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04

泥だらけのアスファルトの上に、手垢のついた、

小さなキーホルダーが落ちていた。

何の変哲もない、子供向けのキャラクターものだ。


律はそれを見た瞬間、喉の奥が引き攣れるような感覚に襲われた。理由はない。

ただ、誰かが大切に持っていた”平和な日常の象徴”が、今の自分の足元にあることが耐え難かった。


「……返して」


少女が震える手でそれを拾い上げた。

街灯の薄明かりの下、彼女の顔が見えた。


(りつ)と同じくらいの年齢か、あるいは少し下か。

顔の半分を大きなマスクで覆い、瞳には生気がない。

律は彼女の首元に、隠しきれていない”痣”のようなものを見た気がしたが、すぐに視線を逸らした。


(関わるな。何も見るな)


自分は人殺しだ。他人の事情に首を突っ込む資格も余裕もない。


律は彼女を無視して通り過ぎた。

背後の荒い呼吸が、耳にまとわりつく。

律は歩を早めた。



一方、捜査本部の(りく)は、律の”足取り”を冷徹に分析していた。

律が潜伏していると思われるエリアの地図を広げ、陸はペンでいくつかの地点を囲む。


「彼は孤独に強いわけじゃない。ただ、他人に怯えているだけだ」


陸は呟く。陸にとって、律の逃走は”罪からの逃避”であり、一種のわがままだ。

親の愛を受けながら、それを暴力で断ち切った青年。

陸は、彼を法の手続きに乗せることだけが正しいと信じていた。


「陸さん、このエリアのネットカフェを重点的に回りますか?」

「ああ。彼は潜る場所を探しているはずだ。……佐藤律。君がどんなに闇に隠れようとしても、光は必ず届くんだよ」


陸の目には、律は可哀想な、“教育し直すべき失敗作”に映っていた。


深夜のネットカフェ。

律は狭いブースの中で、壁に背を預けていた。


薄い壁の向こうからは、他人のいびきやキーボードを叩く音が聞こえてくる。

さっきの少女の、死んだような瞳が脳裏に焼き付いて離れない。


『……うるさい』


律は耳を塞いだ。

押し潰したはずの鼓動がまた暴れ始め、心臓の鼓動が嫌に大きく響く。

警察が自分を追っていることも、世間が自分を化け物だと思っていることも分かっている。


それでいい。

人間なんて、信じなければ傷つくこともない。


律はポケットの中で、十円玉を強く握りしめた。

その硬い感触だけが、今の彼が信頼できる唯一の現実だった。


ネットカフェのブースは、棺桶のような狭さだった。

換気扇の回る単調な音と、隣のブースから漏れてくるスナック菓子を噛み砕く音。律はその不快なノイズの中で、浅い眠りを繰り返していた。


ふと、入り口の自動ドアが開く音がした。

いつもなら聞き流す音だ。だが、その後に続く”歩調”が、これまでの客とは決定的に違っていた。


迷いのない、床を踏みしめる軍靴のような響き。


(……まさか)


律は反射的に身を固くした。


感情を殺す訓練はしてきた。だが、生存本能までは殺しきれない。


律はブースの隙間から、入り口の方を盗み見た。


そこに立っていたのは、清潔感のあるスーツを着こなした若い男たちだった。


警察だ。


彼は店員に何らかの書類──おそらくは律の顔写真を見せ、穏やかな、しかし拒絶を許さないトーンで話しかけている。


「……あ、昨日、似たような子が来ましたね。確か、三番ブースに」


店員の声が、静かな店内に響いた。

律の心臓が、跳ね上がる。

三番。自分が今いるブースだ。


「ありがとう。少し、話を聞かせてもらってもいいかな」


陸の通る声が聞こえる。その声には、犯罪者を追い詰める刺々しさは微塵もなかった。

むしろ、迷える羊を探しに来た牧師のような、厚かましいほどの”善意”が満ちていた。


(……ふざけるな。くるな)


律は音を立てないよう、慎重に荷物を掴んだ。


陸がこちらへ歩き出す。一歩、また一歩。

陸の足音が近づく。

律にとって、それは暴力そのものだった。


陸がブースのカーテンに手をかける寸前。

店外で大きな衝突音が響いた。

スクーターが転倒し、誰かが叫んでいる。

野次馬が寄り集まる気配。


陸は一瞬、眉をひそめて入り口を振り返った。


「陸さん、外で事故です! 応援を!」


無線機から漏れる後輩の声。

陸は律のいるブースを一度だけ見つめ、迷った末に、外へと駆け出していった。


その隙を、律は見逃さなかった。

裏口の非常階段を駆け下り、夜の冷気に飛び込む。

心臓の鼓動が耳の奥でうるさいほどに鳴っている。


『……ハァ、ハァ……ッ』


路地裏に逃げ込んだ律は、壁に背を預けて崩れ落ちた。

助かった。だが、もうここは安全ではない。

警察は間違いなく、自分の”匂い”を嗅ぎつけている。


「……あ」


視線の先に、誰かがいた。


ゴミ捨て場の陰にうずくまっている、あの時の少女だ。

彼女は、先ほどの事故の原因となったスクーターの

持ち主だったのか、膝を擦りむいて血を流している。

その手には、あの手垢のついたキーホルダーが握られていた。


助けるべきか。

いや、見捨てるべきだ。


だが、足が止まった。


陸という”眩しい正義”から逃げ出した自分と、暗闇にうずくまる彼女。

同じ泥濘の中にいる者同士の、言葉にならない共鳴が、律の足を止めていた。


『……あんた、それ。また落としてるぞ』


律の声は、自分でも驚くほど低く、震えていた。


少女は顔を上げ、怯えたような、それでいて何かを期待するような瞳で律を見つめた。


これが、律の逃亡劇に”他者”という名の不確定要素が混じり込んだ瞬間だった。

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