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一方で。

警視庁に戻った(りく)は、律に投げつけられた言葉の残響に、今も胸を抉られていた。


自分の正義は、本当に暴力だったのか。

彼は、自らのデスクに置かれた”警察手帳”をじっと見つめ、何かを悟ったようにその手帳を強く握りしめた。


雑居ビルの一室には、鉄錆(てつさび)と脂の混じった匂いが充満していた。

(りつ)は、事切れた男の死体から静かにナイフを引き抜くと、汚れた刃を男のシャツで丁寧に拭った。息を切らすことも、手が震えることもない。父親が望んだ通りの”無機質な殺戮者(さつりくしゃ)”の動きが、皮肉にも今の律を支えていた。


デスクの上に置かれた電話が、けたたましく鳴り始める。

律は受話器を取り、無言で耳に当てた。


「……もしもし。回収担当の『ウサギ』だ。そちらの状況を報告しろ」


スピーカー越しに聞こえる、歪んだ加工声。

幼い頃、倉庫の闇の中で聞いたあの不気味な声と同じだ。


律は、鏡に映る自分の顔を見た。そこには、怯える子供の面影はどこにもない。


『……報告? 掃除は終わった。次はお前たちの番だ』


律の声は、驚くほど平坦だった。


「……あの時の佐藤のガキか。自ら名乗り出るとは、よほど死に急いでいるようだな」

『死ぬのはお前たちだ。あいつの脚本はもう書き直した。俺はもう、逃げない、かかってこいよ』

律は一方的に電話を切ると、受話器を叩き壊した。


外に出ると、夜の冷気が頬を撫でる。


律は、自分がかつて”守られるべき存在”だったことを、もはや思い出せなくなっていた。

ミナのいる温かい施設の光も、陸が差し出した厚い上着の感触も、すべてはこの闇の中で動き続けるための”不純物”に過ぎない。


一方で、警視庁の廊下。

陸は、暗い窓の外をじっと見つめていた。


「……陸さん、どうかしたんですか? 顔色が悪いですよ」

後輩の問いかけに、陸は小さく首を振った。


彼の目には、情熱も、執着も、以前のような狂気的な光も宿っていない。

ただ、何かを取り返しのつかない形で失った者の、虚ろな静寂があった。


「……いや。何でもない。ただ、自分の思い上がりに気づいただけだ」


陸は、デスクの上に置いたままの、律への”更生支援計画書”を、ゆっくりと、音を立てて破り捨てた。

それは、律という個人を”救いたい”と願った個人のエゴを捨てる行為だった。


「本庁から連絡があった。港区のビルで殺人事件だ。容疑者は……指名手配中の、佐藤律」


陸の声には、もう揺らぎはなかった。

彼は淡々と腰の拳銃を確認し、警察官としての”仮面”を深く被り直した。


「全ユニットに緊急手配。……彼はもはや、保護対象の青年ではない。凶悪な犯罪者として、法の下に制圧する」


陸は、律が望んだ通り、彼を”理解する”ことを止めた。

それが律への唯一の報復であり、そして警察官としての、冷徹な”正解”だったからだ。


雨が降り始めた。

律は、闇に溶け込みながら、次の”獲物”の気配を追う。

背後からは、サイレンの音が遠く、しかし確実に近づいていた。


降りしきる雨が、アスファルトに散った血を無慈悲に薄めていく。


路地裏。律は、崩れ落ちた三体目の死体を見下ろしながら、激しく上下する肩を落ち着かせた。


父親が自分を支配するために使った”恐怖の道具”たちが、今はただの肉塊となって転がっている。

自分を極限まで追い詰め、世界を嫌わせるために仕組まれたこの”着ぐるみ”たちは、中身を暴いてみれば驚くほど空っぽだった。


(……ねえ、お父さん。あんたの言った通りだよ。

外の世界はこんなに脆くて、くだらない)


