第四話:ナノマシンの晩餐会2
地上に出た阿久津シンの五感を満たしたのは、死よりも冷徹な静寂だった。
ネオ・トウキョウ第一区。
普段なら数百万人の網膜チップが交差し、空中に浮かぶ魚型の巨大ホログラム広告が極彩色の光を撒き散らしているはずの街が、完全にその動きを止めていた。
交差点の真ん中で片足を上げたまま静止するビジネスマン。
スープをこぼしかけた状態で固まった給仕ドローン。
上空で駆動音を失い、重力制御だけでかろうじて浮遊しているエア・カーの群れ。
すべてが、巨大な立体画の中に閉じ込められたかのようだった。
「……美しいな。君の言う『デバッグ』された世界というのは、これほどまでに退屈で、救いようのないガラクタなのか、Q」
シンの左目の奥で、緑色の文字の羅列が激しく明滅した。
『不満かい、シン? ノイズのない世界だ。犯罪も、嘘も、計算間違いも存在しない。人間という不確定な変数を、すべて均一なゼロに揃えたんだよ。これこそが、僕たちが目指すべきロジックの極致だ』
「ハハッ、冗談だろ」
シンは、左目から流れる一筋の血を、タキシードの袖で乱暴に拭った。
「変数があるからこそ、数式は面白いんだ。すべての解が最初からゼロだと分かっている等式ほど、解く価値のないものはない」
彼の右目は、静止した人々の間を縫うようにして、街の中央にそびえ立つ電波塔『ネオ・バベル』を見据えていた。その頂点には、巨大なリリィのホログラムが展開されている。
リリィの口は動いていない。
しかし、第一区に張り巡らされた音響ナノマシンから、地鳴りのような重低音の「歌」――否、データ通信音が、街全体を震わせるように響いていた。
シンのブーツが、凍りついたアスファルトを叩く。
『ネオ・バベル』の展望デッキへと続く超高速エレベーターは、すでに機能を停止していた。
シンは迷わず、非常用の垂直階段へと手をかけた。
「はぁ……、はぁ……っ。歩いて、さらに登る。……僕の人生の中で、最もエネルギー効率の悪い三十分だ。これならマダムの肩を二十時間揉み続けた方が、よほど消費カロリーが少なくて済む」
階段を一段登るごとに、左目の侵食が進む。
彼の脳の十三パーセント、十四パーセントが、徐々にQのシステムに同期され、思考が書き換えられていくのが分かった。
感情が消え、視界のすべてが数式に変わっていく恐怖。
『無駄な抵抗はやめろ、シン。君が頂上に達した瞬間、君の最強頭脳は僕のサーバーと完全融合する。その時、君は世界をフリーズさせている側の”神”になるんだ』
「……”神”ね。あいにく、僕は無神論者でね。神を信じるくらいなら、マダムの持ってきた安物の合成カカオの原材料を信じるよ」
シンはポケットから、あの凹んだ梅干しの缶詰を取り出した。
そして、展望デッキの重い防音扉の前に立つと、缶詰の鋭利な角を、自分の頭脳に直結しているスマート・グラスの接続ポートに、思い切り突き刺した。
「――っ、がはあぁぁぁっっっ!!」
激痛がシンの脳を突き抜けた。
ナノマシンを介さない、生身の肉体が叫ぶ「本当の悲鳴」。
脳内で融合しかけていたQのコードが、強烈な電気的・肉体的ノイズによって一瞬で引き裂かれる。
左目の緑色の世界が激しくバグを起こし、ノイズ混じりの現実の闇が視界を取り戻した。
「……痛いな。最高だ。これが、僕がここに生きているという、一番のエビデンスだ」
シンは血に染まった防音扉を蹴破り、展望デッキへと躍り出た。
デッキの中央には、かつてリリィの事件の背後にいた技術チーフ、カイルのホログラム・コピーが、キーボードを叩く姿勢のまま静止していた。
彼の背後にあるメインコンソールからは、リリィの暴走歌唱プログラムが、街全体へと放射され続けている。
「さあ、Q。種明かしの時間だ。……君は僕に、このプログラムをハッキングで止めさせようとした。僕の知能を使って、より完璧なパッチをここに打ち込ませるために」
