02
駅の雑踏は、律にとって巨大な洗濯機の中に放り込まれたような不快感をもたらしていた。
通勤客の肩がぶつかるたび、律の背中には冷たい汗が流れる。誰もが死んだ魚のような目でスマホを見つめ、数時間前に自分が父親を殺してきたことなど、微塵も疑っていない。
(……ああ、反吐が出る)
これほど多くの人間がいるのに、この中に自分の味方は一人もいない。
それどころか、事実を知れば彼らは一斉に指を差し、
正義の側に立って自分を糾弾するだろう。
律は券売機の列に並びながら、震えそうになる指を必死に抑えていた。
「君、大丈夫? 顔色が悪いけど」
突然、背後から声をかけられた。
律の心臓が、肋骨を突き破らんばかりに跳ねる。
反射的にポケットの中のナイフを握りしめようとして、思いとどまった。
振り向くと、そこには親切そうな顔をした駅員が立っていた。
『……いえ。寝不足なだけです』
律は声の温度を落とし、努めて平坦な声を出した。
駅員は「無理しちゃダメだよ」と、眩しいほどの笑顔を向けてくる。
その無防備な善意が、今の律には鋭利な刃物のように感じられた。
逃げるように改札を抜け、ホームに滑り込んできた電車に飛び乗る。
一方で。
律が去ったあの凄惨なアパートの部屋に、一人の男が足を踏み入れていた。
「……ひどいな」
刑事・天野陸は、鼻をつく血生臭さに眉をひそめることなく、遺体のそばにしゃがみ込んだ。
被害者は、この部屋の主。
近隣の評判は決して悪くなかった。
男手一つで息子を育て、慎ましく暮らす”苦労人の父親”──それが、陸の手元にある捜査資料の第一印象だ。
「陸、見なよ。これ、迷いがないというか、
あまりに冷酷だ……。恨みがあったにしても、
育ての親にここまでするかね」
同僚が、吐き捨てるように言った。
陸は、部屋の隅に置かれた一枚の賞状に目を留めた。
律が小学生の頃にマラソン大会でもらったものだ。
額に入れられ、埃一つなく飾られている。
「……大切に育てていたんだろうな。父親は。
律くん。君は、どれほど身勝手な理由で、この愛を壊したんだ」
陸の瞳には、冷徹なまでの正義感が宿っていた。
陸には、律が“親の恩を仇で返した青年”に見えていた。
「早く捕まえよう。彼をこれ以上、逃亡という闇に置いておいてはいけない。法の下で罪を自覚させることが、彼にとっても唯一の救いになるはずだ」
陸は本気でそう思っていた。
それが、自分の信じる”正しい世界”のルールだからだ。
その頃、律は電車の窓に映る自分の顔を眺めていた。
窓の向こうには、平穏な街並みが流れている。
あの”温厚な父”の死を悼む近隣住民や、
律を”恩知らずの殺人鬼”と呼ぶであろう警察たちが住む、眩しすぎる世界。
(勝手に言ってろ)
律は座席の端を強く掴んだ。
爪が安っぽい合皮に食い込む。
あいつらは、何も知らない。
何も知らないくせに、俺を語るな。
パトカーのサイレンが、遠くでまた一つ鳴り響いた。
律は、自分がすでに巨大な網の中に囚われ始めていることを直感する。
しかし、その瞳に宿っているのは絶望ではない。
(来るなら来いよ。あんたたちの綺麗な正義で、俺を殺しきれると思うなよ)
電車は、律の意志とは無関係に、次の目的地へと速度を上げていった。




