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36<王都襲来⑥>

※暴力的な描写があります。

 は、は、は、は、……、


 「くそっ」

 

 振り切れない!

独りごちながらも僕は突っ走る。背後から迫りくる、あの妙な息遣いは気味が悪すぎる。

僕のどこに敵兵が気に入るところがあるのかさっぱりだが、最悪な事態ばかりが頭を巡る。孤児たる自分を追いかけ回すのだ、とんだ変態に違いない。

 (武器もないし……)

 手持ちの保存食はいつの間にやらどこぞへと振り落とされてしまったようだ。突き出た枝に目をやられないように森の中を突っ切ることに必死だし、倒木を踏みつけながらも、この森にも季節の狂いによる根腐れが発生していたのかと思い知らされた。邪魔くさくて仕方ないけれど靴を挟まれないように倒木が重なって道を塞いでいたならば隙間を縫うように潜り抜け、細腕に切り傷を作ってでも距離を稼がねばならなかった。

 (うう……)

 蜘蛛の巣だってあちこちに張られていた。

枯れた葉っぱも体に纏わりついては剥がれる。逃げれば逃げるほどにアリスは疲弊し、頬にも擦り傷が増えていった。

 びしっ、と反発した樹の枝がアリスの目元を擦り付け、痛い、とアリスは悲鳴を心の中でのみ叫ぶ。

声に出すと余計に相手を刺激する可能性がある。それは嫌だった。

 (どうして、こんなことに……)

 這い寄る絶望に苛まれる。

 季節の狂いは教会近くの森にも多大な影響を与えた。

丘陵地帯の水はけの良い土地柄、というものは、空から降り注いだ水をすぐに洗い流す作用があり。

斜めに密集していた森林地帯の土壌に入り込んだ水気が次第に表面化し、少しずつ窪みに溜まっていった。満たされたくぼみは次第に水たまりとなり、点在するようになる。季節の狂いはそれらにも大雨を降り注ぎ、肥大化させ。そのうち導かれるようにして一か所に集まるようになって吸収され、巨大化していった。

 すなわち、湖。

  

 「え、なに、これ!」


 アリスはとうとう水辺に到着してしまう。息切れしつつも、呆然とする。

 (嘘、だって、去年、森の中に入ったとき、こんなもの無かった!)

 王都に売り払うため孤児たち全員が木材を拾ったり、薬草になりそうなものを探したりはしたが、このような地形の変更は聞き及んでいない。他の孤児からも教えて貰っていないことだ。もしかしたらアリスだけが教えて貰っていないだけ、だったのかもしれないが、毎日の大雨。去来する気候。季節の狂いの影響。

 アリスはつと、そのことに思い至るが、まさかここまで大いに森が荒れるなんてと打ちのめされた。

 (この森はこの方角に進んでいけば、

  間違いなく教会へたどり着くはずだったのに)

 アリスは何も無我夢中で逃げ惑ったわけではない。

雲に隠れたり現れたりする月で方角を確かめながら、大回りをしていたのである。

 肩で息をしながらも、湖と化した水面を走る月の光を横目に、頭を働かせる。

 (そうだ、ここが駄目、なら、この底が見えない水の中に……、

  駄目だよ駄目、僕は水が苦手なんだ、泳げないし……)

 げほ、げほと咳をしつつも、絶望よりも恐ろしい諦め、というものが近づいていることを悟り始めていた。

 太ももの筋肉ががくがくだし、震えている。

 腕ももう振りたくないし、栄養だってここ最近足りていない。ましてや今日はあまり食事を摂っていない。王都の、酷いものを目撃してしまったせいでそもそもの話、胃が受け付けないが。

 駄目かもしれない。

 

 「…………」


 がさ、と。

短く生えていた緑葉を踏みつける音がした。

 びくりと体がぎくしゃくとする。

 焦燥にかられるが、もはやどうしようもない。

 