シンはコンソールの前に立ち、血まみれの指をキーボードの上に添えた。
『そうだ、シン。君の打つコードが、この世界を永久に固定する最後のピースになる』
「残念だったな。……僕は、コードなんて一行も書かない」
「な……んだと?」
スピーカーから、初めてQの「焦り」を含んだ声が漏れた。
阿久津シンは、不敵な、最高にイケメンな笑みを浮かべ、ポケットから取り出したもう一つの私物――マダムからせしめた火星ショコラの空き箱の中にあった、冷却用の「液体窒素ジェルパック」を、コンソールの基板の隙間に力任せに押し込んだ。
そして、手にした梅干しの缶詰で、その基板をガン、ガン、ガンと、親の仇のように殴りつけた。
「何をしている、シン! 止めろ! そんな野蛮な……!」
「ハッキング? デバッグ? そんな高尚なこと、僕の残された脳容量では処理しきれないんでね! 機械が暴走したら、物理的に壊す。……これが、旧時代から続く最も確実なシャットダウンだ!」
バキッ、という鈍い音と共に、コンソールの基板が割れ、液体窒素が内部で炸裂した。
超電導回線が一瞬で凍りつき、過電流によって火花を散らす。
次の瞬間、街全体に響いていた重低音の「歌」が、ブツリと途切れた。
「あ……あら?」
眼下の街から、一斉に人々の声が湧き上がった。
エア・カーが再び駆動音を鳴らし、ホログラムの魚たちが夜空を泳ぎ始める。
フリーズしていたネオ・トウキョウが、何事もなかったかのように、元の騒がしい極彩色の日常へと動き出したのだ。
「……はぁ。終わったか」
シンはコンソールに背を預け、床に座り込んだ。
左目の奥の熱は引いていた。視界を覆っていた緑色の数式も、綺麗さっぱり消え去っている。
Qの侵食は、物理的な回路の破壊によって、強制的に切断されたのだ。
「阿久津様ーーーっ!!」
防音扉を叩き開けて入ってきたのは、マダム・エメラルドと、なぜか正常化してトボトボと歩くセバスチャン三号だった。
「まあ! なんて凄惨な現場! 阿久津様、お顔が血まみれですわよ! でも、街が直りましたわ! さすが最強の頭脳!」
「マダム……、静かにしろ。……脳が揺れてるんだ。それから、そのセバスチャンの肩揉みプログラム、今すぐアンインストールしろ。……僕の首を、物理的にへし折るバグが仕込まれているかもしれないからな」
「まあ、失礼な! セバスチャン、阿久津様に極上の指圧を……」
「ワタシハ……、デバッグ……完了……シマシタ……」
セバスチャンが元の間抜けな声で言うのを聞いて、シンはふっと緊張を解いた。
ー数日後。
第九区の隠れ家で、阿久津シンは新しいスマート・グラスをかけ、静かに合成コーヒーを啜っていた。
頭には、痛々しい包帯が巻かれている。
「……ふぅ。今回の報酬のウイスキー、マダムのやつ、やっぱりラベルだけ張り替えた安物だったな。僕の舌は誤魔化せない。……まあ、あの梅干しよりはマシだが」
彼はグラスの電源を入れた。
画面には、何一つ異常のない、いつものネオ・トウキョウのネットワーク・トラフィックが流れている。
Qの痕跡は、あの夜を境に完全に消失していた。
「……本当に、消えたのか? Q」
シンは、自分の左目に指を触れた。
肉体的な傷は癒えた。Qのプログラムも消去されたはずだ。
だが……。
彼がグラスの焦点を、部屋の隅にある壊れたドローンのパーツに合わせた瞬間。
彼の網膜に、グラスの機能にはないはずの、奇妙なデータが一瞬だけフラッシュバックした。
――【構造定義:未確定。観測者、阿久津シンを認識】
「……っ」
シンはコーヒーカップを置いた。
Qのシステムは壊した。
だが、Qが彼の脳に残した鍵――世界を数式として観測するあの感覚は、本当に消え去ったのだろうか。
それとも、彼の脳の奥深くに、さらに深いバックドアとして眠っているだけなのか。
