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09

床に滴り落ちる血の音が、やけに大きく響いていた。

男は顎を砕かれ、廊下の隅で苦悶の声を上げている。しかし(りつ)の関心は、もうそこにはなかった。


「……律くん、今すぐ止血を。その傷は深い、僕に任せるんだ」


(りく)が、あわてて懐から救急包帯を取り出し、膝をついて律の腕に手を伸ばそうとした。

その瞳にあるのは、逃亡者を案じる、あまりに純粋で真っ当な”心配”だ。


だが、その指が触れる直前。


『……触るな』


律は、何かに弾かれたように腕を引いた。

痛みに顔を歪めることもなく、ただ、凍りつくような冷ややかな視線を陸に向ける。


「律くん、意地を張っている場合じゃない。君は出血しているんだ。放っておけばショック症状が──」

『言ったはずだ。あんたのその”善人面”が、反吐が出るって』


律は、滴る血を拭いもせず、陸を拒絶するように一歩後ずさった。

陸にとっては慈悲でも、律にとっては暴力だった。


助けられてたまるか。

あんたのルールに、従ってたまるか。


『……行くぞ』


律は背後の暗闇に向かって、短く声をかけた。

教室の影から、ミナが吸い寄せられるように這い出してくる。彼女は陸を一瞥したが、その瞳には救いを求める色はなく、ただ律と同じ、深い不信感だけが宿っていた。


「待ちなさい! 外にはまだあの男の仲間がいるんだ。警察の保護下に入るのが一番安全だ!」


陸の叫びを無視し、律はミナの肩を抱き寄せると、

そのまま非常階段の暗闇へと足を踏み入れた。

足音は、驚くほど静かだった。

怪我をしているはずなのに、その足取りには迷いがない。まるで、最初から闇の中にしか道がないことを知っているかのようだった。


「律くん……っ!」


陸は追いかけようとしたが、倒れている男が再び動き出そうとしたため、足を止めざるを得なかった。

ライトの光が虚しく廊下を泳ぎ、二人の影を追うが、そこにはもう、湿った空気と雨音しか残っていなかった。


「……どうしてだ」


陸は、血のついた床を見つめ、拳を強く握りしめた。

助けた。自分を襲った敵から、自分を捕まえようとしている刑事を、彼は守ったのだ。

それなのに、なぜ彼は、地獄へ戻るような足取りで消えていったのか。


陸の知る”正義”の方程式では、この青年の行動を説明することができなかった。


一方、校舎の外。

律は降り続く雨の中に、ミナを連れて飛び出した。

左腕の感覚は、すでに熱を通り越して麻痺し始めている。


「……ごめん。わたしのせいで、また」


ミナが、泣きそうな声で呟く。

律は雨に打たれながら、無傷の右手で彼女の頭を乱暴に撫でた。


『喋るな。……歩け。止まったら、終わりだ』


律は、自分が陸を助けた理由を自分でも定義できないでいた。

ただ一つ分かっているのは、今、自分の腕を濡らしているこの”血の匂い”だけが、唯一、嘘のない、現実だということだった。


降りしきる雨は、律の体温と、地面に落ちた鮮血を無慈悲に洗い流していく。

律とミナは、廃校舎から数キロ離れた高架下の資材置き場に身を潜めていた。錆びた鉄パイプと泥にまみれたブルーシートの隙間。そこが今の彼らにとっての、唯一の”城”だった。


『……っ』


律は歯を食いしばり、雨水で濡れたパーカーを脱ぎ捨てた。左腕の傷は深く、バールが当たった衝撃で骨が軋むように痛む。

ミナが震える手で、落ちていた清潔とは言い難い布切れを差し出してきた。


『……あ、ありがとう』


律は短く応じ、自分で傷口をきつく縛り上げた。激痛に意識が遠のきそうになるが、ここで倒れるわけにはいかない。


一方、廃校舎の廊下。

陸は、応援の警官たちが慌ただしく動く中で、先ほど律がいた場所を凝視していた。

鑑識が床の血痕を採取し、倒れていた男を連行していく。


(なぜ、彼は僕を助けたんだ……?)

陸の胸に、拭い去れない違和感が刺さっていた。


父親を無残に殺害した冷酷な殺人犯。

それが、捜査本部の、そして陸自身の”佐藤律”に対する定義だった。

しかし、さきほど自分を庇った瞬間の律の瞳。

そこにあったのは、狡猾さではなく、もっと深い怒りだった。


「陸さん、どうかしましたか?」

「……いや。少し、妙だと思ってね」


陸は、現場に残されていた律の父親——佐藤達也氏の遺影を思い出した。地域で慕われ、律を献身的に支えていたという聖人。


「……あの青年は、本当に一方的な加害者なんだろうか。例えば、家庭内に何か……」


そこまで言いかけて、陸は自嘲気味に首を振った。


「……いや、そんなわけないな。何を考えてるんだ、僕は」


佐藤氏の評判は完璧だった。虐待の通報もなければ、律の成績も素行も、事件前までは何の問題もなかったのだ。もし何かあったのなら、学校や近所が気づかないはずがない。

何より、現場の状況が雄弁に物語っている。

一方的な、殺意に満ちた犯行。


「……彼が僕を助けたのも、ただの気まぐれか。

あるいは、僕を利用して逃げるための計算だったんだろう。そうだ。犯罪者の心理を、一般常識で測ろうとするのが間違いだった」


陸は自分に言い聞かせるように、手帳を強く閉じた。


彼はまだ知らない。

”完璧な聖人”という仮面が、どれほど冷酷な地獄を隠し通せるものなのかを。

そして、その仮面を信じ切っている自分自身の”正義”が、どれほど律を絶望させているのかを。

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