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05

膝を擦りむき、血を流しながら座り込む少女を

前にして、(りつ)は激しい後悔に襲われていた。


関わるなと、あれほど自分に言い聞かせたはずなのに。


『……立てるか』


律は周囲を警戒しながら、ぶっきらぼうに問いかけた。

(りく)という刑事が、いつ戻ってくるか分からない。

事故の処理なんて、優秀な彼なら数分で片付けるだろう。

そうなれば、この路地裏もすぐに包囲される。


「……だいじょうぶ」


少女は掠れた声で答え、壁を伝って立ち上がろうとした。だが、傷口が痛むのか、すぐに顔をしかめて膝を折る。

彼女の持っていたキャラクターのキーホルダーが、コンクリートの上で虚しく跳ねた。


(クソっ、なんで俺が……)


律は舌を打ち、彼女の細い腕を乱暴に掴んで引き起こした。

驚くほど軽かった。

痣と火傷の痕が、指先に生々しく触れた。


『いいから、こっちに来い。捕まりたくないだろ』


少女は一瞬、抵抗するように身を強張らせたが、

律の瞳に宿る”自分と同じ色”を見たのか、

力なくその身体を預けてきた。


律は彼女を支えながら、さらに暗い、入り組んだ裏道へと潜り込んでいった。


一方で。

現場に戻った陸は、無人となった三番ブースに立っていた。

まだ温もりが残っている椅子。

放置された飲みかけの紙コップ。


「……惜しかったな。あと一歩だった」


同僚が悔しそうに壁を叩く。

だが、陸は怒ることもなく、静かにその空間を観察していた。

棚の隅に、一枚のレシートが丸めて捨てられている。陸はそれを手袋越しに拾い上げ、じっと見つめた。


「彼は焦っている。だが、決して自暴自棄にはなっていない。……このレシートの時刻。

スクーターの事故が起きる直前まで、彼はここで息を潜めていた」


陸の脳裏には、まだ見ぬ律の姿が明確な輪郭を持って描かれ始めていた。

親の愛を裏切り、逃亡を続ける冷酷な青年。

しかし同時に、陸にとっては”一刻も早く正しい場所に連れ戻さなければならない迷子”でもあった。


「陸さん、外の事故ですが、どうも不自然です。あんな場所でスクーターが転倒するなんて。

……もしかしたら、誰かが佐藤律を助けるために仕組んだんじゃないでしょうか?」

「……共犯者、か」


陸の目が、鋭く光る。

もしそうなら、事態はさらに深刻だ。

犯罪者同士が闇で傷を舐め合っているのだとしたら。


「それは”救い”じゃない。泥沼に沈み込むだけだ。……早く見つけてあげないと」


陸は本気で心配していた。

彼が提供できるのは、法律という名の”正義”と、更生という名の”矯正”だ。

それが、律にとって絶望の死刑宣告であることなど、彼は微塵も想像していない。


その頃。

律は、古びたコインランドリーの隅にあるベンチに、少女を座らせていた。

深夜のランドリーは無人で、乾燥機の回る単調な音だけが響いている。


『……名前、なんていうんだ』


律は自販機で買った水と消毒薬を彼女に差し出しながら尋ねた。

少女はしばらく黙っていたが、やがて小さく口を開いた。


「……ミナ」

『そうか。……俺は、……名前なんてない』


律は、父親が付けた自分の名前を否定した。

ミナは不思議そうに律を見上げ、それから自分の首元の痣を隠すように襟を合わせた。


「あなたも、追われてるの?」


その問いに、律は答えなかった。

答える代わりに、激しく回る乾燥機の中を見つめた。


(追われているんじゃない。俺は、あの”眩しい世界”から拒絶されているだけだ)


感情を殺さなければならない。

目の前の少女を憐れむことも、自分の境遇を嘆くことも、すべては弱さだ。


しかし、深夜のコインランドリー。

二人きりの、泥濘のような聖域で、律はほんの一瞬だけ、自分の手がまだ震えていることに気づいてしまった。


コインランドリーの乾燥機が吐き出す温風は、洗剤の安っぽい匂いが混じっていた。

律は、ミナがぎこちない手つきで膝の傷を拭うのを、ただ黙って見つめていた。自分の手は、まだポケットの中でナイフの柄を握っている。

いつでも逃げ出せるように、あるいは、いつでも誰かを排除できるように。


『……親か?』


律が唐突に投げかけた言葉に、ミナの肩が小さく跳ねた。

彼女は顔を上げず、ただ手に持ったキーホルダーを

強く握りしめた。その沈黙こそが、律にとっては肯定の意味だった。


「……家に戻ったら、殺される」


ミナの声は、乾燥機の回転音にかき消されそうなほど細かった。

”殺される”という言葉。

それを口にする時の彼女の瞳には、恐怖を通り越した、冷え切った諦念があった。


(……助ける義理はない。俺自身、追われている身だ)