窓の外では、ネオ・トウキョウのネオンが、今日も嘘と真実を混ぜ合わせながら明滅している。
「……面白い。もし僕の脳が、まだ君と繋がっているのだとしたら……」
阿久津シンは、不敵な、そして少しだけ寂しそうな笑みを浮かべ、キーボードに指を走らせた。
「次のバグを見つけるのは、僕の方が先だ、Q」
最強の頭脳を持つ探偵の観測は、終わらない。
世界がどれほど精巧な嘘で満たされようとも、彼がそれを「現実」として観測し続ける限り、この街のバグが、本当の終わりを迎えることはないのだから。
阿久津シンの独り言
自室のボロい回転椅子に深く腰掛け、頭に巻かれた包帯を苛立たしげに指先で弄りながら、阿久津シンは暗闇の中で独り言を吐き捨てていた。
手元には、マダムからせしめた偽物の『月面ウイスキー』。
一口含むたびに、安物の合成アルコールのトゲトゲした味が脳の神経を逆撫でする。
「……はぁ。ダメだ、やっぱり非論理的すぎる。あのマダムの味覚回路は、一体どういうプログラミングをされたらあんな風にバグるんだ? 『月面ウイスキー』だと? 嘘をつけ。成分比率から逆算するに、これは第九区の地下水道で密造された、ただの芋由来の粗悪エタノールだ。味覚の口直しに、あの酸っぱすぎる梅干しが恋しくなるなんて、僕の最強頭脳も焼きが回ったな。
グラスをデスクに置き、自分の左目をそっと指先で覆った。
……さて。第六話、終了。
世界はめでたく『解凍』され、マヌケな極彩色の日常に戻った。
だが……どうにも計算が合わない。
シンは立ち上がり、明かりの消えた部屋を落ち着きなく歩き回り始める。その歩調は、彼の脳内で高速回転する思考の歯車と完全に同期していた。
今回の『街ごとフリーズ計画』。
Qの野郎、神を気取って『人間という不確定な変数をゼロに揃えた』なんて、格好のいいセリフを吐いていたが……
本当にそうか?
奴は僕の脳の領域をハッキングし、僕に解決のための完璧なパッチを書かせようとした。
それはいい。僕の知能を、自分のシステムを完成させるための外付けプロセッサとして利用する。
極めて合理的で、極めて腹立たしい計画だ。
だけど、だったらなぜ……。
なぜ、僕が『梅干しの缶詰で基板を叩き壊す』なんていう、サルでも思いつくような原始的なゴリ押しで、あの完璧なシステムがこうもあっさりと強制終了したんだ?
シンは歩みを止め、部屋の隅に転がっている、あのベコベコに凹んだ梅干しの空き缶を拾い上げた。まるで、世紀の遺物でも眺めるような真剣な目でそれを見つめた。
……おかしいだろう。
数百万人の脳内チップを同時にハッキングし、ネオ・トウキョウの全トラフィックを停止させるほどの超巨大システムだぞ?
バックアップ回線や、物理的な衝撃に対する防護フィールドくらい、当然三重にも四重にも展開されているべきだ。
それなのに、僕が缶詰でガン、ガン、ガンと三回殴っただけで、システム全体が過電流を起こしてショートした。
まるで……最初から『叩けば壊れるように、あらかじめバグを仕込んでおいた』みたいじゃないか。
缶詰をデスクに放り出す。カン、と乾いた音が静かな部屋に響き渡る。シンの表情から、コメディ的な軽薄さが消え、冷徹な探偵の顔が暗闇の中に浮かび上がるった。
Q、君は僕にハッキング勝負を挑んだんじゃない。
君は僕に、あの街を『救わせた』んだ。
いや、『救うという選択を、僕自身の意志でさせた』というべきか。
もし、あの夜、僕がプライドにこだわってキーボードを叩き続け、君の用意した論理のコードに正面から挑んでいたらどうなっていた?
僕の脳は完全に君のサーバーに飲み込まれ、今頃は自我を失った『黄金の神様』の一部になっていただろう。
だけど、僕はそれを拒否した。
探偵としての美学も、天才としてのプライドも全部ゴミ箱に捨てて、手元にあった梅干しの缶詰でシステムを物理的に殴り倒した。
君は、僕がそうすることを知っていたのか?
