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(りく)の耳に届くのは、(りつ)の小さくて速い心拍音。

律の鼻をくすぐるのは、陸のシャツに染み付いた、雨と安っぽいコーヒーと、少しの煙草の匂い。


それは、父親の"研究所”には決して存在しなかった、あまりにも泥臭くて、あまりにも生臭い、”生きている人間”の気配だった。


『……おい。何固まってんの。早くやれよ、おじさん』

「……分かっている。……動くなよ」

陸は律の細い手首を傷つけないよう、自分の掌で守るように包み込み、手錠のチェーンを乾燥機の重厚な金属の隙間に差し込んだ。


外ではバカたちの足音が近づいてくる。

狭いランドリーの中で、刑事と青年は、世界で一番不自由な絆を繋ぎ合わせながら、必死に”今”を生きようとしていた。


『……っ、クソ、外れない!』

「律くん、動くな、手首が切れる!」


乾燥機の隙間に手錠を突っ込み、二人がかりで体重をかけたが、警察仕様の鋼鉄は無情にも”ガカッ”という嫌な音を立てて火花を散らすだけだった。外れない。それどころか、歪んだ衝撃でさらに食い込みが激しくなった。


その時、コインランドリーの薄いガラス越しに、チカチカと懐中電灯の光が差し込んできた。


「おーい、整形コンビー! ここかー?」

「アニキ、乾燥機の中に隠れてるんじゃないっすか? まとめて回しましょうよ!」


『あいつら、マジで脳みそプリンかよ……っ』

律は毒づきながら、ポケットをまさぐった。


そこには、父親から”教育の教材”として渡されていた、古いMP3プレーヤーが入っていた。中には父親の肉声や、律を精神的に追い詰めるための”音”が詰まっている。


本来なら、律にとって呪いの象徴であり、捨てたくても捨てられなかったものだ。


『……刑事さん、あれ』

律は、ランドリーの隅にある、半分開いた換気窓を指差した。

『これを囮にする。……投げたら、すぐに隠れるぞ』

「それは……君の大事なものではないのか?」

『大事なわけないだろ。……あんな奴らの気を引くには、これくらいのゴミが丁度いいんだよ』


律は自嘲気味に笑うと、繋がれたままの不自由なフォームで、MP3プレーヤーを換気窓の向こうへと全力で放り投げた。


プレーヤーは暗闇の路地裏でガシャンと派手な音を立て、内蔵スピーカーから「……律、お前は私の最高傑作だ……」という”お父さん”の録音ボイスが、雨音の中に虚しく響き渡る。


「おい! あっちで誰か喋ったぞ! ………佐藤達也だ! 佐藤達也が道端で独り言言ってるぞ!!」

「アニキ、幽霊ですよ! 捕まえましょう!」

バカたちが騒ぎながら路地の方へ走っていく。

その隙に、律と陸は狭い業務用洗濯機の裏の隙間に滑り込んだ。


──狭い。


大人の男ともうすぐ成人を迎える青年の体が、文字通り密着している。手錠で繋がれた手首は、二人の腹部の間に挟まれ、お互いの鼓動がダイレクトに伝わってくるほどだ。


『……っ、おじさん、苦しい。腹引っ込めて』

「……無茶を言うな。これでも節制している方だ。……静かに。まだ近くにいる」


陸は、律の頭を自分の胸元に押し下げるようにして、洗濯機の影に潜めた。

律は反射的に陸のシャツを掴む。

鼻を突くのは、安っぽい洗剤の匂いと、陸の荒い吐息。

律は、こんなに近い距離で誰かの”生命維持の音”を聞くのが初めてだった。


(……お父さん。あんたの傑作は今、あんたの声が入った機械をゴミ箱に捨てて、汗臭いおじさんの胸に顔を埋めてるよ)


そう思うと、なんだか可笑しくて、同時に吐き気がするほど悲しくなった。


『……刑事さん。あんた、鼻毛出てるよ』

「……っ、今、それを言う必要があるか!?」

『ある。……あんたがあまりにも”正義の味方”みたいな顔して俺を抱え込むから、台無しにしてやりたくなっただけ』


律はクスクスと、声を出さずに笑った。


洗濯機の振動が、微かに二人の背中に伝わっている。

外ではバカたちが”佐藤達也の幽霊”を求めて空き缶を蹴っ飛ばす音が聞こえる。

このふざけた状況の中で、律の閉ざされた心の一部が、かつてないほど無防備に剥き出しになっていた。

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