18 14歳の頃、兄との記憶です。
ずっと以前、まだ母が生きていた頃、軍に身を置いていた頃の記憶。
未成年の私が軍に属していた理由は単に母が元帥の座まで上り詰めたことにある。
これはいつだったろうか、私が14歳の頃だったように思う。
「雨…」
重く垂れ下がる雨雲が昼間だというのに辺りを暗く覆っていた。
冷えた雨粒が辺り一面を打ち付け、気温を奪っていく。緑を失った冬の森は、時折強風が吹き付けてくる。
枯れ木に隠れるように張ったいくつものテント、その一つに私はいた。
雨粒がテントを打ち、ポツポツと音を立てている。
「作戦を伝達する」
机上に地図を広げ、銀髪を刈り上げた少年が発言した。
「明朝に峡谷から敵軍が攻め入ってきたことで、現在は敵国側に面する渓谷にて激しい戦闘が繰り広げられている」
銀髪の少年は一息に説明し、地図上に赤でバツ印を書いた。
「地の利が敵方にあるとして、もう11時です。ずいぶんと手こずってますね…ルイ中佐の見解は?」
赤髪の青年がゆったりとした声音で訊ねた。燃えるよう赤髪がぴょこぴょこと寝癖で跳ねている。
「ミシェルが言うとおり、俺もその点は危惧しているが…現在、前線の指揮はボナパルト大帝が行ってる」
中佐と呼ばれた少年は、雰囲気を崩し、仕方ないとばかりに肩を竦ませる。
大帝カロリング・ボナパルト、我が国の王であり、国軍を統べる長である。大帝の指示とあらば、その判断を覆せる者はいない。彼は次々に周辺諸国を侵攻していた。
「クラウディアはこの均衡が崩れると思うかしら?」
母はにこりと微笑みながら、私に質問した。
「隆起した渓谷で数はあてになりません。長くは持たないと推測します、兄さま」
ルイ中佐と呼ばれた少年、自身の兄に対し意見を述べる。
「そうだね、敵軍も悠長に構える気はないだろうし」
ミシェルは私の発言に頷き、地図の端に位置する国に視線を走らせた。
「前線での戦闘に加え…」
兄が地図にタバコの箱を置いた。
「敵軍は南方から渓谷を迂回し、我軍は退路を絶とうとしている」
タバコの箱を敵軍に見立て、渓谷を迂回させる。そして、自軍に見立てた缶詰を地図上に配置した。
「これではボナパルト大帝とともに心中ですか」
ミシェルはバツ印とタバコの箱に挟まれた缶詰に指を乗せた。細く白い指先がくるくると缶詰をなぞり、バツ印へとゆっくり後退させていく。
「つまり、絶たれそうになっている退路を奪い返せばいいのですね」
私は地図に視線を落とし、後退していた缶詰でタバコの箱を押し返した。
「ああ、クローの言うとおり…けど」
兄は神妙に頷いた。
「敵軍ご自慢の竜騎兵ですね?」
ミシェルは赤髪の寝癖を手でおさえながら、近くに落ちていたチリ紙をタバコの箱に乗せた。
「厄介よ。私も過去に対峙したけど、なかなかの少数精鋭部隊ね」
母はそう言って、考え込むように両腕を組んで目を瞑った。
「…今回の件、母上が指揮を執るべきです」
兄は無表情のまま、母に判断を委ねた。
「私はもう前線に出られないと言ったでしょ?第二師団長はクロードよ、しゃんとなさい」
母はきっぱりと言い切った。
「お母様はまだ見えないのですか?」
私は自身の右眼を指差し、母に訊ねる。
「ええ、もう見えないわ」
母は私に微笑んだまま、端的に答えた。
その答えに私は覚悟を決める。
「竜騎兵…火器を装備した兵士です。手強いですが、砲弾により一掃できれば敵軍の士気を一気に下げることができます」
私はタバコの箱の上からチリ紙を取り上げる。
「今日の夜にはマセナが来るわ」
母はニヒルな笑みを浮かべ、長い銀糸の髪をかきあげた。
「夜まで待っていては全滅しますが…」ミシェルが後に続く。
「ここで持ちこたえ、第三師団が到着すれば、こちらの勝機は見えたも同然」
兄はそう言い切ってから、覚悟を決めるように深く息を吐いた。
「渓谷の南方で待機し、砲弾により竜騎兵を一掃する」
兄の指示により、私達は敵軍を迎え撃つこととなった。
雨でぬかるむ地面を踏み、丘へ登っていく。打ち付ける雨粒が体温を奪う。
小鳥がバタバタと逃げるように飛び去っていく。
岩肌があちこちに覗き、パキリと落ちていた小枝が折れる。
私を含め約60名の歩兵部隊で、急な斜面を登っていた。ほとんどの兵が前線に駆り出され、こちらは手薄というしかない状態だった。
