20
次に目を覚ました時、そこは雨音の聞こえない、冷たいコンクリートの部屋だった。
揺れている。トラックのコンテナの中か、あるいは船の上か。
『……起きたか、正義の味方』
すぐ隣、手の届く距離に”影”がいた。
律だ。
彼はコンテナの壁に背を預け、膝を抱えるように座っていた。
陸の左手と、律の右手。
その間には、あの時、陸が律を断罪するために取り出した「手錠」が、無慈悲な橋のように架かっていた。
「律、くん……。これは」
『あんたが俺を”捕まえた”んだろ。おかげでこのザマだ』
律が苛立ちを込めて腕を振ると、陸の左手も強引に引きずられた。手錠の環が手首の骨に当たり、鈍い痛みが走る。
陸は、自分の手首にかかった手錠をじっと見つめた。
本来、これは”向こう側”の人間だけにかけるべきもので、自分が繋がれるためのものではない。
だが今、自分たちは運命そのものを縫い合わせられたかのように、一つの金属に縛り付けられている。
「……すまない。あの時、私が……」
『謝るな。謝罪は一種の自己満だ』
律は吐き捨てるように言い、顔を背けた。
暗闇の中でも、律の瞳が異常なほど鋭く、それでいて今にも砕けそうなほど脆く光っているのが分かった。
陸は、警察官としての自分を必死に繋ぎ止めようとする。だが、繋がれた手首から伝わってくる律の微かな震えが、それを許さなかった。
「……ここは、どこだ」
『地獄の入り口だよ。あんたが余計なことをしたせいで、特等席だ』
律は、繋がれた腕を忌々しそうに振り上げた。
ガチャン、という金属音が狭い室内に虚しく響く。
陸は、警察官としての誇りである手錠が、今は自分たちを外界から隔絶する”檻の鍵”に変わってしまったことを悟った。
「彼らは、君のお父さんの……?」
『佐藤達也を”飼っていた”連中だよ。
……死んだあいつの代わりに、今度は俺を”調教”し直すつもりらしい』
律の瞳には、死よりも深い絶望が宿っていた。
独りなら、まだ戦えた。死ぬこともできた。
だが今、自分の腕には、決して汚してはならなかった
”光”が繋がっている。
陸は、痛む腹を抑えながら、律の血の滲む手首をじっと見つめた。
刑事として、彼を連行すべき立場。
だが、この状況で彼の手を離せば、彼は二度と人間には戻れない。
「……救うと言っただろう。前言は撤回しない。
……たとえ、この腕を切り落とすことになってもだ」
『……黙れよ。反吐が出る』
どれほどの時間が経っただろうか。
コンテナは単調な振動を続け、二人の間には重苦しい沈黙だけが流れていた。
陸は、少しでも手首の負担を減らそうと、律の座り方に合わせて位置を調整した。
狭い。
物理的な距離だけでなく、精神的な距離が、呼吸を困難にさせるほどに近い。
何度も言うが、陸が律を救おうとしたのは、ある種の
”義務”だった。
可哀想な子供を、正しい場所へ戻さなければならないという、警察官としての、あるいは一人の大人としての”正解”。
だが今、手錠越しに伝わってくる律の脈動は、陸が積み上げてきた”正解”の脆さを嘲笑っているようだった。
「……律くん。君の手首、血が出ている。見せてくれ」
『触るな。あんたに心配される筋合いはない。俺は殺人犯で、あんたはそれを捕まえる英雄だろ。役割を間違えるなよ』
「……今は、どちらでもない。ただ、繋がれた二人だ」
陸は強引に、律の右手首を自分の手元へ引き寄せた。
律は短く息を呑み、抵抗しようとしたが、陸の握力の方が勝った。
手錠の角が食い込み、律の白い肌が真っ赤に腫れ上がっている。ところどころ皮が剥け、鮮血が金属を汚していた。
陸は自分のジャケットの裾を躊躇なく引き裂くと、それを律の手首と手錠の間に、クッションのように巻き始めた。
