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【逃亡16時間後:山中の廃バス】
バカたちの叫び声が遠のき、夜の静寂が山を支配した頃。
二人は不法投棄された廃バスの座席に、並んで泥のように沈んでいた。
手錠は外れない。歪んだ銀色の枷は、もはや二人の手首の一部であるかのように馴染んでしまっていた。
「……これ、食べろ。……非常持出袋に入ってた」
陸が右手で差し出したのは、賞味期限の怪しい一袋の乾パンだった。
律は無言で受け取り、袋を破る。パサパサの乾いた塊を口に放り込むが、あまりの渇きに飲み込むことすらままならない。
『……おじさん、水は』
「……雨水を溜めて浄化してからしかないな」
律は一枚の乾パンを半分に割り、不器用な手つきで陸の口元に持っていった。
『……食えよ。あんたが倒れたら、俺、重たくて歩けないから』
「……優しいんだな、君は」
『殺すぞ。……口開けろ』
繋がれた手首を介して、乾パンの硬い感触が二人の間を行き来する。
陸は律の指先が微かに震えているのを見逃さなかった。お父さんの”教育”を受けてきた怪物の手は、今、ただ一人の大人に食べ物を分ける、子供の手に戻っていた。
【逃亡24時間後:雨宿りの東屋】
土砂降りの雨。二人は公園の小さな東屋で、お互いの背中を合わせるようにして暖を取っていた。
『……刑事さん。……なんで、手錠、かけようとしたの』
律が、雨音に消えそうな声で呟く。
「……君を、終わらせたくなかったからだ」
『……終わってたよ。あの日、父親を殺した時に』
「いいや。……私が君の手首にこれをかけたのは、君をこの世に繋ぎ止めるためだ。
……法の裁きは、君が”人間”として生きている証拠になる」
律は鼻で笑ったが、繋がれている左手からは、陸の体温が脈動と共に伝わってくる。
不快だったはずのその熱が、今は、この冷たい世界で唯一の、確かな”生存の証明”に思えた。
【逃亡30時間後:ついに訪れる”静寂”】
バカたちは、どうやらガソリン切れか、あるいは”自分たちが何を追っていたか”を忘れてどこかへ消えたようだった。
夜明け。霧深い森の中で、二人は古い鉄塔の足元に座り込んでいた。
陸は、ボロボロになった自分のジャケットを、律の肩にかけ直した。
「……律くん。……もうすぐ、街が見える」
『……ああ』
律は、朝日を浴びて輝く手錠を見つめた。
傷だらけで、泥にまみれた、最低の絆。
二人は、どちらからともなく小さく笑った。
父親の呪縛が消えたわけではない。組織が消滅したわけでもない。
しかし、二人は確かに、一人の”人間”として、朝焼けの中に立っていた。
夜明けの霧が、森の出口を白く塗り潰していた。
二人は、泥と血にまみれた身体を引きずるようにして、ようやく舗装された道路へと辿り着く。遠くに街の灯りが見えた瞬間、律は安堵ではなく、本能的な殺気を感じて足を止めた。
『……おじさん。隠れて』
律の言葉より早く、静寂を切り裂く排気音が響いた。
一台、二台、三台……。現れたのは、白黒のパトカーではない。黒塗りの覆面車両、そして防弾チョッキを纏った特殊班の集団だった。
「……応援か?」
陸が声を上げようとしたが、律がその腕を強く引いた。
『違う。……あいつら、殺す気だよ』
散光式警光灯は回っていない。拡声器による投降勧告もない。
ただ、無機質なドアの開閉音と共に、十数本の銃口が一斉に二人へと向けられた。
陸は、最前列に立つ男の顔を見て、息が止まった。
かつて同じ釜の飯を食べた、捜査一課の仲間だ。
だが、その瞳には同情も困惑もなく、ただ”処分すべき対象”を見る冷徹さだけが宿っていた。
「……天野陸警部補。および容疑者、佐藤律」
指揮官の声が、朝の冷気に響く。
「両名とも、組織との癒着および逃亡の恐れありと判断した。……抵抗は許さない。ここで始末する」
「癒着だと!? 冗談じゃない、私はこの青年を拘束して──」
「手錠が繋がっているのが、その証拠だ」
指揮官の視線が、二人の手首を繋ぐ銀色の鎖に注がれる。
「警察官が容疑者と手を繋いで逃げ回るなど、前代未聞の醜態だ。本庁は、君を”佐藤律に懐柔された裏切り者”として処理することに決めたよ」
陸の頭の中で、何かが音を立てて千切れた。
自分が信じていた”正義の組織”は、”佐藤律”という怪物を生み出した闇を隠蔽するために、自分ごと切り捨てる道を選んだのだ。
手錠が、ジャラリと鳴る。
律は、陸の横顔をじっと見つめていた。
絶望に染まる”光”の体現者を。
『……ねえ、おじさん。あんたの言ってた”裁き”って、これのこと?』
律の声には、皮肉と、それ以上の深い同情が混じっていた。
陸は、震える右手で律の手を握りしめた。
今度は、捕まえるためではない。離さないためだ。
「……いいや、違う。……こんなものは、正義でも何でもない」
