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──数時間後。
激しい雨が、すべての火を消し止めた。
焼け跡の地下、冷たい土と煤にまみれた空間で、陸は意識を取り戻した。
全身に火傷の激痛が走る。
だが、腕の中には、まだ微かに、けれど確かな心拍を刻む律の体があった。
律の肌を覆っていた”青い血管”の浮き出しは、死に瀕したショックのせいか、あるいは極限の熱によるものか、驚くほどに引いていた。
「……律。……おい、律」
『……ん、……ぅ……』
律が、ゆっくりと目を開ける。その瞳から、あの不気味な赤い光は消えていた。
ただの、疲れ果てた17歳の青年の、濁りのない瞳。
『……おじさん。……ここ、……地獄?』
「……いいや。……地獄を通り抜けた先の、……誰もいない場所だ」
陸は、這いずるようにして地下穴から這い出した。
目の前には、雨に洗われた真っ暗な森が広がっている。
背後の山小屋は、もはや影も形もない。
天野陸も、長谷川陸も、死んだ。
佐藤律も、長谷川律も、灰になった。
ここに残されたのは、ただの”男”と”子供”だけ。
陸は、律を背負い、再び歩き出した。
目的地はない。
名前も、未来もない。
ただ、この鼓動が止まるまで、二人で”無”の中を歩き続けること。
それが、ここまで積み上げてたどり着いた、二人の本当の”自由”だった。
あの炎の夜から、どのくらいの月日が流れたのか。
意識の混濁の中で、陸が唯一感じていたのは、絶え間なく続く不規則な”揺れ”と、肺の奥まで侵食してくるような、湿った潮騒の音だった。
夢を見ていた。
自分がまだ刑事だった頃の夢だ。
取り調べ室の冷たい空気、安っぽいコーヒーの匂い。
そして、目の前で無表情に座る、かつての”佐藤律”。あの日、自分がかけた手錠の感触だけが、唯一の現実であるかのように指先に残っていた。
だが、その夢はいつも最後には、真っ赤な炎に包まれて終わる。律を抱きしめ、熱風に焼かれながら地下へ落ちていく瞬間の、あの絶望的なまでの”熱”が、陸の意識を現実へと引き戻した。
目を開けると、視界に飛び込んできたのは、腐食した木の天井と、隙間から差し込む鋭い日差しだった。
そこは、地図から消された小さな離島にある、かつての漁師の廃屋だった。
四方を荒れ狂う海に囲まれ、冬の北風が常に家全体をきしませている。ここはかつて、陸が若手刑事だった頃に追い詰めた、ある密航組織が中継地点として使っていた場所だ。
法を執行し、悪を裁く側だった自分が、今はその法の外側に、そしてかつて自分が”地獄”と呼んだ場所に救われている。
その皮肉に、陸は乾いた笑いを漏らそうとしたが、喉が焼けるように痛んで声にならなかった。
『……起きたの、おじさん』
枕元で、聞き慣れた、けれど以前よりも少しだけ低く、落ち着いた響きを持つ声がした。
陸が重い首を動かして視線を向けると、そこには古びた木製の椅子に座り、小さなナイフで流木を削っている律の姿があった。
逆光の中に浮かび上がる律の横顔。
かつて”最高傑作”と称されたあの左右対称の美しい貌には、消えない傷が刻まれていた。あの山小屋の炎で負った火傷の跡が、左の頬から首筋にかけて、赤黒い地図のように薄く残っている。
整形で作られた、あの人形のような偽りの完成度は損なわれていた。だが、その不完全な傷跡こそが、彼が”佐藤達也の所有物”という記号を焼き捨て、泥臭い一人の人間として、陸と共に地獄を歩み抜いた証のように見えた。
「……律。……生きて、いたんだな。私たちは」
陸の声は、砂を噛んだように掠れていた。
律は削っていた木片を床に置き、そばに置かれた古びた鍋から、湯気の立つスープを木製のボウルに注いだ。
『死ぬ暇がなかっただけだよ。あんたが、高熱でうなされながら、俺の手をずっと握りしめて放さないから。………離したら、あんたまで死んじゃいそうで、俺、三日間ずっとここに座ってたんだよ』
律はそう言って、少しだけ困ったように、しかし穏やかに微笑んだ。