律はナイフを収めることもせず、雨の中に立ち尽くした。もはや自分がどこへ向かっているのか、何のために殺しているのかも曖昧になりつつあった。


復讐を遂げれば遂げるほど、自分の中の”佐藤律”という輪郭が消え、父親が望んだ”純粋な暴力”へと溶けていく感覚。

だが、まだ終われない。律は雨を切り裂き、最後の場所へと足を進めた。


組織の最終拠点。かつて父が『最高傑作』を自慢げに報告していたであろう広大な倉庫。

その中には今、律が夢にまで見た悪夢の具現者──”ウサギ”たちが集まっていた。

今の律にとって、彼らはもう恐怖の対象ですらなかった。扉を開けた瞬間から、律の動きに一切の迷いはなかった。


「……なんだ、ガキ一人か」

着ぐるみを脱ぎ捨て、剥き出しの凶器を構える男たち。かつて律を誘拐し、倉庫に閉じ込め、世界を呪わせた「ウサギ」の正体。律は無言で地を蹴った。


父親の教えは、呪いであると同時に、最強の武器だった。

関節の隙間、頸動脈、肺の直下。律のナイフは、まるで精密な外科手術のように、最小限の動きで男たちの命を断っていく。

一人が叫び、一人が這いずり、一人が命乞いをする。


「お、お父さんは……佐藤達也さんは、お前を愛していたんだぞ!」

最後の一人が放ったその言葉に、律のナイフが止まる。

律は男の胸ぐらを掴み、その耳元で、佐藤達也そっくりの穏やかな声で囁いた。


『……知ってるよ。だから、あいつが大切にしていたお前たちを、俺が壊してあげるんだ』


短い断末魔。それが、律を縛り続けてきた組織の終焉の音だった。

床一面に広がる、皮肉なほど鮮やかな赤。律は血に濡れたナイフを床に捨てた。


復讐は終わった。呆気ない程、簡単に。

ウサギは一匹残らず死に、”お父さんの庭”は瓦礫の山へと変わった。


その時だ。

倉庫の巨大な扉が、外側から激しく抉り開けられた。

雨の音を切り裂いて、複数の車両が建物を封鎖する音が響く。赤と青の散光式警光灯が、壁に映る律の影を不気味に揺らした。


「警察だ! 武器を捨てて両手を上げろ!」


突入してきたのは、防弾チョッキを纏った特殊部隊。そして、雨に濡れた”天野陸”だった。


無数のレーザーサイトの赤い点が、律の胸元に集まる。陸は惨状を目の当たりにして息を呑んだ。

そこにあるのは”事件”ではない。

一人の青年が、自らの過去を完遂させるために作り上げた地獄だった。


陸の瞳には、かつての献身的な熱量は微塵も残っていない。雨に濡れたその瞳は、まるで精密機械のように冷たく、律を”一人の殺人犯”として冷徹に捕捉していた。


『……遅かったな、刑事さん』

「……佐藤律。現時刻をもって、連続殺人容疑で現行犯逮捕する。……抵抗すれば、射殺も辞さない」


陸の言葉に、迷いはなかった。

彼はもう、律を救おうとはしていない。理解しようともしていない。ただ、法を犯した存在を排除するという、国家の歯車としての正義を全うしようとしていた。


律は、その”冷たい断罪”に、言いようのない安堵を感じていた。

理解も同情もいらない。自分をただの”悪”として切り捨ててくれることこそが、律がこの世界から受け取れる唯一の、そして最後の誠実さだった。


『……全部、終わったよ。刑事さん』

律は、血まみれの手をゆっくりと挙げた。


陸の到着を待っていたのではない。

ただ、自分の物語の幕引きに、かつて自分にスープを飲ませてくれた”唯一の光”を呼んだに過ぎなかった。


陸の銃口は震えていた。警察官としてこの”怪物”を今すぐ制圧すべきだという理性と、その怪物を生み出した”世界”への、言いようのない憤り。

律は初めて陸に向かって、微かな、しかし子供のような純粋な笑みを浮かべた。


『……俺を捕まえて、何て呼ぶつもり? ”殺人犯”?

