08
廃墟の教室。
律は、ミナの寝息を聞きながら、真っ暗な天井を見つめていた。
(居場所なんて、いらない。光なんて、いらない)
自分に言い聞かせ、ポケットの中のナイフを確かめた。
だが、隣で眠る少女の微かな体温が、律の凍りついた輪郭を、ゆっくりと溶かし始めていた。
コンクリートの床から這い上がってくる冷気が、
律の神経をじりじりと削っていた。
隣で眠るミナの呼吸は浅く、時折、何かに怯えるように肩を震わせている。
律は暗闇の中で、その微かな震えを肌で感じていた。
(……なんで、連れてきたんだ)
自分に問いかけても、明確な答えは返ってこない。
一人ならもっと遠くへ逃げられた。
一人なら、もっと確実に気配を消せた。
それなのに、自分は”同じ目”をした少女の手を離せなかった。
それは、あの日自分が殺したはずの”弱さ”を、再び抱え込むような行為だった。
その時。 階下で、乾いた音が響いた。
パキリ、と木の枝か何かが折れるような音。
律の身体が、氷を流し込まれたように一瞬で硬直する。
雨音にかき消されそうなほど微かな音だったが、律の研ぎ澄まされた聴覚は見逃さなかった。
『……ミナ。起きろ』
律はミナの肩を揺らし、耳元で低く囁いた。
ミナは目を見開き、悲鳴を上げそうになるのを、律がその口を掌で塞いで封じる。
『静かに。誰か来た』
律は窓際まで這い寄り、割れたガラスの隙間から階下を覗いた。 校庭に停車しているのは、先ほどのパトカーではない。黒塗りの、威圧感のあるセダンだ。
そこから二人の男が降り、懐中電灯を振り回しながら校舎へと近づいてくる。一人は、コインランドリーに現れたあの男だ。
「……見つけたら、タダじゃ済ませないからな」
男たちの低い話し声が、風に乗って聞こえてくる。
彼らが追っているのはミナだ。
だが、今の律にとっては、彼らもまた自分の平穏(たとえそれが泥沼のような逃亡生活であっても)を壊す敵だった。
ミナが、律のパーカーの袖を掴んだ。 その指先は、剥き出しの恐怖で激しく震えていた。 もしここで見捨てれば、律は逃げ切れる。男たちがミナを連れ去る間に、自分は反対側の窓から脱出すればいい。
(……そうすればいい。それが一番合理的だ)
律は自分の右手をポケットに入れた。
ナイフの柄の、冷たく硬い感触。
ミナを囮にすれば逃げられる。
それが一番賢いはずだ。
その冷徹な思考を、小さな声が切り裂いた。
「律……くん……?」
律の肩が、目に見えて跳ねた。
心臓の奥が、氷を押し付けられたように冷たく、鋭く痛む。
教えていない。教えるつもりもなかった。
名前は、俺を縛る呪いだ。
あれは人間が使う“檻”だ。
(……なんで、その名前を知ってる)
律は振り返らず、掴まれた袖を乱暴に振り払おうとした。だが、ミナの指先は、剥き出しの恐怖で激しく震えながらも、必死に布地を掴んで離さない。
その指を通じて、彼女の絶望が律の皮膚に直接伝染してくる。
さっき、陸が呼んだのだ。
その声を、ミナは聞いていた。
律が何者なのか。何をして追われているのか。
そんなことは何も知らなくても、彼女にとって今の拠り所は、暗闇の中で自分を引っ張ってくれたこの青年の”名前”しかなかった。
『……呼ぶな。その名前で呼ぶな』
律は地を這うような低い声で言った。
自分の名前が、この薄汚れた少女の唇から、縋るような響きを伴って放たれたこと。
それが、律には耐え難かった。名前を呼ばれるということは、そこに”関係”が生まれてしまうということだ。
ただの”逃亡者A”と”迷子B”でいられた時間は、たった今、終わりを告げた。
階段を上ってくる足音が、さらに一段、近くなる。
男たちの下卑た笑い声か、それとも陸の”正義”に満ちた足音か。
律は暗闇の中で、ミナの指先が食い込むパーカーの袖をじっと見つめた。