「竜騎兵…」
騎乗することで機動力に優れ、マスケット銃による中距離攻撃を得意とする部隊。更には接近戦に備え、剣術も極めていると、過去に敵国の捕虜から噂に聞いたことがあった。
嫌な予感に背筋が寒くなる。
縋るように視線を上げれば、いつも私の先を歩んで進む兄の背中が目に入る。
黙々と斜面を登る姿に、兄がいるから大丈夫と自身を鼓舞した。
はたと、兄は急に立ち止まる。自然、歩みを進めていた私と横並びとなった。
2人肩と肩がぶつかりそうな距離感を保ち、私達は坂道を登る。
兄の銀糸の髪は雨に濡れ、ぽたぽたと水滴が滴っていた。
「クロー、帰ったら『おかえり』って言ってくれないか?」
兄は前を見据えたまま、表情を崩すことなく私に話しかける。
「…いかがされましたか?」
兄の言葉が意図するところを察しかね、私は聞き返した。
「クローがいる場所が、俺の帰る場所だから」
兄は無表情のまま、そう答えた。
「承知しました」
私はこくりと、一つ頷く。
「それと…クローにこれを預けるよ」
兄は私にピストルを差し出してきた。
「私にはこれがあります」
私は肩にかついだマスケット銃を示し、兄の申し出を辞退する。
「こういう時は素直に受け取るものなんだが…」
兄は困ったようにこめかみを掻く。
「これは護身用でしょう?兄さまが持っていてください」
「お守りみたいなものだよ。こいつを手放す時は…俺が死ぬ時って決めてる」
兄の手に握られたピストルは、剥き出しになった6つのバレルが銀色の光を放ち、木製のグリップ下方には小さな青色の宝石がはめ込まれ、緻密な装飾が施されていた。
実用品というよりも装飾品に近い印象を受けるようなピストル。
「手放す時は死ぬ時だなんて…呪いみたいですよ」
だったら、このピストルが兄の手元を離れる時が私の死に時だ。
「そのくらい肌身離さず持ってるってことだよ」
「だったら、絶対に手放さないでください」
私は兄に対し冷静な風を装い、差し出されていたピストルを手で押し戻した。
「…これはクローに預けるんだ。こいつがクローを守ってくれますよーに、って願いを込めて」
兄はそう言って、押し戻されたピストルを勝手に私の腰ベルトに差した。
「願い…ですか」
私は兄の言葉を口の中で転がした。
「お子様のお前にはまだ難しいか?」
兄はからかうように楽しげに笑う。
「兄さまと一つしか違いませんよ。それに、私は兵力として十分に軍に貢献しているつもりです」
「ああ、十二分にな。けど、そういう意味じゃないよ」
煙に巻かれているような気分だったが、これ以上の問答は不要とばかりに兄は歩みを速め、先へと行ってしまった。
「必ず返します…」
誓うように私は呟いた。
不安や焦りが心中を渦巻くが、今は戦だ。冷静でいなければ。
恐れは一瞬の躊躇を生み、その刹那で容易く殺られる。
渓谷の小高い丘。
大岩や低い木々に身を隠し、草木で砲弾を覆い待機した。
気付けば雨は止んでおり、重たい曇天が覆い尽くす。
息を殺して、待機を続ける。
前線を板挟みにするべくやってくる敵軍を待った。
「前方に敵軍確認!」
仲間の一人が声を上げる。
砲弾を扱う砲兵が弾を装填する。
兄は片手を上げ、合図の用意をする。
敵軍が渓谷に入り、徐々に距離を詰めてくる。
距離にして80m、丘の真下を敵軍が猛進する。
人数は目視で約50人ばかりだろうか。全員が騎乗し、マスケット銃を装備していることがわかった。
地響きに近い馬の駆ける音。
風が強く吹き付けた。
口の中に砂利が入り、奥歯を噛み締めればギリギリと嫌な音を立てる。
「撃てーーー!」
兄は合図し、砲弾が敵軍に命中した。
敵軍が方向を変え、こちらへと迫ってくる。
「撃てーーー!」
兄の合図とともに再び砲弾が飛ぶ。
迫る竜騎兵。
降り注ぐ砲弾。
爆破される大地。
合間を縫って飛び込んできた竜騎兵の集団が、40m先まで接近していた。
私はマスケット銃で照準を定め発砲する。
反動で肩が外れそうな衝撃に耐え、慣れた痛みを受け流す。
瞬間。
破裂音。
何が起きているか。
わからなかった。
「ーーーっ…!」
敵軍の銃弾が雨のように降ってきた。
岩に身を隠すが、避けきれなかった弾が右上腕を掠った。
自軍の陣形が崩れ、近すぎる故に砲弾の射程圏内から外れたことがわかった。
