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01

本作品はフィクションであり、実在の人物・団体等とは一切関係ありません。


作中に暴力や犯罪行為、および反社会的な描写が含まれますが、これらは物語の演出上の表現であり、いかなる違法行為や思想を肯定・助長するものではありません。


閲覧によって生じたいかなる事象につきましても、著者は一切の責任を負いかねます。ご了承の上、自己責任にてお楽しみください。

親をこの手で殺した。


だって、しょうがないだろ。


他に選べる道なんて、どこにも用意されていなかったんだ。

世界は広いくせに、俺が立てる場所だけが欠けていた。


こうするしかなかったんだ。


誰だって、生きるためには呼吸をする。

俺にとっては、あいつの息を止めることが、それと同じだった。

ただそれだけのことだ。後悔なんて、してやるもんか。


耳鳴りがしていた。

キーンと高く、脳を直接針でなぞるような無機質な音。

それ以外、この部屋にはもう音がなかった。


佐藤(りつ)は、畳の上に座り込んでいた。


視線の先には、かつて”父親”と呼ばれていた肉の塊が転がっている。

喉元を深く切り裂かれたそこからは、どくどくと溢れ出ていた赤色が、今はただどす黒い水溜まりとなって古い畳に吸い込まれていた。


部屋の中は、空気が死んでいた。

さっきまで響いていた怒号も、肉が裂ける鈍い音も、命が漏れ出す喘ぎも、すべてはこの静寂に飲み込まれた。


『……あ』


律の唇から、小さな吐息が漏れた。

自分の声が、他人のもののように遠く感じる。

指先を見てみると、赤黒い液体が爪の間にまで入り込み、乾き始めていた。


熱い。

いや、冷たいのかもしれない。

感覚が麻痺していて、温度さえも正しく認識できない。


(感情を、消せ)

律は自分に言い聞かせた。


ここで震えたら負けだ。ここで泣いたら、あいつの望み通り”可哀想な子供”に成り下がってしまう。

俺は、俺を守るためにこいつを排除した。

それは、害虫を叩き潰すのと同じ、あまりにも正当な防衛反応だ。


律は立ち上がり、ふらつく足取りで洗面所へ向かった。

蛇口を捻ると、錆びた水の匂いと共に冷水が勢いよく流れ出す。

石鹸も付けず、ただひたすらに手を擦り合わせた。

水が真っ赤に染まり、排水溝へ吸い込まれていく。

何度も、何度も。皮膚が赤く腫れ上がるまで洗っても、爪の間の汚れは落ちない気がした。


鏡を見た。

そこに映っていたのは、ひどく顔色の悪い、

しかしどこか晴れ晴れとした瞳をした

十七歳の青年だった。


”律”という名前を付けたのは、あそこに転がっている男だ。

正しい規律の中で生きるように。そんな願いを込めたのだと、昔、酒に酔う前の男が言っていた気がする。


笑わせるな。

お前が俺に教えたのは、規律なんて高尚なものじゃない。


奪われる前に奪うこと。殺される前に殺すこと。

この世には、捕食者と被食者の二種類しかいないということだ。


『……着替えなきゃ』


律は自分の部屋に戻り、血の飛沫を浴びたシャツを脱ぎ捨てた。

代わりに手に取ったのは、何の変哲もない黒いパーカー。

タンスの奥に隠しておいた、数万円の現金と予備のスマホ。


この日のために、少しずつ準備してきたものだ。


窓の外を見た。

皮肉なほどに綺麗な、明け方の空が広がっている。

街はもうすぐ動き出す。新聞配達のバイクの音が遠くで聞こえ、どこかの家の飼い犬が吠えた。

世界は何事もなかったかのように、今日という一日を始めようとしている。


律は、最後に一度だけ死体を見下ろした。


不思議と、怒りも憎しみも、もう湧いてこなかった。

ただ、長年抱えていた重い荷物をようやく下ろした時のような、空っぽな解放感だけがあった。


玄関を出て、鍵はかけなかった。

もう、ここに戻ってくることは二度とない。


朝の冷たい空気が、肺の奥まで入り込む。

一歩、足を踏み出す。

アスファルトの感触。

まだ誰もいない路地裏を、律は歩き始めた。


これから自分は”人殺し”として追われることになる。

正義を背負った奴らが、血眼になって俺を探すだろう。

善人ぶった奴らが、憐れみと石を同時に投げてくる。


(勝手にしろ)


律はパーカーのフードを深く被り、顔を隠した。

俺を捕まえられると思うなよ。

俺はもう、誰にも、何にも縛られない。


その時、律の背後で、パトカーのサイレンが微かに、しかし確実に鳴り響いた。


まだ、事件が発覚するには早すぎるはずだ。

偶然か、それとも。


律の心臓が、一度だけ大きく跳ねた。

殺しきれなかった感情が、喉の奥を熱く焦がす。


彼は舌を打ち、人混みが生まれ始めた大通りへと姿を消した。

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