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高校二年の教室。そこは律にとって、かつての地下施設よりもはるかに混沌とした場所だった。
佐藤達也の施設には”無駄”がなかった。すべての音、すべての動きには目的があった。
だが、昼休みの教室は、意味のない叫び声、スマートフォンの電子音、そして安っぽい菓子パンの匂いが混ざり合い、律の鋭すぎる五感を容赦なく逆なでする。
「長谷川くん、お弁当? もしかしてお父さんの手作り?」
隣の席の女子生徒──確か、朝に話しかけてきた市川という少女が、屈託のない笑顔で覗き込んできた。
律は、陸が今朝、不器用な手つきで詰めてくれた弁当箱を、少しだけ隠すように開けた。中身は茶色いおかずばかりで、お世辞にも彩りが良いとは言えない。
だが、律にとっては、施設で与えられた機能的なペーストよりも、ずっと”大切”な食べ物だった。
『……うん。お父さん、料理はあまり得意じゃないみたいで』
「えー、いいじゃん! 愛情だよ、愛情。あ、それ、一個交換しない?」
市川が、自分の華やかな弁当箱からミニトマトを差し出す。
律は一瞬、硬直した。
(……毒性検査は? ……いや、これは”コミュニケーション”という名の儀式だ。断ることは不自然に繋がる)
律は脳内にある”普通”のデータベースを瞬時に検索し、最も適切な返答を選び出した。
『……ありがとう。じゃあ、この卵焼きと交換でいいかな』
箸が触れ合う。
その刹那、律の脳は勝手に”情報”を処理し始めた。
市川の指先の微かな震え。瞳孔の収縮。声の周波数の僅かな揺れ。
(……彼女は緊張している。理由は、新しい転校生への好奇心、あるいは……。左手の袖を頻繁に引く動作は、手首の傷、あるいは痣を隠すための適応行動か)
「長谷川くん? どうしたの、固まっちゃって」
『……あ、いや。トマト、すごく赤くて綺麗だなと思って』
律は、意識的に思考のスイッチを切った。
分析してはいけない。暴いてはいけない。
普通の17歳は、他人の袖の下にある痣の形状から家庭環境を推測したりはしない。
ただ、笑って、トマトを食べる。それが”普通”という名の擬態なのだ。
だが、その後の化学の授業で、その擬態が崩れかける事件が起きた。
実験中、班の男子生徒が、誤って劇薬の入った瓶を倒しそうになったのだ。
「あ、やべっ!」
周囲の生徒が短い悲鳴を上げる中、律の体は思考よりも先に動いた。
0.1秒の判断。
液体の粘度、瓶の傾き、床までの距離。律は座っていた椅子を蹴るようにして立ち上がると、空中で瓶の首を掴み、中身を一滴もこぼさずに水平に戻した。
静寂。
クラス中の視線が、異様な反射神経を見せた律に集まる。
「……え、長谷川くん。今、どうやったの? マジですごかったんだけど」
『……えっと。……たまたま、手が滑った先に瓶があっただけだよ』
律は、わざとらしく自分の手をぶらぶらと振ってみせた。
心臓が早鐘を打つ。
やってしまった。
普通の高校生は、あんな姿勢から重心を崩さずに落下物をキャッチしたりはしない。
「いやいや、あの動き、武道かなんかやってる人のそれだったって! 長谷川、お前実は運動神経めちゃくちゃいいだろ?」
『そんなことないよ。……本当に、運が良かっただけなんだ』
律は、冷や汗が背中を伝うのを感じながら、必死で”冴えない転校生”を演じ続けた。
佐藤達也に植え付けられた”傑作としての本能”は、律が望まなくても、彼を特別な存在へと押し上げようとする。
それが、今の律にとっては死に至る毒と同じだった。
放課後。校門の前には、約束通り、作業着を脱いでスーツに着替えた陸が立っていた。
その姿を見つけた瞬間、律の張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
『……お父さん』
律は、駆け寄るようにして陸の側へ行った。
陸は律の少し青ざめた顔を見て、何も言わずにその肩に手を置いた。
「……どうだった、初日は。……”無駄”は見つかったか?」
『…………うん。……すごく、疲れた。……お父さん、俺、今日……瓶を掴んじゃった』
「瓶?」
『……ううん。なんでもない。……帰りに、あのアイス、買ってくれる?』
陸は、少しだけ目を細めて笑った。
「ああ。……特別に二つ、買ってあげよう。
……家で、ゆっくり食べようか」
二人は、夕暮れに染まる街を歩き出した。
律は、陸のスーツの袖をそっと掴んだ。
手錠があった時よりも、ずっと脆くて、ずっと切実な”繋がり”。
背後で、校舎の窓から誰かが自分を見ているような気がして、律は一度も振り返らなかった。
”普通”を演じるという、この果てしない潜入捜査。
その苦しさを分かち合えるのは、世界中で隣に立つ、この偽物の父親だけだった。