陸は腰から、バカたちから奪い返していた予備の拳銃を抜き放った。
警察官が、警察に銃を向ける。
「律くん。……走れるか」
『……当たり前だろ。
おじさんの鼻毛抜くまでは、死んでやんないよ』
「……よし。……行くぞ!!」
数条のレーザーサイトが、二人の胸元で踊る。
銃声が響き渡る直前、二人は一丸となって、再び泥まみれの”生”へと跳躍した。
地下道の湿った空気と、カビの匂いが肺を圧迫する。
二人は、かつて地下鉄の連絡通路だったと思われる、今は地図からも消されたコンクリートの空洞に辿り着いた。頭上のアスファルトを走る車の振動が、微かな地鳴りとなって足元に伝わってくる。
陸は、崩れかけたベンチに身体を預け、激しい吐息を繰り返した。
左手首には、依然として律の右手とを繋ぐ”鋼の枷”が食い込んでいる。逃走中に何度か壁や角にぶつけたせいで、手錠の環は歪み、もはや鍵があったとしても外れるかどうか怪しい無残な姿になっていた。
『……おじさん。肩、撃たれてるよ』
律が、低く、もはや掠れた声で言った。
陸は視線を落とす。右肩のシャツが黒ずんだ血に染まり、嫌な熱を帯びていた。先ほどの銃撃戦。
自分を”同僚”と笑顔で呼んでいたはずの者たちが放った一弾が、容赦なく陸の肉を削いでいた。
「……掠めただけだ。大したことはない」
『嘘つけ。……あんた、さっきから顔真っ白だよ』
律は繋がれた腕を引き寄せ、不器用な手つきで陸の肩を調べようとした。
陸はその律の手を、震える右手で制した。
「……律くん。それより、確認しなければならないことがある」
『簡潔にね』
陸は、震える手で上着の内ポケットに手を伸ばした。
取り出したのは、黒い革の表紙。中央に燦然と輝く、金色の日章。──警察手帳だ。
陸はその手帳を、まるで呪物でも見るかのような目で見つめた。
この小さな手帳には、彼の人生のすべてが詰まっていた。
寝る間も惜しんで捜査に明け暮れた日々、守りたかった市民の笑顔、そして、どんな闇の中でも自分を繋ぎ止めていた”正義”という名の誇り。
だが今、その金色の紋章は、暗い地下道の中で不気味に沈んでいる。
これを掲げて守るべき対象は、自分に銃を向けた。
これを根拠に行使すべき法は、目の前の青年の”過去”を闇に葬るために、自分ごと抹殺しようとしている。
「……私は、このために生きてきた」
陸の声が、コンクリートの壁に虚しく反響した。
指先が、手帳の縁をなぞる。
かつて、この手帳を初めて手にした時、彼は世界を救えると信じていた。佐藤達也のような怪物を法の下に引きずり出し、律のような犠牲者を、光の下へ連れ戻せると。
だが、現実はどうだ。
自分は今、自分が守るべき法から逃げ出し、自分が裁くべき殺人犯と手を繋いで、泥水を啜っている。
「……おかしいな。……おかしいだろう、律くん。……私は、間違ったことはしていないはずだ」
陸の目から、一筋の涙が、頬の汚れを拭うように伝い落ちた。
それは悲しみではなく、自分の存在意義そのものが瓦解していく”崩落”の音だった。
律は、黙って陸を見ていた。
父親の狂気を見てきた律にとって、大人の”正義”が崩れる瞬間は、見慣れた光景のはずだった。だが、目の前でボロボロになりながら手帳を握りしめる陸の姿は、あまりにも無防備で、あまりにも残酷で……見ていられなかった。
『……おじさん。そんなの、もうただのゴミだよ』
律の言葉が、陸の背中を最後に一押しした。
「……ああ。……そうだな。ゴミだ」
陸は、警察手帳を開き、そこに貼られた自分の証明写真を見つめた。
若く、希望に満ち、少しだけ傲慢なほどに”正義”を信じていた男。
陸は、その写真を指先でなぞった後、ゆっくりと、けれど確かな力を込めて──手帳を真っ二つに引き裂いた。
バリッ、という乾いた音が、静かな地下道に響き渡る。
陸は、引き裂かれた手帳を、足元の泥溜まりへと投げ捨てた。
金色の紋章が、汚水に浸かり、瞬く間に光を失っていく。
「……天野陸は、死んだ」
陸は、自分を”警部補”と呼んでいた過去を、その一撃で葬り去った。
彼が顔を上げた時、その瞳には警察官としての”正しさ”はもうなかった。
代わりに宿っていたのは、地べたを這いずってでも、隣にいるこの青年と共に生き残るという、泥臭く、執念深い、一人の”男”の意志だった。
「……これで、私も君と同じ”逃亡犯”だ」
陸は、繋がれた左手で、律の手首を強く握り返した。
今、初めて、二人の間に流れる空気が変わった。
法という壁が消え、正義という盾が砕け、ただ一組の
”共犯者”が、闇の中に立ち尽くしていた。
『……バカだね、本当におじさんは』
律は、少しだけ、本当に少しだけ、嬉しそうに口角を上げた。
手錠はまだ、外れていない。
しかし、二人の心を縛っていた別の”鎖”が、今、完全に断ち切られたのだった。




