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(りく)は、(りつ)の額に自分の額を合わせた。

震えるナイフの先が、律の細い胸元に触れる。

ここを突けば、律は佐藤達也(たつや)の呪縛から解き放たれ、永遠の”普通”を手に入れることができる。だが、それは同時に、陸が自分自身の”魂”を殺すことでもあった。


二人の逃避行は、今、最も過酷で、最も残酷な、しかし世界で一番静かな”愛の証明”の瞬間を迎えようとしていた。


山小屋の周囲を取り囲む軍靴の音が、雨音を切り裂いて近づいてくる。

陸は、膝の上で”怪物”への変貌に喘ぐ律を抱きしめたまま、背後の壁に立てかけてあった数本の予備燃料の缶を見つめた。


『……おじ、さん。……来ちゃう、よ。……俺を、連れ戻しに……』


律の瞳は、もはや焦点が定まっていない。

しかし、その指先だけは、陸の作業着の袖を、まるで生きるための唯一の命綱であるかのように強く掴んでいた。


陸は決断した。

逃げるのではない。

この場所を、自分たちの”過去”の終着駅にするのだ。


「律。……目をつぶっていろ。……熱いのは、一瞬だけだ」

『……え……?』


陸は立ち上がり、右手の包帯を歯で引きちぎった。

コップを握り割った時の傷跡が開き、再び鮮血が滴り落ちる。その血で滑る手で、陸は燃料缶のキャップを次々と抉じ開けた。

ドボドボと、刺激臭の強い液体が古い板間に広がっていく。律の制服に、陸のスーツに、そして二人が数日間寄り添い合った毛布に。


『……おじさん、これ……』

「……あいつらに、君の指先ひとつ触れさせない。……佐藤達也の『最高傑作』は、ここで、私と一緒に灰になるんだ」


陸はポケットから、あの日、廃墟で包帯男から奪い返した古いライターを取り出した。


外から、拡声器を通した声が響く。

「天野陸! ”佐藤達也の最高傑作”である佐藤律を解放し、投降しろ! 抵抗は無意味だ!」


陸は鼻で笑った。

「無意味なのは、お前たちの”正義”だ」


カチッ、と小さな火花が散る。

その瞬間、気化したガソリンに火が走り、山小屋の内部は一気にオレンジ色の猛火に包まれた。


『……っ、熱っ……!』

律が顔を背ける。陸は燃え盛る毛布を律の体に被せ、自分もその中に潜り込んだ。

熱気が肺を焼き、視界が白く爆ぜる。


だが、その炎のカーテンの向こう側で、陸は確かな確信を得ていた。

この炎が、律の体内の”異常な細胞”を焼き尽くすことはできないかもしれない。

しかし、この地獄のような熱量こそが、律の中に眠る”怪物”を唯一眠らせる、強烈なショック療法になるはずだと。


「……律。……地獄へ行こう。……名前も、顔も、戸籍も、全部ここで焼いてしまえ」


陸は、炎の中で律の耳元に囁いた。

そして、板間の下──かつて猟師が獲物を解体するために使っていたという、地下の暗い”貯蔵穴”の蓋を蹴り開けた。


「……飛ぶぞ」


二人は、燃え盛る山小屋が崩壊する直前、その深い闇の穴へと身を投げた。


ドォォォォォンッ!!


背後で、燃料缶が誘爆し、山小屋全体が巨大な火柱となって夜空を焦がした。


駆け寄った追手たちが見たのは、骨組みまで焼き尽くされ、真っ赤な溶岩のようになった廃屋の残骸だけだった。

この熱量の中で、人間が生きているはずがない。

ましてや、重傷を負った元刑事と、崩壊寸前の青年など。

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