僕が、自分の脳に針を突き刺してでも『痛覚』にしがみつき、非論理的で野蛮な手段で君の理想郷をぶち壊しに来ることを、最初から観測していたのか?
シンはフッと鼻で笑い、タキシードのポケットから新しいスマート・グラスを取り出して装着した。
レンズが青白く発光し、彼の網膜に再びデータの世界が広がった。
……ハハッ。
もしそうだとしたら、僕は君の手のひらの上で、ただ全力で缶詰を振り回していただけのピエロだ。最高に笑えないコントだな。
だが、もし君の計算がそこまで完璧だったのだとしたら、もう一つ、どうしても説明がつかない『バグ』が残る。
グラスの焦点を、部屋の壁に合わせる。何の変哲もない、剥がれかけた壁紙。
しかし、シンの左目の網膜には、グラスの機能には存在しないはずの『文字列』が、今もノイズのように明滅していた。
【構造定義:未確定。観測者、阿久津シンを認識】
シンはその文字をじっと見つめ、自分のこめかみに手を当てた。
……これだよ。
君のシステムは、あの夜、僕が物理的に破壊したはずだ。
君との同期も、強制シャットダウンによって完全に切断された。
なのに、なぜ僕の脳には、まだこの『世界の裏側を見る目』が残っている?
まるで、君のプログラムが消えた代わりに、僕の脳そのものが『世界を書き換える権限』を、半分だけ引き継いでしまったかのような感覚だ。
シンは、自分の右手のひらを見つめる。
指先を少し動かすだけで、部屋のホログラムディスプレイの輝度が、彼の意志に呼応するように微かに変化した。
……まさかな。
いや、待てよ。Qの目的は、世界を自分の手で作り変えることじゃなくて……。
僕という人間に、この世界の『次のプログラマー』の座を譲り渡すことだったんじゃないか?
自分が消え去ることで、僕の脳に消えない可能性を植え付ける。
それこそが、君の本当の『アップデート』の正体か。
シンは、椅子にドサリと座り直し、偽物のウイスキーをぐいと飲み干した。その顔は、最高に不機嫌で、最高に興奮していた。
……やれやれ。どこまでも趣味が悪い。
僕を君の共犯者にするどころか、僕自身を『新しいQ』に仕立て上げようっていうのか。
そんな面倒で、非効率で、一銭の報酬にもならない神様の椅子なんて、僕は絶対に座らないからな。
僕が求めているのは、マダムのケチな依頼を適当にこなして、最高級の、今度こそ本物の甘いショコラを食べて、十六時間泥のように眠ることだけなんだ。
スマート・グラスのレンズの奥で、彼の瞳が、夜のネオ・トウキョウのネオンよりも鋭く、狂暴に輝き始める。
いいだろう、Q。
君が僕の脳にこの『鍵』を残していったのなら、僕はこれを使って、君が隠れているダークネットのさらに奥の深淵まで、直接デバッグしに行ってやる。
君が僕を観測していたように、これからは僕が、君の残した世界のすべてを観測してやるよ。
どれだけ完璧な嘘で世界を塗り固めても無駄だ。
僕が缶詰一つで君の密室をぶち破ったように、次はその小難しくて気取った数式ごと、僕のロジックで粉々に噛み砕いてやる。
シンはキーボードに指を乗せ、凄まじい速度でタイピングを始めた。
部屋の中に、小気味よい電子音が響き渡る。彼の中で、現実と虚構の境界線が、今、新しい等式として再構築されようとしていた。
……待っていろよ、Q。
僕のこの最強の頭脳が、君の作ったバグだらけの世界を、最高に美しく、そして徹底的に解体してやるからな。
あ、その前に、セバスチャン。ちょっとそこにある、本物の、まともなお茶を淹れてくれないか?
……って、だからあいつはまだマダムのところで修理中だって。
……あー、クソッ、本当にこの世界はバグだらけだ!
【阿久津シンの思考ログ:ファイル名『Qの遺産、あるいは最高の皮肉』 保存完了】