『……何の意味があるんだよ、そんなことして』
律の声から、毒気が少しだけ抜ける。代わりに、ひどく疲弊した、幼い子供のような響きが混じった。
「意味なんてない。ただ、これ以上君が傷つくのを、私は見たくないだけだ」
『……偽善者』
「偽善者でもいいさ、それで君が満足するなら」
律は抵抗をやめた。陸の大きな手が、自分の手首を包み込む。
父親の手は、いつも冷たかった。愛を囁くときも、罰を与えるときも、そこには血の通った温かさなどなかった。
だが、この刑事の手は、不快なほどに温かい。
その温かさが、律の中に残っていた”拒絶”という名の鎧を、少しずつ、不純物のように溶かしていくのが怖かった。
不意に、コンテナの揺れが止まった。 重厚な油圧の音が響き、外部からの光が、針の穴のような隙間から差し込んでくる。
律の身体が、弾かれたように硬直した。
『……来る』
律は、父親を支援していた冷徹なエリートたちが現れるのを予期し、身構えた。だが、扉を蹴り開けて入ってきたのは、高級スーツの男たちでも、訓練された兵士でもなかった。
ガムを噛み、場違いなアロハシャツや汚れた作業着を着た、下品な笑いを浮かべる数人の男たち。 彼らは手にバットやスタンガン、そして無造作に改造された拳銃を握っていた。
「……はぁ? どっちが『傑作』だ、これ」
リーダー格の男が、律と陸の顔の横に、画面の割れたスマホを並べた。
画面には、十年前の、まだ幼い律の写真。
「おい、アニキ。こっちのデカい方じゃないっすか? ほら、目つきが悪いし」
「バカ言え。佐藤のガキは『傑作』なんだぞ? こんなクマのひどいリーマンみたいな面してるわけねえだろ。……おいお前、お前が佐藤律か?」
律は、あまりのレベルの低さに一瞬、呼吸を忘れた。
父親の周りには、冷酷な知性と、研ぎ澄まされた悪意しかなかったはずだ。だが目の前にいるのは、アロハシャツのボタンを掛け違え、鼻の頭に大きな絆創膏を貼った救いようのない”バカ”だった。
『……佐藤達也に息子を紹介もされなかったような、プライドだけ無駄に立派な下っ端が、今更何の用だよ』
「あぁ? 言ってくれるじゃねえか。おい、こいつ生意気だぞ。やっぱりこっちがガキか?」
「いやアニキ、待ってください。刑事って言ってる方が、実は佐藤律が整形した姿って可能性も……」
「お前天才かよ! そうだよ、佐藤達也ならやりかねねえ! 自分の息子を三十代の刑事に整形させて、警察に潜入させる……。あり得る!」
陸は、人生で初めて”正義”という言葉を口にするのが恥ずかしくなった。
この男たちには、どんな法も、どんなロジックも、どんな魂の叫びも届かない。
なぜなら、彼らには思考回路そのものが欠落しているからだ。
「……私は警視庁の、本物の刑事だ。その青年を、今すぐ解放しろ」
「うるせえ整形野郎! 刑事のフリするなら、もうちょっとマシな嘘をつけ! 手錠で繋がれてる刑事がどこにいるんだよ。……おい、こいつら面倒だから、まとめてトラックの荷台に乗せて、山に捨てに行こうぜ。どっちかが本物なら、そのうち佐藤達也が泣きながら助けに来るだろ」
「アニキ、佐藤達也は死にましたよ」
「あ、そうだった。じゃあ、誰が助けに来るんだっけ?
「……知らねえっす。とりあえず、埋めればいいんじゃないすか?」
律は、あまりの理不尽さに、膝から崩れ落ちそうになった。
父親の遺した”最後の呪い”と戦う覚悟はできていた。だが、父親の威光を全く理解していない”バカの思いつき”で殺されるのは、あまりにも理解不能で、屈辱だった。
(……何だよ、これ。なぁ、父さん、あんたが教育した世界って、こんなにスカスカだったのか……?)
