黄金の電子羊は偽物の夢を見るか?
西暦2098年、ネオ・トウキョウ。
摩天楼の間を縫うように走る磁気浮上式のエア・カーが、五色のネオンを切り裂いていく。
雨は降っていないが、湿った重い空気が街を包み、ホログラムの広告が空中でノイズ混じりに明滅していた。
地上八十階、空中庭園を備えた超高級マンション「スカイ・クリスタル」。
その最上階にあるオーナー・スイートで、一人の男が優雅に合成茶を啜っていた。
「……なるほど。つまり、この完全防壁のセキュリティ・ルームから、重さ三キロの純金製『電子羊』が、文字通り煙のように消えたと?」
男の名は、阿久津シン。
ボサボサの黒髪に、度の強いスマート・グラス。
一見すると冴えない引きこもりのプログラマーだが、その正体は、政府のメインフレームを三分で黙らせ、未解決事件を数式の解のように導き出す「最強頭脳」の持ち主だ。
「そうなんですわ! 阿久津様! あれは我が家の家宝、先代が月面都市のオークションで落札した逸品でして!」
依頼人のマダム・エメラルドは、重厚なベルベットのソファを派手に揺らして身を乗り出した。
彼女の指には、不自然なほど輝く人工ダイヤのリングがいくつも嵌められている。
「警備システムに異常は?」
「全くありません! 監視ドローンのログにも、生体認証の履歴にも、侵入者の影すら残っていない。文字通りの密室ですのよ!」
阿久津はグラスを指で軽く叩いた。
彼の視界には、部屋の三次元構造、分子密度、そして空気の流れまでが、リアルタイムのデータとしてオーバーレイされている。
「ふむ……。三キロの純金。時価にして八千万クレジット。犯人は重力制御デバイスを使ったか、あるいは……」
「あるいは?」
「単に、マダム。あなたが『隠し場所を忘れた』という確率が十二.五パーセントあります」
「失礼な! 私はまだ認知症のナノマシン治療が必要なトシじゃありませんわ!」
阿久津は立ち上がり、現場となった金庫室へと歩いた。
そこには、マダムの忠実な執事アンドロイド「セバスチャン三号」が直立不動で立っていた。
「セバスチャン、君はこの部屋のログを管理しているね?」
「はい、阿久津様。私の網膜センサーは、過去四十八時間、この部屋にネズミ一匹入らなかったことを保証いたします。……ただし」
セバスチャンの金属製の眉が、ピクリと動いた。
「ただし?」
「昨夜の午前二時頃、室温が一気に五度上昇し、甘い香りが漂ったという記録がございます」
「甘い香り? チョコレートか?」
「いえ、どちらかと言えば……キャラメルに近い香りにございます」
阿久津は不敵な笑みを浮かべた。彼は金庫の縁を指でなぞり、その指先をスマート・グラスのセンサーにかざす。
「マダム、面白いことがわかりました。この密室、実は『密室』ではありませんでした。穴があったんですよ」
「穴? どこにですの! この壁は厚さ五十センチの超合金製ですわよ!」
「物理的な穴ではありません。……概念の穴です。セバスチャン、君のメンテナンス・モードを起動してくれ。コマンド:デルタ・セブン」
「了解いたしました」
セバスチャンの目が青く発光し、胸部のパネルが開く。
そこには複雑な電子回路が並んでいた。阿久津はその中の一つのチップを指差し、マダムを振り返った。
「犯人は、この部屋に一歩も入らずに、黄金の羊を盗み出しました。いや、正確に言えば……黄金の羊を『別のもの』に変えたんです」
「何を言っているの? 羊は消えたのよ!」
マダムが喚く。
阿久津は彼女の言葉を無視して、部屋の隅にある「全自動調理・配膳ロボット」の方へ歩み寄った。
「マダム、あなたは最近、ダイエット用の『糖質カット・ゼリー』をこのロボットに作らせていますね?」
「ええ、それが何か?」
「この調理ロボットの加熱用レーザー・ユニットが、昨夜、ハッキングされています。犯人は外部からこのロボットを操作し、金庫の壁越しに、ピンポイントで黄金の羊を熱した。純金は熱伝導率が高い。そして、羊の台座に使われていた素材は……」
阿久津は、床に落ちていた微細な粉末を指でつまみ上げた。
「……形状記憶・耐熱樹脂、に似せた『感熱性可溶ポリマー』だ。一定の温度を超えると、それは液体になり、さらに気化して甘い香りを放つ」
「じゃあ、羊は溶けて蒸発したっていうの!?」
「いいえ。羊自体は純金ですから溶けません。羊は、台座が消えたことで床に転がり落ち……そして、このロボットの『お掃除機能』によって回収されたんです。キャラメル状に溶けた台座と一緒にね」
阿久津は調理ロボットのダストボックスを乱暴に開いた。
中から出てきたのは、ベトベトの茶色い液体にまみれた、手のひらサイズの黄金の羊だった。
「……え、これだけ?」
マダムが絶句する。
「三キロの純金と言いましたが、実は中身は中空で、ほとんどがこのポリマーで充填されていた。つまり、この家宝は……最初から『偽物』だったわけだ」
「な、なんですってぇ!?」
「犯人は、この偽物の価値を知っていた。おそらく、あなたにこの羊を売りつけた古美術商でしょう。彼は、中身が偽物だとバレる前に、回収して証拠を隠滅したかった。ハッキングの手口が、その業者が使っているセキュリティ・ソフトのバックドアと同じでしたから」
阿久津は、スマート・グラスをクイッと上げた。
「全ては数式通り。動機、手法、そしてマダムの無知。すべてが完璧に噛み合って、この奇妙な事件は構成されていた」