逃げる兵もあれば、狙撃するものもあり、指示系統が一瞬で崩壊する。
指示を仰ぎたかった。
兄の強い意志を持った声が導いてくれることを待った。
「兄さま…!」
いつまで待機すればいいのか、兄の声が聞こえてこない。
このままでは殺られる。
焦りとともに兄の姿を探した。
「兄さま…?」
兄が腹部を抑え、その場で蹲っている。
出血しているのか軍服に赤い染みができていた。
「ーーーっ!!!」
体が急に沸騰したように熱くなり、それでいて凍えるように寒い。
ひどく動転しているようで、ひどく冷静であるような感覚。
視線を回して敵兵の位置を把握する。
紙製薬莢をポケットから取り出し、先端を歯で噛みきった。
銃口から火薬を装填し、私は両手で自身のマスケット銃を構える。
敵味方が入り乱れ、手元が狂えば見方を狙撃しかねないような乱戦状態。
騎乗する竜騎兵はいい的だった。
引き金を引けば、弾が直線に発射され、敵兵がずるりと馬から落下する。その様を最後まで見届けることなく、次々に薬莢を詰めては引き金を引いた。
敵軍と自軍。
薬莢と火薬。
銃声と怨声。
「弾切れ…」
薬莢が底を尽きる。
意識するより先に足が動き、勢いよく地面を蹴っていた。
数名の敵兵がこちらを視認したことが分かった。
騎馬の群集に突撃する。
水溜りには泥が沈み、足元をすくう。
瞬間、敵軍の銃弾が降り注いだ。
右大腿部に衝撃が走る。
「クソが…!」
動け。
動け、今ここで戦わなければ。
全滅だ。
無理矢理に足に力を込め、竜騎兵の集団に、乱戦状態の群集に飛び込んだ。
「あと25…」
半径約30mの範囲に竜騎兵残数が25名、感覚的に俯瞰で位置を捉えていく。
敵味方が入り乱れる状況では、火器による攻撃は味方を撃ちかねない。
乱戦の中で、馬は混乱したまま方々へと逃げ惑っている。
「死ねえええええ!」
背後から咆哮をあげて、一人の男が剣を振るってきた。
あからさまな殺意と敵意。
ゾッとするような剣幕で、敵軍の男は容赦なく私を斬りつけよう迫ってくる。
男は剣を振りかぶり―――その斬撃をマスケット銃の銃身で受けながら、腰に下げていた剣を抜き―――そのまま、剣を抜きざまに男を切りつけた。
返り血を浴びながら、男に対し追撃をしようと踏み込んだ時―――横から顔面をわしづかまれる。
「―――っ?!」
頭蓋骨を握りつぶす程の力でギリギリと顔面を掴まれ、反射的に引き剥がそうと手を伸ばしたくなる思いを押さえ込む。ここで男の手を引き剥がそうとしたところで、力で敵うはずがない。
私は顔面を掴まれ地面から浮き上がった状態のまま、腹筋を使って体を回転させた。そのままの勢いを利用して―――遠心力に身を任せて―――男の腹部を切り裂いた。顔面を掴む力が抜けて、私の体は自然落下した。
掴まれていた顔面から手が離れれば、先ほど切りつけた男が再び剣を振り上げている様が視界に飛び込む。着地を待っていては遅い。落下しながら空中でバランスを取り、敵兵の剣をマスケット銃で受けながら、相手の頸部に上段回し蹴りを入れる。安全靴の踵で勢いよく頸部を狙えば―――喉仏を潰すように、息の根を奪うように―――躊躇なく打撃を加える。私は男が意識を失って倒れる様を見ながら、勢いのまま地面に足を着く。
「ーーー…!!!」
同時に、左肩から背中かけて鋭い痛みが走った。
左手で掴んでいた剣がゴトリと落下する。
首だけで振り向けば、敵兵が剣を振り切った後だった。
まだ、
まだだ。
力が入らず垂れ下がる左腕。
感覚を失いつつある右脚。
「動け…!」
残る右腕でマスケット銃を強く握り、左脚に重心を乗せた。
目の前には敵兵が、追い討ちをかけるため剣を構えている。迷いのない殺意が向けられていた。
殺らなければ、殺られる。
右手に握ったマスケット銃を敵兵の目前に投げる。
数秒。
その時間さえあれば。
視界を、集中を、閉ざせれば十分。
地面に横たわる敵兵の腰から剣を引き抜き奪う。
そのまま渾身の力で剣を振った。
ひゅん、と剣は風をきって振り下ろされる。
おびただしい鮮血が飛んだ。
眼前まで迫っていた敵兵は、事切れたように地に伏す。
返り血で視界が赤く遮られ、軍服の袖で乱暴に拭う。
状況が完全に把握しきれない。
敵兵の数はあとどの程度だ?
