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途中で、警察が設置したレーザーセンサーが視界を遮る。
「……そこだ! 止まれ!」
だが、陸は止まらない。繋がれた律を抱え込むようにして、そのレーザーを意図的に踏み抜いた。
けたたましい警報音が鳴り響く。
「……バカか、あいつら! 罠にかかりやがったぞ!」
「……………いいや、違う! 罠を……奴らが、罠を突破した……!」
警報音は、警察の混乱を増幅させる。そして、その混乱こそが、陸と律にとっての唯一の”味方”だった。
二人は、泥水が流れる狭い水路へと身を投じた。
腐った水の匂い、冷たさ、そして視界を奪う暗闇。
「……律くん。この先が、地獄の出口だ。……手を離すな」
『……離すわけないだろ、おじさん。……あんたが勝手に死んだら、俺、一人で荷物持てないんだから』
律はそう言いながらも、陸の手を、これまでのどんな時よりも強く握り返していた。
二つの命が、一本の鎖で結ばれ、濁流の中へと消えていった。
水路の濁流に呑まれ、点検口の鉄梯子にしがみついた二人が地上へ這い出したのは、寂れた工業地帯の裏路地だった。
ずぶ濡れの二人の前に、なぜか軽トラックの荷台でカップ麺を啜っていたアロハ男たちが「あ」という顔で固まっていた。
「……アニキ! 出てきましたよ、整形コンビ!」
「お前ら、よくも俺たちを置いて逃げやがったな!」
バカたちは怒っているのか喜んでいるのか分からないテンションで詰め寄ってくる。その手には、なぜか警察から奪い返したという”大型のボルトカッター”が握られていた。
「お前ら、その手錠のせいで動きが鈍いんだよ。見てるこっちがイライラするんだ。……貸せ、俺が切ってやる!」
「待て、そんな錆びたやつで──」
陸の制止も聞かず、アロハ男は強引に二人の手首の間にカッターの刃を差し込んだ。
「よっしゃ、いくぜ! 利権の力を見ろー!」
ガキンッ!!!という、耳を突き刺すような金属音が路地裏に響き渡った。
火花が散り、衝撃で陸と律の腕が跳ね上がる。
次の瞬間、二人の手首を繋いでいた鋼鉄の鎖が、中央から無残に断ち切られた。
……静寂。
律は、自分の右手に残った、鎖の端がぶら下がったままの手錠を見つめた。
重い。冷たい。けれど、そこから伝わっていた”陸の鼓動”の余韻だけが、ぷつりと途絶えていた。
「……あ、外れた。……意外とあっさりいくもんだな」
アロハ男が鼻を鳴らす。
陸は、自由になった左手をゆっくりと握り、そして開いた。
これでいい。これで、律をどこか安全な場所へ逃がし、自分だけが囮になれる。警察官としての”責任”ではなく、一人の男としての”合理的な判断”ができるはずだ。
だが、陸が律の顔を見た時、心臓が冷たく脈打った。
律は、自由になったはずの手首を抱え、まるで体の一部を切り取られたかのような、ひどく怯えた瞳で陸を見返していたのだ。
「……律、くん。……外れたぞ。これで君は、どこへでも行ける」
『…………』
律は何も答えない。
雨に打たれ、震える肩。鎖がなくなったことで、二人の間には物理的な”距離”が生まれてしまった。わずか数十センチの隙間が、果てしない断崖絶壁のように律を突き放す。
その時、遠くからパトカーのサイレンが、これまでにない数で鳴り響き始めた。
警察の包囲網が、工業地帯を塗り潰そうとしている。
「おい! もたもたしてると、今度こそ蜂の巣だぞ! 乗れ!」
バカたちが軽トラのエンジンを吹かす。
陸は一歩、律から遠ざかろうとした。
「逃げろ、律くん。……私とは別々に──」
言いかけた言葉は、律が陸のシャツの裾を、狂おしいほどの力で掴んだことで遮られた。
『……ふざけんなよ』
律の声は、雨音にかき消されそうなほど小さく、けれど鋭かった。
『……外れたら終わりなんて、誰が決めたんだよ。……おじさん、あんた言っただろ。俺を終わらせないために、これをかけたって。……なら、最後まで責任取れよ!!!』
