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地下道のさらに奥深く、崩れかけた配管が剥き出しになった一角で、二人は身を潜めていた。

(りく)の右肩からの出血は止まらない。シャツが血で張り付き、熱を帯びた皮膚はズキズキと脈打つ痛みを訴えていた。


「……(りつ)くん。このままでは、出血多量で私が動けなくなる。君も困るだろう」

『……当たり前だろ。もうおじさんしか荷物持ちいないんだから』


律は、陸の顔を見ないまま、冷たいコンクリートの床に座り込んだ。


陸は、警察手帳を破り捨てて以来、警察官としての”正解”を失った男の顔をしていた。その瞳には、もはや使命感ではなく、深い疲労と、そして得体の知れない覚悟が宿っている。


『……治療してやってもいいけど。……これ、お父さんから教わったやり方だよ』

律が、地下道の隅に転がっていた空き缶を拾い上げた。


陸は息を呑んだ。お父さんの”教育”の片鱗は、いつも律を残酷な怪物へと変えた。

その知識で、今、自分の身体に触れようとしているのか。


「……構わない。君が、私を殺さない限りは」

陸は覚悟を決め、律に背中を向けた。

律は、陸の肩の傷をじっと見つめた。貫通はしていないが、銃弾が抉った傷口は深く、肉が醜く裂けている。


『……お父さんね、言ってたんだ。人間は、痛みに強いようで弱い。でも、死にはしない。……正しい場所を刺激してやれば、痛みは増幅するけど、長く生かすことはできるって』

律の声は、感情を完全に排した、機械のような響きだった。

まるで、過去の佐藤達也の声が、律の喉を通して再生されているかのようだ。


律は、空き缶の縁を、繋がれた手錠でゴリゴリと削り始めた。

陸は、その金属音が、自分の心臓を削っているかのように感じた。


『……まず、汚いものは焼く。そうすると、菌が死んで、血が固まる。……でも、麻酔がないと、死ぬほど痛いから、気絶しちゃう人もいるんだって。……おじさんは、気絶しないでね』


律は、自分の腰に隠し持っていたライターを取り出した。

空き缶の縁に火を当て、金属を赤く熱していく。

熱された金属の匂いが、地下道の湿った空気に混ざり、陸の鼻腔を刺激した。


「……お父さんの教えは、人を救うためじゃなく、拷問するためだったんだろう」

『……そうだよ。俺を『最高傑作』にするために。……でも、その知識、今はおじさんを”生かす”ためだけに使ってあげる』


律は、真っ赤に熱した空き缶の縁を、陸の肩の傷口へと、躊躇なく押し当てた。

ジュッ、という肉が焼ける音。

陸の喉から、短い、けれど激しい悲鳴が漏れた。


「……がっ……あ゛……っ!」


陸の身体が激しく痙攣する。手錠で繋がれた律の腕も、その衝撃で大きく揺れた。

だが、律は一切動揺しない。まるで教科書通りに、淡々と治療を続けていく。


『……動かないで。ちゃんと焼かないと、駄目だから。……少しずつ、少しずつだよ』


血の焦げ付く匂いと、肉が焼ける匂い。

陸は全身から冷や汗を吹き出し、歯を食いしばって痛みに耐えた。

その間、律は一切表情を変えなかった。彼の瞳は、ただ目の前の任務を見つめているだけだ。


『……よし。これで、止血はできてるはず。

……次は、縫うんだけど、針と糸がないから、細い配線とかで代用するんだって』


律は、満足げに陸の焼かれた傷口を見つめた。

痛覚は麻痺し、陸は呼吸をするのが精一杯だった。


「……律、くん。……君は……本当に……」

『……何? 俺、上手にできた?』


律は、子犬が褒められるのを待つように、陸の顔を覗き込んだ。

その無垢な期待の眼差しと、その手で行われた残虐な処置のギャップに、陸は言葉を失った。


陸の肩の傷は、醜く焼かれ、血は止まっていた。

これは、陸が刑事であった頃には決して受け入れられなかった”治療”だ。

だが、陸は知っていた。この拷問のような医術がなければ、自分は今頃、この地下道で血を流し続けていたであろうことを。


手錠が、二人の手首を繋いでいる。

その鎖は、陸の肉を焼いた熱のように、熱く、そして冷酷に、二人の運命を縛り付けていた。


律の処置は完璧だった。

陸の肩の傷は、醜く焼かれ、歪な縫い跡が走っているが、出血は完全に止まっている。律が父親から教わった”死なせないための技術”は、皮肉にも陸の身体に驚異的な回復力をもたらしていた。

陸は、壁に背を預けて座っていた。意識ははっきりしている。だからこそ、今自分が置かれている状況の”正体”が、嫌というほど鮮明に理解できていた。


「……律くん。君の手並みには、改めて驚かされるよ」

陸は、繋がれた左手で、律の右手首を軽く持ち上げた。

自分の命を繋ぎ止めた、血まみれの知識。

その源泉である”佐藤達也”という怪物の影が、律の細い指先から立ち昇っているように見えた。


『……驚かなくていいよ。……お父さんは、俺が失敗するのを許さなかっただけだから』


律は膝を抱え、遠くで騒ぐバカたちを虚無的な瞳で見つめていた。

陸が警察手帳を破り捨てた瞬間から、二人の関係は”法”という共通の言語を失った。今、ここにあるのは、一本の金属の鎖と、互いの皮膚から伝わる微かな体温だけだ。


「……私はもう、君に”正しき道に戻れ”とは言えない。……その資格を、自分で破り捨てたからな」


陸の言葉は、冷たく澄んでいた。

絶望しているのではない。

むしろ、長年彼を縛っていた”刑事”という呪縛から解き放たれ、身軽になったような、危うい静けさ。


『……おじさん、後悔してる?』

「……不思議なほど、していないんだ。……ただ、君の手首にこれをかけた時の自分を、滑稽だったなと思っている。……君を裁こうとしていた私は、君の何を知っていたんだろうな」


陸は、手錠の環をカチリと鳴らした。

かつては、この手錠が自分と律を”善と悪”に分断する境界線だと思っていた。

だが今は違う。

この鋼鉄の輪は、自分を”光”の世界から引きずり下ろし、律という”深淵”に繋ぎ止めてくれる、唯一の錨に感じられた。


『……変な大人。……警察辞めて、殺人犯と地下道に隠れて、それで満足なの?』

「……満足ではないさ。……だが、今、初めて君の本当の顔が見えている気がする。……佐藤達也の傑作でも、可哀想な被害者でもない。……ただの、口の悪い一人の青年としての君を」


律は、陸のその”剥き出しの言葉”に耐えかねたように顔を伏せた。

父親は自分に仮面を与えた。

警察は自分にレッテルを貼った。

しかし、この”元刑事"だけは、今、泥にまみれた本当の自分を、手錠越しに覗き込もうとしている。


『……バカだよ。……本当に、バカ』

律が呟いた言葉は、暗闇の中に溶けていった。


遠くで本物のバカたちが、今度は”どっちのカップ麺が豪華か”で掴み合いの喧嘩を始めた。

その滑稽な喧騒が、二人の間に流れる”じっとりとした親密さ”を、よりいっそう深いものへと変えていく。


この場所で、二人の物語は、もはや誰にも予測できない”地獄の先”へと舵を切っていた。

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