1<議案書という名の回覧板>
「ふー……」
長かった。
時間がかかった、とも思う。
ゆっくりと手にある決済書を下ろし、空いた片手で肩を解す――――天井をつい、仰ぎ見過ぎてしまう。
時刻は夕暮れ時。
背後の窓辺から投射された木枝の影が、室内で揺れている。
顎を気持ち角度上げて上目でのみでなぞり……すきま風の強弱を図る。ふむ。さほどではない。良いお天日和である。しみじみと、体の内側から滲み出る疲弊感を味わう。シミジミと。
目を閉じる元気もない。
(疲れた)
乾いている。
心の中にも這い寄るストレスから意識を逸らしたいところなれども、今日のうちに目を通さねばならない議案書が手の内にある。おっさんは奮起する。ここ一番の頑張りどころだ。机上には未だ読み込めていない紙の束が山のように連なっているが、本日のところは見なかったことにして明日出来ることは明日すべきである。明日に回せば捗るかもしれない。そういうことだ。
よし、と姿勢を正し椅子に座り直すと、ぎしぎしと鳴る脚はしっかと一人の男性の体重を受け止める。
視線を手元に落とす。
ぺらぺらと太指で捲り上げていくと、詳細が露わになる。丁寧な字だ。
(流石は書記官の長、といったところか)
彼手ずからのものだ、大事に扱わねば。
書記官長の、それも赤丸つけて届けてられた書類は早急に読み込まねばならないものだった。すでに陽光が地平線向こうに行ってしまって店じまいをしていることに気にも留めず……金髪碧眼の騎士は目元の小じわをさらに深めて読み込んでいく――――が、王太子直属の護衛騎士、騎士団長でもある彼は与えられた執務室にて、その碧眼を大いにかっ開いて驚愕した。
「は?」
おっさん、野太い声が響く。
リディール・レイ・サトゥーン。
私の名前だ。自我はいつ芽生えたのかは不明瞭だが、おぎゃー、と泣いたに違いない。玉のような赤子時代を経て、こうして私はおっさんになった。
日本、という先進国で生きていたのにと訝しんだものの、あの世とこの世の繋がりはそれこそ神でもない限り説明できない。人間、死んでみないと分からない部分がある。
まぁ……生まれ変わってもチンプンカンプンだったが。なんとも生まれ甲斐がない。
(いや、前世、そのものが、どうやって終えたものか)
死んだのかな?
首を捻るが答えは出ない。
男らしさも板についた辺り、なんともいえずあっさりとした風情である。
騎士として死線を潜り抜けたせいで、こうなってしまったと言える。
もうそろそそろ41歳間近。元は女、新たに生を受けて現生でもこき使われる――――若々しさが段々と遠のき始めたおっさんだ。
「うーむ……」
そのため、大概のことはなんとかなると思っていた。
人生経験もそれなりにある。だからか、知らぬうちに鼻が高くなっていたものらしい。ぽきりと折れた音がした。今。
現在、私が読み込んでいる横文字みっしりな議案書がある。
タイトルからして本来であれば通ることのないものだった、それなのに貴族院では通過したものらしい。しっかりと予算にまで言及されている。国王陛下も了承され、書面として書き起こされている以上、これは間違いなく施行されるものだと分かる。
……ただ、その過程を考えると私の頭痛は治まりそうもない。
内容からして、普通であれば通るはずのないものだったからだ。
それが通過した。
私は二度見したが、決して消えない議案書の発案者名。
脳内には、凄まじく反発したがっている貴族どもの跳梁跋扈する姿がちらほらと見えたが、彼の名前からしてそれらの勢いが急速にしぼんだことは想像にがたくなかった。
あらゆる可能性、疑問が浮かんでは消えていく。
どうしてこうなったのか。
分からない。分からないものほど、困るものはない。
(悩ましいものができた)
と私は心底思う。
午前中、出掛けてくると宣言して遊び呆けていた殿下を捕ま……エスコートしてやれやれと肩のこる午後のひと時、溜まりまくった決済書類をようやく片付けてのコレである。疲弊した状態である。親指で手の内側にある硬い剣ダコを撫でさすりながら考えるが、実に頭が働かない。真っ白だ。
(困ったな)
片手で議案書をゆらりと曲げて――――
――――ようやく目を閉じていられたのは、深夜を過ぎてからのことだった。