マダム・エメラルドは、ベトベトの羊を手に取り、しばらく呆然としていたが、やがて顔を真っ赤にして叫んだ。
「あの詐欺師! 今すぐ月面裁判所に訴えてやるわ! セバスチャン、準備なさい!」
「お嬢様、落ち着いてください。その羊……いえ、その『金の塊』ですが。先ほどスキャンしたところ、表面のメッキが剥がれ、中身はただの銅であることが判明いたしました」
「…………」
部屋に沈黙が流れる。
阿久津は、すでに興味を失ったように出口へと向かっていた。
「阿久津様! 待って、解決料は!? まだ解決してないわよ、私の資産価値が!」
「いいえ、事件は解決しました。『消えた宝石の行方』というミステリーは終わり、『マダムがただの銅の塊を大事に飾っていた』という喜劇に変わっただけです。請求書は後で送ります。ああ、そうだ」
阿久津はドアを閉める直前、意地悪な笑みを浮かべて付け加えた。
「その銅の塊、よく見ると『Made in Mars』って書いてありますよ。月面のヴィンテージどころか、去年の量産品です。……お疲れ様でした」
豪奢な部屋からマダムの絶叫が響き渡る中、阿久津はネオ・トウキョウの夜風に吹かれながら、エア・タクシーを呼び止めた。
「さて、次の仕事はもっとマシな知能指数を相手にしたいものだ」
独り言は、重低音の街の喧騒に飲み込まれて消えた。
雨の匂いが混じった空気の中、彼はまた一つ、退屈な真実を解き明かした満足感(あるいは脱力感)と共に、ネオンの海へと潜っていくのだった。
阿久津のひとりごと
ネオ・トウキョウの最上層を滑るように走る、漆黒のエア・タクシー。
車内は、街の狂騒を拒絶するような静寂に満ちていた。阿久津シンは、長い脚を無造作に組み、ヘッドレストに深く頭を預けている。
窓の外を流れる極彩色のネオンが、彼の彫りの深い横顔を断続的に照らし出した。
ボサボサだったはずの黒髪は、夜風にさらされて程よく崩れ、スマート・グラスを外したその瞳は、冷徹なまでの知性と、どこか退屈を飼い慣らしているような色気を湛えている。
彼は、懐から一本の銀色のシガレットケースを取り出した。中に入っているのは、火を使わない電子煙草だ。
紫煙の代わりに吐き出された薄い蒸気が、青白い光の中でゆらゆらと揺れる。
「……マダム、君は気づいていなかったな。美しさと価値は、決して等価ではないということに。」
シンの独り言は、心地よい低音となって車内に響く。
それは誰に聞かせるためでもない、彼自身の脳内に構築された迷宮を整理するための儀式だった。
「君が家宝と呼んで慈しんでいたあの『羊』は、君の虚栄心が作り出した幻影に過ぎない。純金という輝きに目を焼かれ、その本質が安っぽい樹脂と銅の塊であることを見抜けなかった。……滑稽だが、それが人間の美しさでもあるのかもしれない。偽物に命を懸け、偽物のために涙を流す。アルゴリズムには決して理解できない、最高に非合理的なバグだ。」
彼は細い指先で、窓ガラスに映る街の光をなぞった。
指の動きに合わせて、網膜に埋め込まれた補助脳が、一瞬で街の全データを演算し始める。
電力供給量、交通量、個々の市民のバイタルサイン。すべてが「0」と「1」の羅列となって、彼の思考の海を流れていく。
「この街のすべては、巨大な計算式の上に成り立っている。誰が誰を愛し、誰が誰を裏切るかさえ、変数を揃えれば予測は容易だ。だが、時折……今日のような予測不能な茶番が紛れ込む。ハッキングの痕跡を残しながら、最後は掃除機に宝石を吸わせるような、間抜けな犯人の呼吸。そのノイズこそが、僕の退屈を唯一癒やしてくれる。」
シンはふっと、自嘲気味な笑みを浮かべた。その表情には、すべてを見通してしまうがゆえの孤独と、知性の極致に達した者だけが持つ傲慢な美しさがあった。
「今回の報酬は……あの悪趣味な合成ワインか。成分を解析すれば、おそらく安価なエタノールと香料の混合物に過ぎないだろう。だが、敗者の悔恨が混じった味なら、少しはマシな酔い心地を提供してくれるかもしれない。」
彼は再び蒸気を吐き出し、目を細めた。
「真実は常に冷酷だ。隠せば隠すほど、それは腐敗し、悪臭を放ち始める。僕はただ、その蓋を開けてやるだけだ。たとえその中身が、救いようのないガラクタだったとしても……。光があるところに影があるように、贅沢な嘘の裏側には、常に滑稽な真実がへばりついている。」
タクシーが高度を下げ、彼が住むジャンクな裏通りへと差し掛かる。
高級マンションの煌びやかさとは対照的な、混沌とした闇。そこは、最強の頭脳を持つ彼が、唯一「個」として存在できる隠れ家だった。
「……さて、次はどんな偽物が僕を呼んでいる? 世界がこれほどまでに嘘に満ちているのなら、僕の仕事がなくなることはなさそうだ。」
シンはスマート・グラスを再び装着した。レンズの向こう側で、彼の瞳が鋭い光を放つ。
「観測されるまで、真実は常に不確定だ。だが、僕の目に触れた瞬間、すべての嘘は崩壊し、剥き出しの現実だけが残される。……それが、この退屈な世界に対する僕なりの復讐だよ。」
エア・タクシーのドアが静かに開き、湿った夜風が彼の前髪を揺らす。
阿久津シンは、一度も振り返ることなく、ネオンの闇の奥へと消えていった。
その背中は、どんな複雑な数式よりも冷たく、そして抗いがたいほどに美しかった。