振り払うべきだ。今すぐに。
だが、律は動けなかった。陸が呼ぶ「律くん」には吐き気がするのに、この震える指先が求める「律くん」という響きが、律の胸の奥にある、自分でも気づかなかった”人間としての欠け目”に、ぴたりとはまり込んでしまったからだ。
『……離せ。走るぞ』
突き放すような言葉とは裏腹に、律は彼女の手を振り払わなかった。
校舎の正門側で、赤色の明滅が激しさを増す。
陸の追跡。
男たちの暴行。
そして、自分を”個”として繋ぎ止めようとする少女の声。
律は暗闇の中にナイフを抜き、静かに刃を立てた。
自由を守るための刃。
しかしその刃先は、自分でも気づかないうちに、誰かのための”盾”としての形を取り始めていた。
階段を蹴る音が、死に絶えた校舎の吹き抜けに反響する。
一歩、また一歩。
それは軍靴のように規則正しく、迷いがない。
「律くん、そこにいるんだろう。……もう、終わりにしよう」
廊下に、陸の声が響き渡った。
律はミナを背後の影に押し込み、教室の引き戸の隙間から、薄暗い廊下を凝視した。
ライトの光が激しく床を舐め、陸のシルエットが浮かび上がる。差し出されているのは、交渉を望む手だ。
(……おめでたい正義感だ。あんたが守ろうとしているルールの外側には、もう別の奴らが入り込んでるっていうのに)
律は、陸の数メートル背後の暗闇を見た。
踊り場の影に、あの男が潜んでいた。
バールを構え、じりじりと陸に狙いを定めている。
陸は、正面の教室にいるはずの律に全神経を集中させている。
背後の、音もなく近づく”殺意”には微塵も気づいていない。
「……あ」
背後で、ミナが小さく息を呑んだ。
彼女も気づいたのだ。自分の親が差し向けた執念が、今、目の前の刑事を屠ろうとしていることに。
「律くん、聞こえるか。君のお父さんは、最後まで君を愛して──」
陸が、その”呪い”のような言葉を口にした瞬間。
背後の男が、音もなく跳躍した。
振り上げられた鉄の塊が、陸の後頭部を目掛けて
振り下ろされる。
『……ッ!』
考えるよりも先に、律の身体が弾かれた。
陸を助けたいわけじゃない。警察を味方にしたいわけでもない。
ただ、あの眩しいほどの”善意”を疑わない男が、
こんな泥臭い暴力に呆気なく壊される。
その光景が、律の何かに致命的な拒絶反応を起こさせた。
律は教室から飛び出し、最短距離で陸の背後へと滑り込んだ。
「なっ……!?」
振り返ろうとする陸の視界を、律の白いカッターシャツが遮る。
律は、男が振り下ろしたバールの軌道に、自分の左腕を無理やり割り込ませたのだ。
ガツッ、という鈍い衝撃が、律の骨にまで響く。
『ぐ……っ!』
焼け付くような激痛。だが律は止まらない。
衝撃で男の体勢が崩れた隙を突き、右手のナイフの柄を男の顎目掛けて叩き込んだ。
「ガハッ……!?」
男がよろめき、後方の壁に激突する。
あまりに一瞬の出来事に、陸は数秒間、言葉を失って立ち尽くした。
自分の目の前には、自分を襲った男と、それを防いだはずの”殺人犯”の青年。
「……律くん。君、腕が……」
陸が震える手でライトを向けた。
律の左腕は力なく垂れ、白いシャツがみるみるうちに赤黒く染まっていく。
それでも律は、陸を見ようとはしなかった。
ただ、男を睨みつけながら、掠れた声で吐き捨てる。
『……喋るな。あんたのその口から出る言葉には、反吐が出る』
助けられてなお、律に向けられるのは”感謝”ではなく
”侮蔑”だった。
陸は、自分の差し出した”救いの手”が、どれほど律のプライドを切り裂いていたかを知った。
男はまだ、暗闇の中で息を弾ませている。
律、陸、そして教室の隅で震えるミナ。
静寂の中に、律の腕から滴り落ちる血の音だけが、不気味に響いていた。




