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35<王都襲来⑤>

 (ようやく帰れる)

 

 僕はその一心で足を動かしていた。正直クタクタだった。

靴だってあちこち歩きまわされて泥だらけだ。上着もそう。蹲ったり、敵兵に見られないようにとうつ伏せになったせいで酷い有様だ。必死だったとはいえ確実にこれは怒られる。三つ編みの彼女は口うるさい女子だが、(正直、睨まれるのも嫌だけど、)でも、こざっぱりとした性格だ。もう! と叱責されて終わりだろう。なんだか懐かしささえ感じる声が脳裏に蘇った。たった一日、遠出しただけだというのに、なんだか胸にこみ上げてくるものがある。

 

 「嗚呼、」

 

 あの月明かりに照らされている教会の屋根を見詰めれば、ほっとする。

畑のラベンダーがそよいでいる。畑を突っ切れば、教会へと続く道がある。王都周囲と異なり、ここは水はけが良いからか想定以上の大雨が降っても緑が死滅せずに済んだ。一歩一歩、着実に進む。あと少しで無事に到着、皆にあれこれと外の現状を知らせることができる。良い話ではないが、しかし、これからどうすべきか、今後の指針にはなるはずだ。

 

 「あと少し」


 そう零してしまうほど、僕は疲れていたのかもしれない。

夜の静けさというものは冷えた空気を孕みながら、物音というものを過敏に伝えてくる。

 ――――目を瞠った。

 夜闇が震えたのだ。

 (な、何……!?)

 今、僕の耳が捉えたのだ。

 バキリ、と不謹慎な音。

ぞく、としたものが背筋をするりと抜けていき、次いで全身が泡立つ。靴の中にある足の指がふわ、と浮足立つものの、進みそうになった片足を畑に縫い止める。

 慌てて振り返ると、そこにはぽっかりとさも穴の開いたかのような暗闇ばかりが広がっていた。

 (う……)

 正確には、孤児を包み込むように広がっているラベンダー畑である。その只中に僕は怯えた目をして立ち尽くしている。目を頑張らせて凝らして見やれば、木々があった。まばらな木立、そこから森へと続いている。僕はその手前を突っ切って教会へと向かうため畑の道を選んだが、あの森は真実何もない。燃料として樹枝を拾う以外、特に用のない土地だ。薬草も森の中を探してみた昔諦めた所である。滑らかな丘陵地帯に沿って存在している。

もし敵兵が忍び込んできたとしたら、故郷の村で多用されていた熱冷ましでさえ生えていなかったのだ、切り傷を治す薬草もあるいは敵兵の国では認められているものが生えているのかもしれないが、少なくともこんな夜に探すべきものではない。夜はどんなに山に達者な人間でも迷わせ、惑わせる。それに何よりも平地よりも黒が深い。漆黒なのだ。

 (夜の海、も相当暗いというけれど)

 基本、自然に人間が勝てる要素はさほどにない。

父の教えを胸の内で供述しながらも、僕は緊張に支配されつつある身に負けじと歯を食いしばり、物音がしたとおぼしき森の奥を射抜くように見詰める。

 遠いが、しかし丘陵地帯のなだらかな斜面にあるその森の入り口は化け物の口のように、大いに一介の孤児を戸惑わせる……。 


「……」


 しばらく、そうしていた。

 結果、何事もなければ。そう願わずにはいられなかったが、しかし。

みなぎるもので凝り固まっていた筋肉が少しずつ緩んでいく。

 なんだ、気のせいだった。

きっと森の獣が踏みつけた枝か、あるいは木々のしなやかに伸びた手足のごとき枝が落ちたのかもしれない。季節の狂いはいくら水はけの良い土地であっても、それなりに痛めつけた。水分を吸収することが叶わず、水中毒のようになって儚くなる木々だってあってもおかしくはない。

  

 ――――ただ、現実というものは、残酷なもので。

 

 「あ……」


 黒い闇が蠢いた。

再び身を固くして現状を見守っていた僕は、今更ながら武器になるものが手にないことを知る。保存食を投げたくはなかった。数少ない今後の延命になるかもしれないのだ、僕だけの食糧ではない。そのことを、孤児たるアリスは把握していた。

