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廃墟の屋上、叩きつけるような雨が、二人の男の視界を遮る。
陸は、包帯を巻いた右手を固く握りしめた。砕けたガラスが食い込み、掌からは熱い血が溢れ出していたが、痛みはむしろ研ぎ澄まされた殺意を加速させるスパイスに過ぎなかった。
「……あの子に、何を植え付けた」
「植え付けた? 心外だな。あれは最初から律の中にあったものだ。”愛”や”平和”という名の蓋を無理やり被せていただけに過ぎない」
天野がメスを構え、影のように滑り出す。
陸は、かつて兄が愛した、そして今は自分が握る折りたたみナイフを一閃させた。金属同士が火花を散らす。整形で作られた陸の新しい顔が、怒りと雨によって歪み、その下から”執念の塊”のようなかつての刑事が剥き出しになる。
「……お前に、あの子の何がわかる!律は……あの子は、昨日、アイスを食べて笑ったんだ! 17歳の、ただの子供としてな!」
「それが冒涜だと言っているんだ、陸!!」
二人の影が激しく交錯する。陸の肩が裂かれ、包帯男の脇腹をナイフが抉る。
互いに血を流しながら、陸の脳裏には今朝見送った律の、あの震える背中だけが焼き付いていた。
一方、学校の教室は、もはや日常の面影を失っていた。
『……ぁ、あああ……っ!!』
律は自分の頭を何度も床に打ち付け、内側から溢れ出す”殺戮の衝動”を物理的な痛みで押し殺そうとしていた。
視界は完全に真っ赤に染まり、クラスメイトたちの悲鳴さえも、解剖すべき生物の”断末魔のサンプル”として脳が自動的に解析してしまう。
「長谷川くん、やめて! 誰か、男の先生を呼んで!」
市川が、震える手で律の肩に触れようとした。
その瞬間、律の”本能”が弾けた。
超人的な速度で市川の腕を掴み、床に組み伏せる。律の右手が、無意識にペンケースから取り出したどこにでもあるようなシャーペンを、凶器の角度で握りしめ、彼女の頸動脈へと突き立てようとした。
『……市川、さん……逃げ……ろ……』
涙と鼻血で顔を汚した律が、消え入るような声で漏らす。
殺したい。いや、殺したくない。
脳を支配する佐藤達也の”呪い”と、この数週間で陸から与えられた”人間”としての記憶が、律の精神を真っ二つに引き裂いていた。
律が自分の本能に必死に抗っていた頃、
廃墟では、陸のナイフが包帯男の喉元を捉えた。
「……終わりだ。兄さん。……お前も、佐藤達也も、あの子の未来には必要ない」
「……はは。……行けよ、陸。……地獄の門が、学校で開いているぞ……」
陸は天野を突き飛ばし、返り血を拭うこともせず、雨の中に飛び出した。
「律! 律!!」
刑事時代にも出したことのない速度で、彼は街を駆けた。
信号も、通行人も、自分の正体も、もうどうでもよかった。
今、この瞬間にあの子の手を握り直さなければ、自分の人生のすべてが、あの洞窟で死んだことと同じになる。
教室では、律のシャーペンの先が、市川の柔らかな皮膚を微かに切り裂いた。
一筋の鮮血が流れる。
その血の匂いが、律の中の”怪物”を完成させようとした──その時だった。
「……律!!!!!」
教室の扉が、蝶番ごと吹き飛ぶような勢いで開かれた。
そこに立っていたのは、返り血と泥にまみれ、整形で作られた”優しい父”の顔を激しい怒りと悲しみで塗り潰した、本物の天野陸だった。
律は、その声に弾かれたように顔を上げた。
怪物と化してしまった者の瞳の中に、一瞬だけ、”17歳の息子”の光が戻る。
『……お父、さん……? ……助けて……俺、また……』
陸は迷わず、パニックに陥る生徒たちをかき分け、市川を組み伏せていた律に飛びついた。そして、シャーペンを凶器として握る律の右手を、自分の左手で──手錠で繋がれていたあの時よりも強く、力一杯に握りしめた。
「……いいんだ、律。……もう、いい。……私が来た」
陸は、血まみれのまま律を抱きしめた。
周囲からは悲鳴が上がり、遠くからサイレンの音が聞こえてくる。
律は陸の胸の中で、シャーペンを落とし、崩れるように泣き崩れた。
『……ごめんなさい、お父さん。……俺、俺、”普通”になれなかった……』
「……馬鹿野郎。……こんなに苦しんでるお前は、誰よりも……最高の普通の人間だよ」
雨の匂いと、鉄の匂い。
そして、偽りの生活の中でようやく手に入れた、本物の”家族”の体温。
学校という聖域は壊れた。
日常という名の擬態も、今ここで幕を閉じた。
しかし、血まみれの腕の中で震える律を感じながら、陸は二度とこの手を離さないと、改めて自分の中の神に誓った。
あの日、返り血に染まった教室からどうやって逃げ延びたのか、陸の記憶はひどく断片的だ。
ただ、パニックに陥る生徒たちの悲鳴が頭を突き抜け、遠くから迫るサイレンの音が、まるで自分たちの寿命をカウントダウンする鼓動のように聞こえていたことだけを覚えている。
泥だらけになった律を抱え、裏山の斜面を無我夢中で駆け上がったとき、陸の心にあったのは”正義”でも”逃走”でもなく、ただ”この小さな体温を少しでも冷たくしたくない”という、原始的な本能だけだった。
それから、三日ぐらいが経っただろう。
二人は、県境を越えた先にある、地図にも載っていない廃村の山小屋に身を潜めていた。