陸は体を起こそうとしたが、背中から右腕にかけて走る凄まじい激痛に、思わず息を呑んで顔を歪めた。
包帯の下にあるのは、あの時、炎から律を庇い続けた際に負った広範囲の火傷だ。皮膚が剥がれ、肉が焼ける痛みに耐えながら、陸は自分の掌を見た。
右手の指先は、もういつつけたかも分からない傷と火傷が混ざり合い、もはや元の形が分からないほどに変形している。
だが、その不自由な手の中に、律の体温が残っている。それだけで、陸の心は奇妙な安らぎに満たされていた。
「……ここは、……どこだ」
『どこでもない場所。……一週間に一度、本土から頼みもしない物資を運んでくる、耳の遠い老人が一人いるだけ。
……警察も、あいつの残党も、まだここには来ない。……嵐が、自然が僕たちを守ってくれてる』
律が差し出したスープを、陸は震える手で受け取った。
具のない、塩辛いだけのスープ。
しかし、それはどんな高級料理よりも、生きている実感を与えてくれた。
『……おじさん。俺ね、この島で、あんたが眠ってる間ずっと考えてたんだ』
律は立ち上がり、窓の外に広がる、どこまでも深く、どこまでも残酷な青さを湛えた海を見つめた。
冬の潮風が室内に入り込み、律の少し伸びた髪を揺らす。
『……俺たちの戦いは、あのアパートや、学校で終わったわけじゃない。……俺が、この呪われた体を持って生きている限り、佐藤達也の影は、この世界から消えないんだって。……あいつは、死んでなんかいない。俺の細胞の一つひとつの中に、今も生きて、俺を操ろうとしている』
陸は、空いた方の手で、律の細い肩を力強く掴んだ。
その肩は、以前よりも少しだけ硬く、逞しくなっているように感じられた。
「……なら、何度でも逃げよう。……名前を捨て、顔を焼き、地獄の最下層まで潜り込んででも、私は君を生かしてやる。……君が、君として死ねるその日まで、私は君の”盾”になる」
『……ううん。……もう、逃げるのはやめよう、おじさん』
律がゆっくりと振り返った。
その瞳には、かつての絶望や虚無感ではなく、自らの運命を、そして己の中に眠る”怪物”を見据える、静かな決意が宿っていた。
『……俺、自分の中にいる「あいつ」と、ちゃんと話をすることにしたよ。……父親が作ったこの力も、この知性も、……全部、あいつが残した残骸を、この世界から一つ残らず消し去るために使う。
……それが、俺が”普通”になれなかった代わりの、俺なりの落とし前だから』
陸は、律のその強い眼差しに圧倒された。
膝を抱え、一人で寂しく泣いていた、救われるべき青年は、もはやいない。
ここにいるのは、己の呪いを受け入れ、それを最大の武器に変えようとする、一人の戦士だった。
島での隠遁生活は、静かだが、魂を削り取るような厳しさに満ちていた。
陸の火傷が少し癒え、松葉杖なしで歩けるようになるまでの数ヶ月間、二人は自給自足に近い生活を送りながら、来るべき”その時”に備えていた。
冬の終わりの荒い潮風が吹き付ける砂浜。
陸は、かつて刑事として培った制圧術や、逃亡生活の中で身につけたサバイバル技術のすべてを、律に叩き込んでいた。
それはもはや、親が子に教えるような温かな教育ではない。
いつか自分が隣にいなくなったとき、この青年がたった一人で世界と、そして自分自身の”呪い”と戦い抜くための、血の通った武器を授ける儀式だった。
「……重心が高い。……律、右脚の踏み込みが甘いぞ」
陸の鋭い声が飛ぶ。
律は砂を蹴り、陸の懐へと飛び込んだ。
その動きは、佐藤達也が設計したあの無機質で完璧な”傑作”のそれとは異なり、どこか人間的な焦燥と、必死の熱を帯びていた。
『……っ、分かってるよ……おじさん! ……あんたこそ、怪我人のくせに、相変わらず手が早すぎるんだよ……!』
律は陸の右腕を絡め取り、関節を決めようとする。だが、陸はその動きを最小限の予備動作でいなし、逆に律の首筋を制して砂の上に押し倒した。
どさり、という鈍い音と共に、二人の体が砂浜に重なる。
荒い吐息がぶつかり合い、舞い上がった砂が陸の頬の傷跡に付着する。