 だからこそ、その暗闇から飛び出してきたものに対処しきれなかったともいえよう。


 「え、うわ!」


 深淵を引きずり生み出されたものは、確かに禍々しいものだった。

なんせ、希望する四つ足……獣だったとして、それはそれでただの孤児には手に余る生き物だ。腹の減らした獣は人間の子供なんて簡単に仕留められてしまう。ただ、獣は獣の理を上手く利用すればなんとかなるかもしれなかった。それ以上に厄介なのは、言葉が通じる同郷の人間ではない者。すなわち、見覚えのある、二足歩行の黒づくめ。

 (ひ、)

 声にならない声が口の中で木霊する。

 敵兵と同じ恰好、だった。

 黒い外套らしきものをまとい、こちらに駆け寄ってくる人の形。

足らしきものが絶え間なく上下し、手足もあるようだ。外套から覗く手足は森の木枝のようにしなやかで、太い。それもまた黒いもので覆われていて、中の上着も黒一色なのか、とアリスは他人事のように呟いた。そう、他人事。

 まるで時間が過ぎるような、そんな空気に僕は居たんだ。

ゆっくりと走り寄ってくるような感覚。翻る外套の裾。恐ろしいものだというのに、僕は瞬くことしかできない。恐怖で石像にでもされたかのように、身動きできなかったのだ。

 事実、ただの孤児に何が出来よう。

 またたく間に、それは僕の前にやって……、


 「っ……!」


 僕は両手を上げ、目を瞑った。

一陣の生温かな風が吹き抜ける。世闇を含んだ風だというのに、どうしてか温かみを感じた。

 (何故……?)

 そんな疑問をもたげたと同時に、何も起きない現状。

怖かったが、ゆっくりと。ゆっくり、と目を開けると。

 そこには何もない、先ほどの森の出入口、周りのラベンダーがそよぐばかりであった。


 「え……?」


 何が起きたのか。

きょろきょろと左右を見渡し、震える腕を下ろした。何も異変が無くてまるで夢をみているかのような気持ちになり。念のためまたラベンダー畑を見回し、まったく変化がないのを知って心持ち余裕を持ち始め、脈打つ心臓を落ち着かせた。

 このまま立っていても、どうしようもない、とつと、教会へと体を反転し視点を変えた瞬間。


 「ひっ!」


 それは、居た。

黒い外套が直前にあり。


 「は、はぁ、はあ」


 変な、喘ぐような声が耳触りだった。

恐る恐る顔を上げれば、それはアリスからするとずいぶんと慎重があり、上背もあり。

 見下ろされていた。否、上から覗かれていたのか。

目と目が、合う。

 じっくりと見つめ合う。見上げ続けた。

 数分か、あるいは数秒だったのかもしれない。キラキラと反射する眼光。肉食獣に睨まれたカエル。互いに生きた双眼が見合い、大きく見開いたアリスの頬に、何かが落ちてきた。生温かな汁だ。

 生臭い、獣の臭い。

鼻腔につん、と饐えた臭いがした途端。

 

 アリスは逃げ出した。

目の前に教会があるというのに、まるで誘われるかのように森のほうへと駆け出していく。


 アリスの記憶、蓋に閉じ込めてあった残酷な過去が、一介の遁走する孤児に対し慌ただしく当時感じた痛みを読み上げてくる。掘り起こしたくはない、だが、いつまでも消えることのない苦しみ。理不尽への怒り。息苦しいもの。そういった、過去が、アリスが走るたびに追いついて、あの時、どうだったか、こうだったか。自分の、かつて人とは思えぬ声を上げていた自分自身の悲鳴さえも、蘇ってきた。

 はあ、はあ、と誰かの荒々しい息が聞こえるようで、アリスは耳を塞ぎながら、懸命に森の奥へ、奥へと。暗い森の奥へと逃げた。そこでどういった危険があるのか、頭では分かってはいても。

 心が、暴れていた。

アリスは、自分を助けるために。暗い森へ、踏み入ってしまった。 

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