理性がそう告げる。

だが、ミナの首元の痣や、冷たく強張っている指先が、律の”殺しきれていない感情”を逆なでする。


その時。

ランドリーの自動ドアが、重苦しい音を立てて開いた。


入ってきたのは、作業着を羽織った男だった。

一見すると、仕事帰りのありふれた労働者に見える。

しかし、その目は不自然なほど鋭く、店内の隅々を値踏みするように動いている。そして、ベンチに座るミナを見つけた瞬間、その口角が嫌な形に歪んだ。


「見つけたぞ、ミナ。お父さんが心配してる。

いい加減に帰ろうや」


男の言葉は穏やかだったが、その響きには粘りつくような執着が混じっていた。

ミナは息を呑み、律の背後に隠れるように身を縮めた。彼女の爪が律のパーカーの裾に食い込む。


『あんた、誰だ』


律は立ち上がり、男との間に割って入った。

体格では男の方が勝っている。

だが、律から放たれる殺気は、経験を積んだ大人をもたじろがせるほどに鋭かった。


「誰だっていいだろ、坊主。これは家族の問題だ。

部外者はすっこんでな」


男が懐に手を入れる。

”家族”という言葉の免罪符を使って、密室で行われる暴力。世間が”温かいもの”と信じて疑わない場所で、一人の人間が削り取られていく地獄。


(……本当に正しい正義なんて、どこにもない)


律は一歩踏み出し、ポケットからナイフを抜かずに、拳を固めた。

今ここで暴れれば、警察を呼ぶことになり、自分の逃亡生活は終わる。だが、この男にミナを引き渡せば、彼女の命は終わる。


その頃。

刑事の陸は、ネットカフェ周辺の監視カメラを執拗に追い続けていた。

そこで彼は、ある“不審な車両”が、律が逃げた方向へ向かっていることに気づく。


「……律くんを追っているのは、我々だけじゃないのか?」


陸の胸に、初めて小さな違和感が芽生える。

達也の血痕が映ったあの部屋の光景が、ふと脳裏をよぎった。


しかし、違和感は、すぐに胸の奥へ沈んでいった。


陸の中で、何かが静かに定まった。

「急ごう。彼が別の事件に巻き込まれる前に。

……それが、彼の“ため”だ」


陸はアクセルを踏み込む。

その“善意”が、律にとって、さらなる窮地になるとも知らずに。


男が懐から取り出したのは、鈍く光る金属──ナイフではなかった。

指の間に挟まれていたのは、

小さな透明な容器と、一本の注射器だ。


「暴れるなよ、ミナ。お父さんが言ってたぜ。

お前は少し”お休み”が必要だってな」


男の薄笑いを見た瞬間、律の視界が真っ赤に染まった。

それが何のための薬物なのか、律には知る由もない。だが、その光景は、理屈を超えた嫌悪感として律の全身を逆なでした。


”家族の問題”という皮を被った、

一方的な支配と蹂躙。


『……やめろ』


律の声は低く、地を這うような響きを帯びていた。

ミナは律の背中で、歯をガチガチと鳴らして震えている。彼女の小さな手が律の服を掴む力が、あまりに痛切だった。


「なんだ、坊主。正義の味方ごっこか?

もう一度言うが、お前みたいなガキが首を突っ込むんじゃねえよ。これは”教育”だ」


男が獲物を狙う蛇のように、じりじりと距離を詰めてくる。

律の右手が、ポケットの中のナイフを捉えた。

ここでこれを使えば、俺は名実ともに”連続した凶行”の主になる。警察が、喜んで自分に手錠をかける理由を増やすだけだ。


(……でも、ここで引けば、こいつは”あいつ”と同じ顔をして笑う)


律の中で、何かが切れた。


『教育? 笑わせるな』


律は一歩踏み出し、男の腕を掴もうとした。

しかし、男は慣れた手つきでそれをかわし、注射器を律の首筋へと突き出してきた。


鉄の匂いが鼻を突く。

律は間一髪で体を捻り、男の鳩尾に鋭い膝蹴りを叩き込んだ。


鈍い音が静かなコインランドリーに響く。

男が苦悶の声を漏らし、よろめいた隙に、律はミナの腕を掴んだ。


『走れ……!』


二人は夜の闇に飛び出した。

雨が降り始めていた。冷たい滴が、律の昂ぶった脳を冷やしていく。

背後で男の罵声が聞こえるが、振り返る余裕はない。


一方、数ブロック先の大通り。

陸のパトカーが、赤い散光式警光灯を回しながら低速で走行していた。


「陸さん、この先の裏路地で不審な男女の争いがあったと通報が入りました」

「律くんか?」


陸の表情が引き締まる。

彼が思い描く律は、常に”自分勝手な理由で他者を傷つける青年”だ。今の騒動も、律が潜伏のために誰かを襲ったのではないか。

そんな疑念が、陸の正義感をさらに燃え上がらせる。


「急ごう。これ以上、被害者を増やしてはいけない。彼を止めることが、彼を救う”唯一の手段”だ」


陸はアクセルを優しく踏んだ。その手元には、いざという時のための手錠が備えられている。

彼にとって、律は”一刻も早く更生施設に入れるべき、道を踏み外した子供”でしかなかった。


雨に打たれながら、律とミナは崩れかかった高架下まで辿り着いた。

ミナは激しく咳き込み、地面に手をつく。


「……ごめん、なさい。わたしのせいで」


ミナの謝罪を聞きながら、律は自分の手の震えを見つめていた。

人を殴った感触。喉元をかすめた注射器の恐怖。

そして、なぜ自分がこんなにも必死にこの少女を守ろうとしているのかという、説明のつかない苛立ち。


『謝るな。……俺は、あんたを助けたんじゃない。あいつの顔が、気に入らなかっただけだ』


律は冷たく言い放ち、雨空を見上げた。


感情を殺したはずなのに。

正義からも、悪からも追われるこの暗闇の中で。

律の胸に、黒い感情が滲んだ。


高架下に叩きつける雨音は、世界中の音を塗り潰そうとしているかのようだった。

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