律が呆然としていると、陸が繋がれた左腕をグイと引いた。
その瞳には、ある種の”悟り”に近い、凄まじい決意が宿っている。
「……律くん。いいか、落ち着いて聞け。……この連中には、言葉は通じない」
『……分かってるよ。そんなこと』
「今から私が、全力であのアロハシャツの男に体当たりする。君は、私に合わせて右に跳べ。……いいか、刑事として命令する。……この”バカ”共に、殺されてたまるか」
手錠がジャラリと鳴る。
これまでのシリアスなサスペンスが、一瞬で”命がけのコント”のような泥仕合に変貌した。
だが、その理不尽な軽さが、皮肉にも律の心を一瞬だけ”過去の重圧”から解き放っていた。
さっきの小声のやり取りで、律は確かに頷いたはずだった。
だが、いざ体が動いた瞬間、陸が口にした「整形」という単語の破壊力が、遅れて脳髄を直撃した。
『……は? 整形?』
体当たりを仕掛ける陸に引きずられるようにして、律は”作戦通り”に跳んだ。
いや、もはや作戦というより、手錠で繋がれた陸との奇妙なシンクロ率が、彼の体を勝手に右へと運んでいた。
思考は停止しているのに、動きだけは完璧。
陸の正義感も、律の絶望も、そして「顔が偽物」という衝撃も、すべてをごちゃ混ぜにしたまま、二人の泥仕合は最悪の勢いで幕を開けた。
自分は今、人生のすべてを賭けた復讐を終え、この世の終わりみたいな顔をして、宿敵である刑事と対峙していたはずだ。それが、なんだ。この鼻の頭に大きな絆創膏を貼ったアロハ男は今、なんて言った。
「そうだよ! 完璧な教育(笑)とか言ってたけどよ、結局は見た目から作り替えたんだろ? 佐藤達也、やり口がエグいわー」
「アニキ、見てください。このガキも、よく見たら鼻筋が綺麗すぎますよ。これ、シリコン入ってますね。間違いない」
バカが律の鼻を触ろうと手を伸ばしてくる。
『……触んな、このデカ絆創膏ッ!! シリコンとか入ってねーよ、天然だよ! どこ見て言ってんだよ!クソが!!』
律は思わず怒鳴り返した。
父親の”気品ある拒絶”ではない。
年相応の、クラスの男子に絡まれた時のような、純粋にムカついた時の怒鳴り声だ。
陸は隣で、あまりの展開に呆然としていた。
「律くん、落ち着いて。……君たち、彼は整形なんてしていない。私は彼を数日間追っていたんだ。彼はれっきとした──」
「うるせえよ、整形外科の先生! お前、執刀医だろ! 自分の作品を庇うなよ!」
「執刀医……私がか!?」
陸の脳内の論理回路が、パチパチとショートする音が聞こえそうだった。
正論が通用しない。証拠も通じない。
このコンテナの中には、日本で一番IQの低い悪意が充満している。
『……刑事さん、もういい。こいつら、マジで病気だ』
律は、繋がれた右手で陸の袖をぐいっと引いた。
その顔は、冷徹な”怪物”ではなく、あまりに理不尽な状況にマジギレしている、ただの10代の青年だった。
『こいつらに佐藤達也のこととか、俺の過去とか話すだけ無駄。……殺されるくらいなら、こいつらのトラック奪って逃げるぞ。ついてこい、整形外科医!』
「外科医じゃないと言っているだろう!?」
律が走り出す。手錠で繋がれた陸は、反射的にそれに合わせるしかなかった。
「おい、逃げるぞ! 整形コンビが逃げるぞ!!」
「待てよ! 鼻のシリコン置いていけ!」
バットを振り回すバカたちを、律はひらりと身をかわして避ける。
父親に教わった”暗殺術”は、まさかバカのタックルを避けるために使うことになるとは思わなかった。
『刑事さん、そこ避けて! 左! 違う、俺の左じゃなくてあんたの左だよ! 合わないな、もう!』
「す、すまない! 君が急に動くから──」
『人のせいにするなとか言いたいこといっぱいあるけど、とりあえず走れ!!』
