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四月の半ば、桜の絨毯が泥にまみれて汚れる頃。


(りつ)は、私立瑠璃原(るりはら)高等学校の校門の前に立っていた。

真新しい、けれどどこか体に馴染んでいない紺色のブレザー。胸元には指定のネクタイ。

施設で着せられていた、機能性だけを追求した白い検査着とは正反対の、窮屈で、装飾過多な”社会の制服”だ。


「……律。忘れ物はないか。学生証、筆記用具……それから、お弁当」

隣に立つ(りく)が、自分のことのように緊張した面持ちで確認する。


陸もまた、運送会社の制服ではなく、新調したばかりの安物のスーツに身を包んでいた。整形後の柔和な顔立ちのせいか、以前の彼を知る者が見れば、まるで別人のような”善良な父親”に見える。


『……大丈夫だよ、お父さん。……あんたこそ、ネクタイがさっきから微妙に右に寄ってる』

律はそう言って、陸のネクタイを整えた。

指先が触れる。かつて手錠がかけられていたその場所には、今はブレザーの袖口が被さり、過去を隠蔽している。


「……すまない。……まさか、この歳になって入学式……いや、転入の手続きでこんなに心臓が鳴るとは思わなかった」

『……当たり前だよ。……俺たちがやってるのは、”人生を懸けた潜入捜査”なんだから』


律が冗談めかして囁く。

しかし、その瞳の奥には、未知の世界に対する鋭い警戒心が潜んでいた。


17歳。周囲の子供たちは、すでにそれぞれのコミュニティを形成し、青春のルールを共有している。

そこへ『長谷川(はせがわ)律』という偽造された人格が飛び込むのだ。


二人は、校長室での面談を終え、職員室へと向かった。

「家庭の事情で、急な転居を余儀なくされまして……」

陸が事前に用意した”もっともらしい嘘”を、穏やかな微笑みと共に吐き出す。

かつて取り調べ室で容疑者の嘘を暴いてきた男が、今度はその技術を、自分たちの”生存”のために使っている。皮肉な現実だったが、律を守るためなら、陸はどんな卑怯な役回りでも演じる覚悟だった。


やがて、担任となる若い女性教師が律を呼びに来た。

「長谷川くん。……緊張してる? 大丈夫、みんな良い子たちだから、すぐに馴染めるわよ」

教師の明るい声。律は、佐藤達也から教わった”効率的な人間観察”のスイッチを反射的に入れそうになるのを、必死で抑えた。

瞳孔の開き、声のトーン、微かな発汗──それらを分析して”この女は御しやすい”と判断する脳を、無理やり黙らせる。


『……はい。よろしくお願いします』

律は、控えめな、どこか自信なげな青年の顔を作った。鏡の前で何度も練習した、”無害な転校生”の仮面だ。


「……じゃあ、私はここで。……放課後、校門の前で待っている」

陸が、律の肩にそっと手を置いた。

その手の重みが、律にとっての唯一の安全装置だった。


『……うん。……行ってくるね、お父さん』


律は背を向け、教室へと続く廊下を歩き出した。

背後で陸の視線を感じる。


それは”逃がさないための監視”ではなく、

”どこへも行かないための祈り”だった。


二年B組。

教室の扉を開けた瞬間、数十人分の視線が、津波のように律を襲った。


笑い声、消しゴムが跳ねる音、ノートの擦れる音。

施設には一切存在しなかった、”生の無駄”が充満する空間。


「えー、今日から転入してきた長谷川律くんよ。みんな、仲良くするように」

教壇に立った律は、黒板に「長谷川律」という偽りの名前を書いた。

チョークの粉が舞い、指先が白く汚れる。


『……長谷川、律です。……前の学校では、あまり目立つ方じゃありませんでした。……早く、皆さんの名前を覚えたいと思います。よろしくお願いします』


完璧な挨拶。

だが、律の心臓は、解剖台の上で開かれた獲物のように、剥き出しの恐怖で脈打っていた。


(……お父さん。……俺、今、すごく不自然じゃないかな)


空いた席に座る。

隣の席の女子生徒が、物珍しそうに律を覗き込んできた。


「長谷川くん、どこから来たの?」

『……えっと、南の方から。……海の近くです』

「へぇー、いいな! 今度、美味しいお店とか教えてよ」


他愛のない会話。

だが、律にとっては、常に地雷原を歩いているような緊張感だった。


窓の外では、春の風が桜の残骸を舞い上げている。

律は、机の下で自分の右手を強く握りしめた。

手錠はもうない。

代わりにそこにあるのは、陸がアイロンをかけてくれた、温かい紺色の袖口だ。


(……俺は、長谷川律。……死ぬまで、長谷川律でいなきゃいけないんだ)


世界を欺くための、17歳の”戦場”が、今、始まった。

律は、誰にも気づかれないように、胸の奥で震える息を閉じ込めた。

その呼吸だけが、作られた”機能”ではなく、自分の”生存”であることを、自分自身に言い聞かせるように。

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