かつて整形で手に入れた陸の”新しい顔”は、今や逃走中の傷と泥、そして拭いきれない疲労にまみれ、皮肉にもかつての”天野陸”が持っていた、獲物を追う獣のような凄みを取り戻していた。
しかし、その眼差しが向く先は、常に板間の上で震える一人の青年だった。
「……律。水を飲め。一口でいい、無理にでも胃に入れないと、心が先に死ぬぞ」
陸は、雨漏りを受けるために置いた錆びたカップを拾い、水を律の唇に寄せた。
律は、横たわったまま力なく首を振った。
あの日、教室で強制的に発動した”再構築プログラム”の反動は、想像を絶する暴力となって青年の肉体を内側から破壊し始めていた。律の透き通るような肌の下では、血管がどす黒く蛇のようにのたうち回り、時折、意思に反して筋肉が鋼のように硬直しては、律の喉から掠れた悲鳴を絞り出す。
『……お父、さん。……俺の体の中で、……何かが、……ずっと、壊れていく音がするんだ。……パキパキって、……氷が割れるみたいな音が、頭の中に響いて……』
「……壊させない。私が、必ず治してやる。……また、別の医者を探そう。闇の医者でも、佐藤達也の組織を裏切った科学者でもいい。世界中を歩いてでも、あいつの呪縛を解ける奴を見つけ出してやる」
陸の言葉は、自分自身を鼓舞するための空虚な響きを持っていた。
陸が持ち込んだ古いラジオが、激しいノイズを吐き出していた。ダイヤルを慎重に回すと、砂嵐の向こうから、聞き慣れた全国ニュースの旋律が掠れた声で漏れ聞こえてくる。
《……死、死亡したはずの、天野陸元警官と……その共犯者……佐藤……律、の生存が……。警察は、高度な訓練を受けた……極めて危険な個体として……》
混線し、途切れ途切れに聞こえるその声は、かえって世界中の人間が自分たちを包囲し、呪っているような錯覚を抱かせた。
かつて陸は「自分たちは死人として書類に閉じられるだろう」と言った。だが今、その書類は無理やりこじ開けられ、ノイズにまみれたスピーカーを通して、律を再び”怪物”という檻の中に引きずり戻そうとしている。
律は、感情の消えた瞳でラジオを見つめていた。ノイズの隙間から聞こえるのは、自分の死を願う世界の呼吸だ。
世界はこんなに広いくせに。電波が届かないこの山小屋の、湿った床の上以外、自分たちが”人間”として立っていい場所なんて、最初からどこにも用意されていなかった。
世界は再び、二人を”人間”ではなく、駆除すべき”怪物”として定義し直していた。
かつての同僚たちが、今この瞬間も自分たちの首に懸賞金をかけ、銃を構えて山を包囲しようとしている。
『……ねえ、……おじさん』
律が、熱に浮かされた瞳で陸を見上げ、久しぶりに「おじさん」と呼んだ。
その懐かしくも不吉な響きに、陸の心臓が警鐘を鳴らす。
『……あの学校でさ、……市川さんとトマトを交換したとき。……俺、本当に、自分が『長谷川律』っていう、ただの高校生になれた気がしたんだ。……あいつの実験体じゃなくて、誰かの隣にいてもいい、普通の17歳に。……あれ、嘘じゃなかったよね? 夢じゃなかったよね?』
「……ああ。嘘じゃない。……君は、あそこにいた誰よりも必死に、不器用に、美しく”普通”になろうとした。……その三週間の記憶は、佐藤達也にも、警察にも、神様にだって奪わせない。……私が、この命に代えても証明してやる」
陸は、律の骨が浮き出た、驚くほど細くなった手を握りしめた。
かつて手錠で繋がれていたときよりも、その手は遥かに冷たくなっている。
陸は悟っていた。
自分たちがどれだけ名前を変え、顔を変え、遠くへ逃げたとしても、律の体の中に刻まれた”血の設計図”だけは、どこまでも、死の淵まで追いかけてくるのだと。
佐藤達也という男は、死してなお、律の肉体という檻の中に君臨し続けていた。
『……おじさん。……約束、覚えてる? ……俺が、人間じゃなくなったら……俺を、解剖していいよって』
「そんな不吉な約束、した覚えはない!」
『……嘘つき。……俺を一番、理解してるのは、……おじさんだけだって……あのアパートで言ったじゃん。……あの日、手錠をかけてくれたときから、俺の最期は、……あんたが決めるって……決まってたんだよ』
律の瞳に、不気味な赤い光が混じり始める。
”怪物”への強制的な進化。律の意識が、再び、周囲を屠殺場へと変えたあの”捕食者”の闇に飲み込まれようとしていた。
律は、最後の人間としての理性を振り絞って、陸の手首を強く──骨が軋むほどに強く、掴んだ。
『……俺が、……俺じゃなくなる前に。……市川さんを殺しそうになった、あの『怪物』に戻る前に。
……おじさんの手で、……終わらせて。……お願い。……おじさんの手なら、……痛くないから』
律の頬を、一筋の涙が伝い落ちた。
それは血の混じった、どす黒い涙だった。
山小屋の外では、枯れ葉を踏みしめる軍靴の音が、刻一刻と近づいていた。
警察ではない。もっと冷酷で、私的な殺意を持った集団。佐藤達也の”遺産”を回収しに来た掃除人たちか、あるいは執念で生き長らえた包帯男の刺客か。
陸は、腰のホルスターに差した、あの折りたたみナイフに手をかけた。
だが、その刃を向けるべき相手は、外にいる”社会という名の敵”なのか。
それとも、自分の腕の中で『死なせてくれ』と懇願する、この世界でたった一人の『息子』なのか。
「……律。……すまない」