二人は手を繋いだまま、コンテナの開いた扉から、
夜の国道へとダイブした。
アスファルトの上を二人の体が、一つの塊となって転がっていく。
『いっ……つぅ……!』
律は地面に叩きつけられた衝撃で顔をしかめた。
だが、すぐに陸が律の体を抱き起こす。
「律くん、怪我はないか!?」
『……うっさい、顔が近い! ほら、バカたちが降りてくる。行くぞ!』
律は、陸の手を無理やり引いて走り出した。
背後からは「俺のシリコンー!」という、恐怖感ゼロの、けれど異常にしつこい叫び声が追いかけてくる。
雨に濡れた夜道を、刑事と青年が、手錠をガチャガチャと鳴らしながら全力で疾走する。
父親の影も、刑事の威信も、今はどこにもない。
あるのは、ただ”隣の奴と歩幅を合わせないと転ぶ”という、滑稽で切実な現実だけだった。
『っざけんなよ、マジで……!』
律は、錆び付いた自動ドアを無理やりこじ開け、無人のコインランドリーに滑り込んだ。
深夜の国道沿い、蛍光灯がチカチカと死にかけている薄暗い店内。背後で、陸が転げ込むように入ってきて、即座にドアをロックする。
「……巻いた、か」
『知るかよ。……っていうか、あんた、足遅すぎ!
運動不足なんじゃないの?』
「……これでも警察学校では、常に上位だったんだ……。君の身のこなしが、異常なだけだ……」
陸は膝に手をつき、肺が焼けるような呼吸を繰り返している。
二人の手首を繋ぐ銀色の手錠は、逃走中の激しい動きでさらに傷だらけになり、律の手首からは再び血が滲んでいた。
『……あいつら、なんなんだよ。刑事を整形外科医って……。あいつが見たら、絶望してもう一回死ぬよ、絶対』
律はランドリーの冷たい床に座り込み、忌々しそうに手錠を睨みつけた。
さっきまでの”佐藤達也の傑作”としての威厳はゼロだ。髪はボサボサ、アロハ男のバットを避けた時に被った泥で、頬も汚れている。
「……律くん。ひとまず、その手首を見せなさい。
さっき無理に引いただろう」
『いいよ、そんなの。それより、これ外してよ。あんた刑事でしょ? 鍵持ってないの?』
律が、いかにも”大人は何でも持ってるだろ”と言いたげな、年相応のふてぶてしい視線を陸に向ける。
陸は苦い顔で、自分のベルトのあたりを探った。
「……あいつらに捕まった時に、腰の装備一式を奪われた。手錠の鍵も、予備の拳銃も
……すべて、あのアロハシャツの男が持っているはずだ」
『……役立たず』
律は深く溜息をつき、乾燥機に頭を預けた。
外では遠く、「おーい! 整形コンビー! 逃げても無駄だぞー! お前が整形したって事実は、俺たちの利権の中にバッチリ記録されてんだからなー!」という、IQがゼロどころかマイナスに振り切れた叫び声が、夜風に乗って聞こえてくる。
『……利権ってなんだよ、意味わかって使ってんのかよ、アイツら』
「……無視しなさい。……それより、これをどうにかしないと、朝には本当に警察の応援か、あのバカたちに見つかる」
陸は店内を見渡した。
洗剤の自動販売機、ベンチ、そして大量の洗濯機。
彼は律の横に座り、繋がれた自分たちの手を見つめた。
「律くん。……嫌かもしれないが、少しの間、私に密着してくれ。この手錠を乾燥機の隙間に挟んで、テコの原理で歪ませられるか試してみたい」
『……はぁ!? やだよ、おじさんと密着とか。キモい』
「……お、おじさん……!? 私はまだ三十代だ!
それに、これは合理的な判断だと言っているだろう!」
『うるさいな、整形外科医! ほら、やればいいんだろ、やれば!』
律は文句を言いながらも、しぶしぶ陸の方へ体を寄せた。
手首が繋がっているため、陸の肩と律の肩がぶつかり合う。
本当に、さっきまでの”殺すか殺されるか”の緊張感は、どこへ行ったのか。




