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それは、律がようやく『長谷川律』としての呼吸に慣れ始めた、ある放課後のことだった。
部活動の活気ある声が校庭から響き、西日が教室を長く、不吉なオレンジ色に染め上げている。律は帰り支度をしながら、隣の席の市川と、今夜のテレビ番組の話という”極めて高度な擬態”をこなしていた。
「あ、そうだ長谷川くん! さっき校門のところに、誰か来てたよ。長谷川くんのお兄さんかな?」
市川の何気ない一言に、律の指先が止まった。
心臓の鼓動が、警鐘のように耳の奥で鳴り響く。陸は今、運送会社の仕事に出ているはずだ。そして、陸以外に”家族”と名乗る者など、この世界にいるはずがない。
『……え? 兄さんなんて、いないけど……』
「え、でも、すごく雰囲気似てたよ? ほら、あそこに立ってる人……」
市川が窓の外を指差した。
校門の影。西日の逆光の中に、一人、異様なシルエットが佇んでいた。
トレンチコートの襟を立て、顔の半分を包帯……ではなく、今は”大がかりな医療用のガーゼ”で覆い、黒いサングラスをかけた男。
その男は、律の視線に気づいたかのように、ゆっくりと手を振った。
──天野。
陸の実の兄であり、律の”先代”である、あの地獄の生存者。
「……長谷川くん? 知り合い……だよね? 行かなくていいの?」
市川が不思議そうに律を覗き込む。彼女の瞳には、何の疑いもない。ただの”親切なクラスメイト”の瞳だ。
『……あ、ああ。……そうだった。従兄弟が、こっちに来るって言ってたのを忘れてた』
律は、喉の奥までせり上がってきた嘔吐感を必死で飲み込み、歪な笑顔を作った。
(……ここで逃げたら、こいつは学校の中まで入ってくる。市川や、他の生徒を巻き込むわけにはいかない)
律は、震える足で校庭へと踏み出した。
校門の外。男は、律が近づくと、サングラスの奥から爛々と輝く狂気の瞳を向けた。
「……やあ、律くん。……いいや、今は『長谷川律』くんだったかな?」
『……何しに来た。ここは、あんたが来る場所じゃない』
律は、周囲に聞こえないよう、押し殺した声で告げた。
天野は、不気味に肩を揺らして笑った。
彼の首筋には、あの日、洞窟で律が流木で焼き払ったはずの火傷の痕が、醜いケロイドとなって残っている。
「冷たいじゃないか。……私は君の”兄”だぞ? 佐藤達也という神が作った、同じ血筋の兄弟だ。……陸という偽物の父親よりも、私の方がずっと君を理解しているというのに」
天野は、一歩、律に歩み寄った。
その瞬間、律の脳内にある”傑作”としての本能が、最大級の警戒信号を発する。
天野の体からは、血と、薬品と、そして深い”死”の匂いが漂っていた。
『……あいつに、何をした』
「陸か? 安心しろ、まだ何もしていない。……だが、君がいつまでもこの”ごっこ遊び”を続けるなら、保証はできないな。……律、君は知っているはずだ。君の体の中に仕掛けられた、佐藤達也の”最終プログラム”のことを」
律は息を呑んだ。
最近、夜中に感じる心臓の異常な脈動。
視界が突然、真っ赤に染まる感覚。
それを、律は”疲れ”だと思い込もうとしていた。
「……私がここへ来たのは、君を迎えに来るためだ。……お父さんの本当の遺産を、私と一緒に受け継ごう。……陸のような”凡人”には、君の価値は分からない。君を学校へ通わせる? 馬鹿げている。神を家畜に育てようとするなど、冒涜も甚だしい」
その時、背後から「長谷川くーん!」という市川の声がした。
彼女が、律の忘れたノートを持って追いかけてきたのだ。
『……っ、来るな!!』
律の叫びよりも早く、天野が市川の方へ視線を向けた。
「おや、お友達かな? ……こんにちは、お嬢さん。私は律の──」
『……違う!!』
律は、天野の言葉を遮るように、彼の前に立ち塞がった。
(……守らなきゃ。おじさんと約束したんだ。”普通”の毎日を守るって)
『……この人は、俺の知り合いじゃない。……ただの、道を聞かれただけの人だ。……市川さん、先に行ってて!』
律は、市川を無理やり遠ざけるように背中を押した。
天野は、その様子を滑稽なものを見るように見つめていたが、やがて、律の耳元で氷のように冷たい言葉を囁いた。
「……いいだろう。今日は挨拶だけだ。……だが、覚えておけ、律。……君が『長谷川律』を演じれば演じるほど、君の中の『佐藤律』が牙を剥く。……次に来る時は、陸の”首”を土産に持ってくるよ」
天野は、人混みの中に溶けるように消えていった。
校門の前で、律は一人、立ち尽くした。
夕闇が迫る中、自分の手が、制御できないほど激しく震えている。
(……お父さん……おじさん……)