それとも……”救えなかった子供”?』


その問いに、陸は引き金にかけた指を、血が滲むほど強く握りしめた。

引き金にかけた人差し指が、自分のものとは思えないほど冷え切っていた。

陸の視界は、雨と、血の赤と、そして律の浮かべた”子供のような微笑”で埋め尽くされている。


(……ああ、そうか。僕は、間違えていたんだ)

陸の脳裏に、これまで自分が律に注いできた”善意”が、バラバラと音を立てて崩れ落ちる幻影が見えた。


自分は彼を救おうとした。

温かいスープを与え、上着を着せ、真実を教えれば、彼は”正しい世界”に戻ってくると信じて疑わなかった。

だが、その”正しさ”こそが、律にとっては最も鋭利なナイフだったのだ。


律の父親、佐藤達也は、恐怖という着ぐるみを着せて律を支配した。

自分は、その気は無くても、正義という着ぐるみを着せて律を支配しようとした。


本質は何も変わらない。

律を”救われるべき弱者”という枠に閉じ込め、自分の理想とする形に矯正しようとしたエゴ。

それは、佐藤達也の歪んだ教育と、鏡合わせの暴力に過ぎなかった。


周囲の特殊部隊員たちは、陸の合図を待っている。

今ここで、目の前の怪物を射殺すれば、すべては”正義の勝利”として記録されるだろう。律は凶悪な殺人犯として歴史に刻まれ、自分は職務を全うした英雄としてバッジを守れる。


だが、陸の心には、吐き気がするほどの自己嫌悪が渦巻いていた。


(僕は、彼に”一人の人間として生きろ”と言いながら、彼が選んだ”復讐”という名の意志を、一秒たりとも認めようとしなかった)


律が組織を全滅させたのは、彼なりの”落とし前”だった。

父親の作った世界を、自分の手で終わらせる。


それは、彼が誰の道具でもないことを証明するための、”血まみれの儀式”だったのだ。

それを、自分は”法の執行”という言葉で塗り潰し、

再び彼を”檻”へ連行しようとしている。


「……何て呼ぶつもり、か」

律の問いが、陸の鼓膜を震わせる。


”殺人犯”か、”救えなかった子供”か。

どちらも違う。そんな言葉で彼を定義することは、もうできない。


陸は、ゆっくりと銃口を下げた。

背後の隊員たちがざわつく。指揮官としての義務を放棄する、あってはならない行為だ。


「……陸さん! 何を……!」

後輩の声を無視し、陸は雨に濡れたコンクリートを踏みしめて、律の元へ歩み寄った。


レーザーサイトの光が、陸の背中にもいくつも重なる。もし律が動けば、陸ごと撃ち抜かれるかもしれない死線。


陸は、律の目の前で止まった。

そして、震える手で腰から手錠を取り出し、それを律に向けるのではなく、自分と律を繋ぐように握りしめた。


「……君を、救えなかったんじゃない。

僕は、君を”見ようとしていなかった”。……ごめん、律くん」


それは、刑事としてではなく、一人の身勝手な人間としての、敗北の告白だった。

陸の瞳から、初めて”正義の光”が消え、一人の男としての絶望と後悔が溢れ出す。


律は、陸のその”崩れた顔”を見て、満足げに目を細めた。

聖者が地に堕ち、自分と同じ泥の中に降りてきた。

その瞬間、律を縛っていた父親の呪縛が、ほんの少しだけ、軽くなった気がした。


『……やっと、まともな顔になったな。刑事さん』


律は、血まみれの両手を陸に差し出した。

冷たい金属の音が、雨音に混じって小さく響く。


二人の運命が、最も残酷で、最も対等な形で結ばれた瞬間だった。


「……陸さん! 伏せろ!!」

部下の叫びと同時に、倉庫の天井を突き破って数条の閃光弾が投げ込まれた。


凄まじい轟音と白光。陸の視界が真っ白に染まる。

反射的に律を庇うように押し倒した瞬間、背後から無機質な機械音が響いた。


──カチリ。


陸が律の手首にかけようとしていた手錠。その片方の輪が、爆風の中で律の手首を、もう片方の輪が、陸自身の左手首を、固く、冷酷に繋ぎ止めた。


「が……っ、律くん!!」

『……離せ……っ』


視界が戻らぬまま、上空から降下してきた漆黒の影たちが二人を囲む。彼らは先程の「ウサギ」たちとは比較にならないほど洗練された動きで、抵抗する陸の腹部に重い衝撃を叩き込んだ。


「ぐ、あ……」

「検体と、………おまけだ。まとめて回収しろ」


意識が遠のく中で、陸は自分の左手首に食い込む金属の感触だけを強く感じていた。

繋がっている。

殺人犯の青年と、自分。


二人の体温が、雨と泥にまみれて混じり合う。

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