手錠という”鋼の鎖”は壊れた。
だが、その瞬間、二人の間には目に見えない、より強固で呪わしい”意志の鎖”が結ばれた。
「……律、くん……」
『……独りに、すんな。……死ぬなら、目の前で死ね。……それが、あんたが俺にかけた”正義”だろ!…………あー…恥ずいこと言わせんな……』
陸は、自嘲気味に笑っていた。
警察手帳を破り捨て、手錠を壊され。自分にはもう、何も残っていない。
しかし、この絶望的な瞳をした青年だけが、自分を”天野陸”という人間に繋ぎ止めている。
「……分かった。……行こう、律くん」
陸は律の手を、手錠よりも強く握りしめた。
二人は、軽トラの荷台へと飛び込む。
自由になったはずの両手で、お互いを離さないように抱きしめ合う。
皮肉にも、鎖が壊れたことで、二人の距離はかつてないほど”密着”していた。
軽トラの荷台は、無造作に放り込まれたブルーシートと、埃っぽい毛布の匂いに満ちていた。
バカたちが運転する車は、追っ手を撒くために舗装の荒い旧道を猛スピードで飛ばしている。そのたびに、陸と律の体は荷台の中で大きく跳ね、互いの肩や膝が激しくぶつかり合った。
手首には、もうあの冷たい銀色の重みはない。
それにもかかわらず、陸は左手首に焼けるような違和感を感じていた。鎖が断ち切られた場所が、まるで開いた傷口のように空気に晒され、心許ない。
『……おじさん、こっち寄れよ。風、入ってくる』
律が、一枚の薄汚れた毛布を広げ、陸を招き入れた。
陸は戸惑いながらも、律の隣に腰を下ろす。二人の体格差は歴然としていたが、毛布を被れば、そこは外の世界から遮断された二人だけの狭い繭のようになった。
「……律くん。手首、見せてくれ」
陸は自由になった左手で、律の右手首をそっと取った。
手錠の輪自体はまだ食い込んでいるが、先ほどのボルトカッターの衝撃で縁がささくれ立ち、律の白い肌を赤く削っていた。陸は自分のシャツの袖を破り、丁寧にその傷を覆っていく。
『……もう、繋がってないのに。なんでそんなに必死なの』
律の瞳が、至近距離で陸を射抜く。
鎖が消えたことで、二人の間にある”強制力”は消滅した。
今、律がこの荷台から飛び降りれば、陸にはそれを止める法的な根拠も、物理的な手段もない。
「……分からないか。……私はもう、刑事ではないんだ」
陸の指先が、律の傷口を保護する布の上から、優しくその細い手首を包み込んだ。
「……今は、ただの男として。君が傷つくのが、耐えがたいだけだ」
律は一瞬、息を止めた。
父親の”教育”の中には、他人の痛みを慈しむという概念はなかった。あったのは、肉体を壊すための解剖学的な興味だけだ。
だが、陸の手から伝わってくるのは、そんな冷徹な知性とは正反対の、愚直で、泥臭いまでの”慈しみ”だった。
『……バカだ。本当に、バカ。……あんた、俺を助けても、何もいいことないんだよ? 英雄にも戻れないし、ただの犯罪助長者として一生追われるだけなんだから』
「……ああ、承知の上だ。……だが、君が一人で闇の中に消えていくのを見るよりは、地獄まで付き合う方が、私にはよっぽど寝つきが良さそうだ」
律は自嘲気味に笑い、自分から陸の胸元に頭を預けた。
手錠で繋がれていた時よりも、ずっと深く、密接に。
律の自由になった両手が、陸のコートをギュッと掴む。
鎖が外れたからこそ、自分の意志で”離さない”と決めた。
その選択の重みが、手錠よりもずっと強く、律の心に食い込んでいた。
『……おじさん。……鼻毛、やっぱりちょっと出てるよ』
「……嘘をつけ。……もう、そんな冗談で誤魔化さなくてもいい」
『嘘じゃない。……でも、いいよ。……あんたのそういう抜けたところ、嫌いじゃないし』
雨の夜道、軽トラは闇を切り裂いて進む。
毛布の下で、二人の体温が混ざり合い、境界線が溶けていく。
かつては”枷”だった金属の残骸が、二人の手首で微かな音を立て、この逃避行がまだ終わっていないことを告げていた。