(……助けて。……俺、もう、『長谷川律』でいられないかもしれない)
制服のブレザーが、急に呼吸ができないほど窮屈に感じられた。
足元の影が、解剖室のような闇となって、律の足首に絡みついているようだった。
その夜、安アパートの空気は凍りついていた。
律から天野が学校に来たと聞いた瞬間、陸の脳内にあった”善良な父親・長谷川陸”という仮面が、音を立てて粉砕された。
「……あいつが、校門に」
陸は、思わず手に持っていたコップを握り割ってしまった。しかし、そのようなことを気にもかけず、整形で作られた柔和な目元が、一瞬でかつての鋭い”刑事”のそれに変貌する。
天野は生きている。それだけでなく、自分たちの、律の”聖域”であるはずの学校にまで踏み込んできた。それは明確な宣戦布告だった。
「律。明日、学校は休め。いや、もう二度と行かなくていい。今すぐここを発つぞ」
『……できないよ、お父さん。……明日、市川さんたちと……図書委員の集まりがあるんだ。ここで急にいなくなったら、また”異常”だと思われる。お父さんが言ったんだろ、不自然なことはするなって』
律の声は震えていたが、その瞳には奇妙な決意が宿っていた。
陸は、律のその”普通への執着”が、自分自身の教えによるものだと気づき、奥歯を噛み締めた。
「……分かった。明日一日だけだ。……その間に、私は”落とし前”をつけてくる」
陸は、押し入れの奥に隠していた古いアタッシュケースを取り出した。中には、持ち出した未解決事件の資料と、そして──かつて兄が愛用していた、一本の古い折りたたみナイフが入っていた。
刑事に戻る。
それは、この数週間で築き上げた”親子”の時間を、自ら汚す行為かもしれない。だが、毒を以て毒を制さなければ、律の未来はない。
翌朝。
陸は律を校門まで見送ると、そのまま仕事場には向かわず、街の影へと消えた。
運送会社の作業着の下に、かつての刑事時代を彷彿とさせる、殺気を帯びた執念を隠して。
一方、律は、二時間目の現代国語の授業を受けていた。
教師が朗読する、どこかの文学作品の”愛”や”家族”という言葉が、今の律には不気味なノイズにしか聞こえない。
(……痛い)
突然、心臓が、内側から鋭利な爪で掻き毟られるような激痛に襲われた。
視界の端が、じわじわと赤黒く染まっていく。佐藤達也から教わった解剖図が、目の前の黒板に重なって見え始める。
(……これは、あいつが言っていた”完成への淘汰”か……?)
佐藤達也は、律の細胞に”期限”を設けていた。一定のストレス、あるいは一定の期間が経過すると、肉体を急激に再構築し、より”怪物”に近い個体へと進化させるプログラム。
律の喉の奥から、熱い鉄の味がせり上がってきた。
「……長谷川くん? 大丈夫? 顔色が真っ青だよ」
隣の席の市川が、心配そうに声をかける。
律は答えようとしたが、唇が痺れて動かない。それどころか、市川の首筋を流れる頚動脈の脈動が、耳元で太鼓のように鳴り響く。
”ここを切り裂けば、この不快な音は止まる”──脳の奥底に刻まれた”傑作”としての本能が、市川を”クラスメイト”ではなく”検体”として認識し始めた。
『……っ、来る、な……!!』
律は、机を激しく叩きつけて立ち上がった。
ガタガタと椅子が倒れる音が、静かな教室に響き渡る。クラス中の視線が、かつてないほど”異常”な表情を浮かべた律に集まった。
「長谷川くん!? どうしたの!」
教師が駆け寄ろうとする。
『……見ないでくれ!! 寄るな!!』
律は、自分の右手を左手で必死に抑え込んだ。
指先が、無意識に”解剖の構え”を取ろうとしている。
鼻からは、一筋のどす黒い鼻血が流れ落ち、真新しい制服の胸元を汚した。
”普通”という名の仮面が、内側から溢れ出す圧倒的な”暴力性”によって、無惨にも引き裂かれていく。
同じ頃。
陸は、街外れの廃墟と化した、かつて天野が潜伏していたアジトの前にいた。
背後から近づく足音。
「……来たね、陸。……刑事の顔に戻ったお前を見るのは、十年ぶりかな」
天野が、影の中から現れる。
陸は無言で、ナイフを抜いた。
「……兄さん。……いや、天野。……今、この瞬間から、お前は私の”容疑者”ではない。……私の息子を脅かす、ただの”害獣”だ」
「ははは! 素晴らしい! それこそが、佐藤達也が求めた真実の姿だ! ……だが、遅かったな。今頃、君の愛しい息子は、教室を”屠殺場”に変えているはずだよ」
陸の瞳に、絶望と怒りが火花を散らす。
学校では、律が床に膝をつき、激しい嘔吐と共に、人間のものではないような叫びを上げていた。
陸は、目の前の”過去”を切り裂くために。
律は、自分の中の”怪物”を殺し、一人の青年に戻るために。