 「……くそったれ……」


 僕の独り言は、ずいぶんと大きいものだった。

それなのに、相手はあまり気にしないでいる……。


 「あんた、一体なんなの……」


 振り返り見る僕が睨みつけても。


 「こんな夜に、子供をひとり追いかけて。

  それが大人のやることなの?」


 どれだけ悪態をついてもただの孤児だから、だろうか。

相手にはとんと響いていないようだった。

 ちっ、と舌打ちしたい気分になった。


 「気持ち悪い……」


 震え声の僕がどんな発言をしたって大したことがない、と分かっているようだ。

 実際その通りなのだから、腹立たしいことだ。

 黒づくめの兵である。

蠢く黒い森の奥から、暗闇を引きずって出てきてしまった。

 アリスよりも二つ、頭が抜けているだろうか。

踏みしめる靴はアリスよりも良い素材のようで、泥だらけであってもきちんと走れるような長靴だ。枯れた葉っぱも千切れて付着している。

 身体全体を覆うその妙な服装は長い布で出来ており、中の人間の顔形を完全に隠ぺいしている。

 しかし、アリスには分かる。

 こいつは男、だと。

女にしてはあまりにも背丈がありすぎるし、肩幅もあった。体躯もいい。挙動もキビキビとしていて、ちっとも疲れがみえない。鍛えられた兵なんだろう。ますます最悪だ。最悪な事態だ。

 男は、ようやくたどり着いた先にいる獲物であるアリスを視認した途端、堂々とした歩みに切り替え。

死にもの狂いで逃げた孤児が、もうこれまでと観念しているのを分かっているのか、あるいはもう逃げ切れないと嵩を括っているのか、ずいぶんと余裕な態度で、縮こまっているアリスのほうへと歩み寄ってくる。

 後ずさるも、その片足の軸に力が乗らない。背後は湖。もはや逃げ場はなく、現状ひとりぼっちの、庇護者のいない孤児でしかないアリスに猶予はない。

 (……あんな目に遭うぐらいなら……)

国境沿いの村は寒村で、基本的に水で泳ぐなんていう趣味は持ちようがなかった。

 (憎しみに果てはない)

 憎しみは確かに捨てることはできないが、消すことが難しいものでもある。

ふとした拍子に蘇り、自分自身を苛む。

 黒づくめの男は贄を嬲るためか、数歩ずつ、もったいぶって歩み寄ってくる。

 ぴちゃ、と。

 アリスの踵が水辺の水分を含ませた。

踏みつけた足跡は深く沈んだ。

 敵は、間違いなく僕を――――






 絶望に叩き落とした。


 「うあ!」


 まず、敵の方が何枚も上手だった。

大人に勝てる要素なんて倒れ込んだアリスにはなかったのだから、当然の帰結ではあった。

 

 「は、離せ!」


 相手はなお暴れるアリスをぐっと引き寄せようとするが、アリスがあまりに暴れるものか、少年を地べたに縫い付けるため、背中に体重を乗せてきた。膝が柔らかな孤児の背を容赦なく押し付ける。

 痛みのあまり、弓なりに曲がった背。ぐぅ、と肺から空気が抜ける音がした。

 (ちくしょう、くそ、どうして、こんなこと、ありえない、

  どうして、どうして、どうして)

 ぶちぶちと、アリスの桃色の髪が抜ける。

 我武者羅に腕を回し、うつ伏せ状態のままに力を籠めて地べたを這いずり回ろうとしたが、敵の方が上手だ。あまりにも相手が重く力を籠めて背骨あたりも押し込まれているため、二の腕の構造上、相手に届かないし、どれだけ力を入れてもアリスは自分の身体さえままならず。微動だにしなかった。

それでいて、アリスは恐慌状態に陥っている。

 過去の記憶もそうだが、相手が。


 「ひ」


 奴は、孤児の背中を上着から撫で回している。

 (やだ、やだ、やだよぉ)

 夜の空気と共に敵兵の指が服の内側に入り込んでくる。

生々しい虫の細い毛足よりも不快で、わき腹をじっくりとなぞるような所作に吐き気を催す。


 「う……」


 頬にめり込んだ土の冷たさは、間違いなくこれが現実だと知らしめた。

じわりと滲む視界は、過去の再来。最悪の再来だった。

 それでも。歯を噛み締める。

 (僕は、諦めない)

 爪に力を入れ、地べたの土を、水気を含んだ土の塊を握りしめ。

 機会を伺う。

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