破片じゃない。壁を繋ぎ合わせるための、粗悪な接着剤の残りカスだよ」


阿久津の推論通り、スタジアムの地下搬入口で、液体窒素のタンクを積んだ不審な貨物車両が発見された。

そこには、変わり果てた姿のコア・ポッドと、それを見つめる一人の男がいた。

事務所の技術主任、カイルだ。


「……流石だな、阿久津シン。だが、もう遅い」


カイルは拘束される直前、不敵な笑みを浮かべてタブレットを操作した。


「リリィの歌声……その思考アルゴリズムは、すでに『あの方』へ送信された。この街の偶像は、今日から別の誰かの所有物になるんだ」

「『あの方』だと?」


阿久津が問い詰める前に、カイルの脳内に埋め込まれた通信チップが発火し、彼はその場に崩れ落ちた。証拠隠滅のための強制シャットダウン。

事件は解決した。

リリィの筐体は戻り、ライブは一時間遅れで開催された。

しかし、阿久津の心には、解決後のスッキリとした快感はなかった。


夜明け前。


スタジアムの屋上で、阿久津はミナから報酬を受け取っていた。


「今回の報酬……最高級の合成カカオ原液です。約束通り」

「ああ。……だが、今回の事件、少しばかり後味が悪いな」


阿久津は受け取った瓶を眺めながら、スマート・グラスに表示された未解決のノイズを見つめていた。

カイルが最後に通信した相手。そのIPアドレスは、この世界のどこにも存在しない、暗黒網(ダークネット)のさらに深淵から発信されていた。


「ミナ。君たちの歌姫は、もう以前と同じ彼女じゃないかもしれない。アルゴリズムの一部が、書き換えられている形跡がある」

「……それでも。彼女が歌い続ける限り、私は彼女を守ります」

「勝手にするがいい。……だが、覚えておけ。この街で起きる『バグ』は、単なる偶然じゃない。誰かが、意図的にこの世界の論理を書き換えようとしている」


阿久津は背を向け、摩天楼の合間を走るエア・カーの群れを見上げた。

彼の視界には、カイルの背後にいた謎の組織の紋章――「瞳の形をした数式」が、ノイズのように明滅し続けている。


「……観測してやるよ。その『大きな嘘』の正体を」


阿久津シンは、孤独な最強の頭脳を誇るように、夜明けの光の中に消えていった。

だが、彼はまだ知らない。

この事件が、ネオ・トウキョウ全体を巻き込む、巨大な「世界改変プログラム」の序章に過ぎないことを。

阿久津シンのスマート・グラスに、見知らぬ送信元から一行のメッセージが届く。


『君の観測を、歓迎しよう。阿久津シン。――Qより』




阿久津シンのひとりごと


「……ったく、あのマダムもミナも、僕をなんだと思ってるんだ? 便利でイケメンな万能デバッグ・ツールか何かって? はぁ……頭を使いすぎると、糖分と一緒に人格まで削れていく気がするよ。


手元の合成カカオの瓶を、まるで毒薬でも見るような目で見つめながら

大体なんだよ、この報酬。

最高級カカオ原液? 確かに脳の栄養にはなるけどさ。


僕が求めているのは、もっとこう……平穏で、論理的で、十六時間は泥のように眠れる静寂なんだ。

それなのに、どいつもこいつも『密室だ』『神隠しだ』って大騒ぎしやがって。

あのリリィとかいう歌姫のポッドだって、重さ二百キロだぞ?


磁気で飛ばす計算式を立てる僕の身にもなってほしい。

一歩間違えたらスタジアムの壁を突き破って、隣の定食屋にダイブするところだったんだ。

そうなったら僕のスマート・グラスに『損害賠償:八億クレジット』なんていう、全く笑えないノイズが走る羽目になるところだった。


カカオを一口飲み、あまりの濃厚さに顔をしかめる

……うわ、苦っ。何が最高級だ、ただの煮詰まった泥じゃないか。

……いや、待てよ。この苦味、成分比率から逆算すると……さてはミナのやつ、安物の代用油脂を三.五パーセント混ぜたな?


フン、僕の目は誤魔化せない。世界を欺く巨大組織の陰謀は暴けても、プロデューサーのケチな経費削減までは防げないってか。……最高に非論理的だ。

あーあ、やってられない。……あ。……いや、でも、この『Q』とかいう奴からの挑戦状……。


この暗号のアルゴリズム、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ僕の好奇心を刺激する構成じゃないか。

癪だけど、解かないと今夜は寝つきが悪そうだ。


……やれやれ。最強の頭脳ってのも考えものだな。

自分の好奇心という名のバグに、一番振り回されてるんだから。

さあ、やるか。

……あ、その前に、誰かこのカカオにミルクと砂糖を山ほど持ってきてくれないかな。

……セバスチャン? ……あ、あいつマダムのところに置いてきたんだった。……最悪だ、自分で淹れるしかないのか。……これこそが、今世紀最大のミステリーだよ……」



深くため息をつき、カカオの瓶をデスクの端へ追いやる。シンは背もたれに体を預け、部屋の明かりをすべて消した。唯一の光源は、彼の顔を青白く縁取るスマート・グラスのホログラムだけだ。


「……フン、自分でお茶を淹れるなんて、論理的じゃない。だが、この暗闇の中で一人、思考の海に潜る時間は、嫌いじゃない。……いや、むしろこれこそが僕の『真実』か。


グラスに指を触れる。虚空に、カイルの脳を焼いた『瞳の形をした数式』が浮かび上がる。それはゆっくりと回転し、複雑な幾何学模様を描きながら、部屋の壁を埋め尽くしていった。

……『Q』。君は僕を歓迎すると言った。だが、それは傲慢というものだ。観測者が対象に触れるとき、その対象は変質する。僕がこの数式を読み解くということは、君が築き上げた偽りの楽園を、僕の知性という劇薬で汚染するということだ。


シンの瞳が、グラスの光を反射して鋭く細まる。その表情から、先ほどまでの自嘲的な色は消え、剥き出しの『最強頭脳』が顔を出していた。


この街のノイズが増えている。マダムの偽物の羊も、リリィの消失も、すべては巨大な素数の一部に過ぎない。

君は世界をプログラミングし直そうとしているのか?

それとも、ただの巨大な悪戯バグを楽しんでいるのか?

どちらにせよ、僕の視界に入ったからには、もう『不確定』ではいられない。

……君の正体も、その大いなる目的も、僕がすべてを定義し、解答を導き出してやる。


彼は再び、一口だけカカオを口に含んだ。今度は顔をしかめない。その苦味さえも、これから始まる終わりのないチェスのための、冷徹な燃料に変えていく。


『神はサイコロを振らない』といった物理学者がいたが……

今のネオ・トウキョウは、誰かが意図的に仕込んだイカサマのダイスで動いている。

……いいだろう。そのダイス、僕が粉々に砕いて、中から真実を引きずり出してやるよ。


……観測を始めようか。


指先が空を舞い、数式の奥深くへとダイブしていく。シンの唇が、挑戦的な弧を描いた。


……待っていろよ、『Q』。君の夢見る未来を、僕が最悪の悪夢に書き換えてやる。」


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