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安アパートの狭い台所。換気扇の回る単調な音が、かえって室内の静寂を際立たせていた。

夕食の後片付けを終えた(りく)は、(りつ)が学校の宿題に机を並べている背中を、薄暗い居間から眺めていた。


教科書を(まく)る音、シャープペンシルが走る音。

かつての天野(あまの)陸が守りたかった、しかし守れなかった”どこにでもある夜”がそこにある。


『……お父さん。……さっきから、何見てるの』

律が振り返らずに言った。


実の父親の教育によって研ぎ澄まされた彼の感覚は、陸の微かな視線さえも敏感に捉えていた。


「……いや。……君が制服を着て、机に向かっている姿が、まだ少し不思議な気がしてな」

陸は苦笑し、安物のカップ酒を一口飲んだ。整形の影響で、笑うと頬が少し引き攣る。しかし、その不自然ささえも、今の二人には愛おしく感じられていた。


『……変かな。……俺、やっぱり馴染めてない? 瞬時に瓶を掴んじゃうような奴だし』

「そんなことはない。……むしろ、馴染みすぎていて、時々、君が本当に私の息子だったのではないかと錯覚するくらいだ」

陸は座椅子に深く身を沈め、窓の外に浮かぶ欠けた月を仰いだ。

「……律。……私は以前、君に言ったな。「君を終わらせないために、手錠をかけた」と」

『……うん。おじさんの、……お父さんの、身勝手な正義でしょ』

「ああ、身勝手だった。……だが、あの正義は、私自身の”後悔”から生まれていたんだ」


陸は、自分の右手をじっと見つめた。


「……十年前、私は兄を失った。君の先代だったという、あの天野をだ。

……当時の私は、兄が死んだという報せを聞いても、どこか他人事のように受け止めていた。仕事が忙しかったこともあるが、何より”兄は立派に死んだのだ”と、自分に都合のいい物語を信じて、真相から目を逸らしていたんだ」


律はシャープペンシルを置き、椅子を回して陸の方を向いた。

陸の声には、これまで隠してきた、刑事という鎧の下にある”生身の男”の痛みが混じっていた。


「……もし、あの時。私が警察官としてのプライドを捨てて、もっと深く兄の行方を追っていれば。

……兄があの地獄で刻まれる前に、救い出せたかもしれない。……あるいは、君のお父さん──佐藤達也を、もっと早くに止めていれば、君が生まれることも、こんな苦労をさせることもなかったかもしれない」

『…………』

「……私は、君に手錠をかけたことで、自分自身の過去をやり直そうとしていたんだ。……君を守ることは、私の贖罪だった。……正義などという立派なものではない。……私は、ただ自分の救いが欲しかっただけなんだ」


陸の告白は、月光に溶けるように静かだった。

律は、座ったまま陸の側へ歩み寄り、畳の上に膝をついた。そして、陸の大きな、けれど震えている手を、自分の小さな手で包み込んだ。


『……お父さん。……それって、そんなに悪いこと?』

「……え?」

『……俺だって、同じだよ。……俺が学校に行きたいって言ったのも、

あんたを”お父さん”って呼んでるのも。……あいつを否定して、俺を人間だと思わせてくれる存在が欲しいっていう、自分のためのわがままだよ』


律は、陸の掌に自分の顔を押し当てた。


『……お互い、自分のために一緒にいる。……それって、すごく”普通”の家族なんじゃないかな』


陸は、息を呑んだ。

実の父親の施設で”心”を殺されたはずの青年が、今、誰よりも深く、人間の本質を突いていた。


偽造された名前。作り変えられた顔。嘘で固められた身分。

けれど、この暗い部屋で互いの傷を晒し合い、それでもいいと認め合う瞬間、二人の間にある”親子”という絆は、世界中のどんな本物の血縁よりも”本物”になっていた。


「……そうか。……そうだな。……私たちは、共犯者で、家族なんだな」

陸は、空いた方の手で律の柔らかな髪を撫でた。

手錠で繋がれていた時は、冷たい金属越しにしか伝わらなかった意志が、今は熱を帯びた体温となって全身を駆け抜ける。


「……律。……明日は、一緒に買い出しに行こう。……夕飯は、君が好きなものを作ってやる」

『……本当? じゃあ、おにぎりじゃない、高いお肉がいい』

「……善処しよう。……私の給料日も近いことだしな」


二人は、月が沈むまで、他愛のない”未来”の話を続けた。

明日、また”戦場”へ行くために。

この安らぎを、誰にも壊させないために。


しかし、そのアパートの前の電信柱の影。

月光すら届かない闇の中で、二人の部屋を見上げる”白い影”があることを、まだ二人は知らなかった。

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