「はあ…はあ…」
息が上がり、肩で息をする。
ぬかるむ足元が動きを鈍らせる。
一瞬。
気の緩み。
呼吸を整える程度の時間。
「ーーーーっ…!?」
右腕に衝撃が走る。
反射的に剣を握る右手が握力を失う。
カシャン、と剣が音を立てて落下した。
視線を下げれば、右腕は歪にへしゃげている。
落ち着け。
冷静に。
視界の端で血にまみれた敵兵がマスケット銃を再び振り下ろそうとしている姿を視認する。
弾切れ、鈍器としてしか使用用途のないそれでなお、殺意を向けてくる彼は狂気を纏う。
血走った眼が私を捕らえ、憎しみを、悲しみを、振りかざす。
武器を。
応戦を。
私は麻痺したように動かなくなった両腕を叱咤して、腰からピストルを抜き取り、即座に構えて引き金を引いた。
至近距離。
外すこと自体が難しい程に。
眼前で敵兵は崩れ落ちていく。
「ひゅー…ひゅー…」
喉の奥が鳴っていた。
口の中に鉄臭い味が広がる。
喉が焼けたように痛んだ。
意識が混濁し始める。
痛みはわからない。
傷の程度もわからない。
けれど、今ここで止まれば死ぬ。
「……っ、」
どうして。
体は言うことを聞いてくれない。
視界が白く霞み、立っている力が入らない。
その場で崩れるように、私は倒れた。
背中に弾力を感じ、首を動かせば敵兵の軍服が視界に入った。
敵兵の死体は体温を失い、泥にまみれて転がされている。
血と肉の臭い。
「………。」
ぴたりと、音が止んだ。
「捕虜として来てもらう」
ミシェルの声が宣言していた。
ああ、終わった。
兄はどこなのか。
早く、早く軍医に。
診てもらわないと。
「クロー…!!!」
兄の声に呼ばれた気がして、首を捻った。
温かな手が私の手袋を外し、強く握りしめた。
銀糸の髪が視界に入り、青色の瞳に覗き込まれる。
「…良かった、兄さま」
兄はどうやら無事のようで、こうして私の傍らに来てくれた。
「いますぐ運ぶから動くな!」
焦った様子で兄は声を張り上げる。
「兄さま…ピストル、返します」
私は片手に握りしめていたそれを差し出そうとして、腕が動かないことを思い出した。
ただ震えるだけの手を視線で示せば、兄は苦しそうに顔を歪める。
「クローに預けたと言った!持ってろ」
「けど、これを手放す時は兄さまが死んでしまう時なのでしょう…?」
兄を失うなど考えられない。
だから、受け取って。
お願い。
私を置いていかないで。
ベタベタと、まとわりつく血がこびり付き、ピストルを握った指が開かなかった。
返り血なのか、自身の血かもわからない。
「兄さま…おかえりなさい…」
そこで私の意識は一旦切れたのだった。
後日、母から聞かされた話によれば、兄は下腹部を銃弾が掠り、出血こそしたものの、止血後すぐに戦線の指揮を執っていたらしい。私はと言えば、出血多量によるショック状態で3日間目を覚まさなかったとのことである。
これは、私が14歳の頃の記憶。私が軍を抜け、母が再婚する数ヶ月前の出来事だ。
兄が私を戦場から遠ざけ、父が私を福祉業界に引き込む…その少し前の話。