「……殺すつもりで来いと言ったはずだ。……相手は、君を人間だと思っていない連中なんだぞ。……迷いは死に直結する」
『……殺せるわけないでしょ。……あんたを殺したら、……俺、本当に独りになっちゃうんだから』
律が、陸の腕の中で力なく笑った。
砂まみれになりながら見上げる冬の空は、どこまでも高く、残酷に透き通っている。
法も、正義も、名前もないこの孤島で、二人は初めて”自分が自分として生きている”という、ヒリつくような全能感と幸福を共有していた。
誰からも定義されず、ただの”男”と”青年”として、互いの体温だけを頼りに生きる日々。それは、彼らの人生において最も穏やかで、最も危険な平穏だった。
だが、その平穏の裏側で、律の肉体は確実に悲鳴を上げていた。
その夜
廃屋の片隅、月明かりだけが差し込む冷たい部屋で、律は一人、鏡の前に立っていた。
ボタンを外したシャツの隙間から、自分の胸元を覗き込む。
『……っ、……まただ』
そこには、あの山小屋の炎以来、不気味な脈動を強めている一筋の”青い血管”があった。
血管は単に浮き出ているのではない。
まるでそれ自体が独立した意志を持っているかのように、律の心臓の鼓動とはわずかに異なるリズムで、ドクン、ドクンと嫌な熱を持って波打っている。
その血管が伸びる先は、首筋へ、そして脳へと向かっている。
佐藤達也が遺した”最終プログラム”は、あの炎のショックで消え去ったわけではなかった。それは、より深く、より狡猾に律の神経系に根を張り、静かに”羽化”の時を待っている。
次にこのプログラムが完全に発動したとき、自分は果たして『自分』でいられるだろうか。
それとも、市川の首に手をかけたあの時のように、愛する者の体温を”情報”としてしか認識できない、完全な”怪物”へと成り果てるのだろうか。
律は震える指先で、その血管を強く押し潰した。
鈍い痛みが走り、視界が一瞬真っ赤に染まる。
(……時間は、もうあまりないのかもしれない)
陸には決して見せないように、律は急いでシャツのボタンを一番上まで留めた。
彼に心配をかけたくないのではない。
もし、陸がこの異変に気づけば、彼は間違いなく自分を”終わらせよう”とするだろう。あの日、山小屋で交わした沈黙の約束を果たすために。
だが、今の律にはやり残したことがあった。自分を作った男が遺した、この世に蔓延る毒の数々を、自らの手で一つ残らず刈り取ること。それが、自分という過ちを生み出した”お父さん”への、唯一の復讐であり、自分を救ってくれた陸への、唯一の報恩だ。
「……律。まだ起きているのか」
背後から、陸の声がした。
律は鏡を隠すように振り向いた。そこには、使い古されたナイフを研いでいた陸が、心配そうな表情で立っていた。
『……ううん。……ちょっと、海が綺麗だったから見てただけ』
「……そうか。……あまり夜更かしはするな。明日は、島の反対側まで歩くぞ。本格的な野営の訓練だ」
『……分かったよ、鬼教官』
律はわざとおどけてみせ、陸の側を通り抜けようとした。
その時、陸が律の腕をそっと掴んだ。
「……律。……何か隠していないか?」
陸の目は、かつての敏腕刑事のそれに戻っていた。
誤魔化しようのない、見抜くための眼差し。律の心臓が、喉元まで跳ね上がる。
『……隠してなんてないよ。……ただ、……ちょっとだけ、不安なだけ。……俺、本当に、普通の人間になれるのかなって』
それは、半分は嘘で、半分は痛切な真実だった。
陸はしばらく律を見つめていたが、やがて掴んでいた力を緩め、その頭を大きな掌で無骨に撫でた。
「……”普通”になんて、ならなくていい。……君は、君のままでいろ。……もし、君の中の怪物が暴れ出したときは、私がその喉元を掻き切ってやる。……だから、お前は前だけを見ていろ」
『…………。……うん。……ありがとう、おじさん』
律は、陸の胸に一瞬だけ額を預けた。
そこから聞こえる、陸の規則正しい、力強い心音。
自分の中の”青い血管”が刻む不吉なリズムを、その音が一時的にでも打ち消してくれるような気がした。




